第一夜.大視聴覚室の大鏡


 その日は酷く暑かった。四時を過ぎたにも関わらず、太陽は容赦なく照りつけてくる。午後に入ってから小刻みに与えられる休憩時間のひとつを使って、切原はテニスコートから少し離れた場所の水道までやってきていた。
 今日は珍しくグラウンド整備が行われていて、野球部を始めとしたグラウンドを使用する部活は、全て休みらしい。お陰で、本来はグラウンドで練習している部活動の人間が使用するべき水道が使えるわけである。もちろんテニスコートの近くにも水道はあるのだけれど、そこは多くのテニス部員が使用する為、常に混雑している状態なのだ。
 普段は陸上部とサッカー部が使っている、今は人気のない水道で顔を洗い、首に掛かったタオルで拭いている時だった。ちょうど真正面に見える校舎の廊下に、見慣れたジャージ姿が映った。栗色の明るい髪と、誰よりも小柄なその体型を見て、すぐにマネージャーのである事に気が付いた。
 彼女は真っ直ぐ切原の前を横切り、姿を消してしまった。どうせドリンクでも作りに行くのだろうと、大して気にも留めずに踵を返そうとした時、ふとある疑問が思い浮かぶ。

 「あれ? 今日って校舎は閉まってるんじゃ……?」

 今日は文化部も練習が無く、校舎は全て施錠されている。今日校内にいる教師は誰も居ないし、名ばかりではあるが、テニス部の顧問は外に出ているから、今日は校舎内には誰ひとりいない筈なのだ。いくら古い学校と言えど、校舎が閉まっている時にはセキュリティも動いている。
 ならどうして、は校舎内に居るのだろうか。もし施錠がされていないのなら、忌まわしい程頭の上に居続けている太陽から逃れられるかもしれない、と切原は昇降口に足を向ける事にした。
 昇降口のドアから中を覗き込んでみても、そこは電気が点いておらず薄暗い下駄箱が並んでいるだけ。試しにドアを押してみると、意外にもそれはすんなりと開いた。いつもは気にしない、ドアの軋んだ音がその場に響く。冷房は入っていない筈なのに、校内の空気はひんやりと冷たい。
 切原は汗ばんだ身体を冷やしてくれるその空気に惹かれるようにして、校内に足を踏み入れた。普段では考えられない、シンと静まり返った校内。誰ひとりいない校舎、と言うのも初めてだ。妙な胸騒ぎを覚えつつも、切原は上靴を履きかえると、シューズをそのまま放置して中に入る。
 誰ひとり居ない、と言うのは語弊があるかもしれない。マネージャーは、校舎内に居る筈なのだ。彼女が通り過ぎた先に昇降口は無いし、まだ校内に居るだろう。

 「、センパーイ」

 そんなに大きな声を出したつもりは無いのだけれど、切原の声は良く響いた。廊下に出て、の消えて行った方向を見やる。生徒と言う障害物が無い、真っ直ぐに伸びた廊下。は確かにここを通って、向こう側に行った。彼女が向かった先には何があるのだろうか、との見えない残像を追いかけるようにして、切原も歩みを進める。
 切原の履いている上靴が、歩くたびにキュッ、キュッと耳障りな音を立てた。時折の名前を呼んでみても、何ひとつ反応は返っては来ない。ひとつひとつの教室を覗きながら歩いていくと、すぐに行き止まりになってしまった。残された道は、西階段のみ。上を見上げながら耳を澄ませてはみるものの、不気味な程静まり返っていて、何も聞こえはしなかった。
 (上に居んのかな……?)
 眉をひそめて、階段を上る。二階は三年生の後半半分のクラスがあるが、ここを訪れた事は殆ど無い。切原と仲の良い丸井のクラスは、ここではなくもう一つ上にあるからだ。
 けれど、もしかするとはこの階に自分のクラスがあって、忘れ物でも取りに来たのかもしれない。そう考えて階段から廊下を覗きこむと、遠くの方で何かがちらちらと動いているのが見えた。
 目を凝らしてみても、それが一体何なのかは解らない。真っ黒い何かが、ふよふよと形を変えながら蠢いている。こういうものを見てしまうと、真っ先に確認しに行きたくなってしまうのが性分。切原は動いているモノを確認する為に、半ば小走りで廊下を走って行く。
 近くになるにつれ、それがカーテンのようなものである事に気が付いた。しかし、教室内にあるクリーム色のカーテンではないし、何しろそれは教室の入り口から飛び出している。

 「暗幕……?」

 それは分厚い暗幕だった。その教室に面した廊下の窓が何故だか開いていて、薄らと開かれた教室の入り口に掛かっていた暗幕が、その風を受けて動いていただけらしい。不思議に思いつつも廊下の窓を閉めて、その教室のプレートを見上げる。「大視聴覚室」。視聴覚室は知っているけれど、大視聴覚室なんてものが立海にはあったようだ。
 神奈川の学校でもトップの面積を誇る立海に一年半通っていても、こうして知らない教室があったりするのは日常茶飯事だった。十センチ程開いている引き戸を開いて、暗幕を避けるようにして教室の中を覗く。人の姿は見当たらなかったものの、それ以上に目を惹くものが飛び込んできた。
 (うわ、デカッ!)
 本来なら後ろ黒板がある筈のそこに、二メートルを超えるであろう大鏡が置かれていた。縦長のその鏡は金色に輝く凝った装飾が施されていて、パッと見ても高価なモノであると解る。確か、骨董品類が好きな理事長が、どこかの問屋から買ったものではなかっただろうか。
 少し前の全校集会で聞いた覚えはあるけれど、理事長は飾っている場所については何も話していなかったし、切原自身も全くもって興味が無かったので、完全に頭から抜けていたのだ。

 「すげえ……こんなんあったのかよ」

 鏡の前に立って、周りの装飾を呆然と見上げる。鏡の両サイドから竜と思わしき身体が伸び、上で互いの首を結びこちらを見つめている、竜の鋭い瞳と目が合ったような気がして、切原は慌てて鏡自身に目を向けた。少し間抜けな顔の自分と目が合って、少しだけ恥ずかしくなる。
 鏡には傷など全くなく、とても綺麗な状態だった。クリアな鏡に惹かれるようにして、切原はそっと手を伸ばして鏡に触れようとした、その時だった。

 「!!?」

 伸ばされた切原の腕を、真っ白い手が掴んだ。一瞬訳が解らず、切原は反射的に腕を引こうとするものの、気持ち悪いほどに冷たい手は全く外れてくれない。どう見てもそれは、人間の色ではなかった。混乱した切原は、その真っ白い手が伸びる行き先を見て、ゾッとした。
 鏡の中から、それは生えていた。肘から上は鏡の中に埋もれてしまっていて見えず、更なる恐怖心を駆り立てる。パニックのままもう片方の手で手を外そうとしても、それはビクともしない。それどころか、鏡の中からもう一本腕が出てきたかと思うと、切原のもうひとつの手を掴んで、呆気なく鏡の中に引きずりこんでしまった。
 切原の声にならない悲鳴だけが、その場に残された。