第二夜.裏庭のフランス人形


 「あれ……赤也が居ねえな」

 最初に気が付いたのはジャッカルだった。休憩時間明けに行われるラリーの相手が切原だったのだけれど、切原はコートへ戻ってきて居ないらしい。時間には少しルーズな切原だが、休憩時間後に遅刻してくる事は滅多に無かった。とは言っても、日頃の練習からか休憩時間中に木陰で寝てしまい、真田から大目玉を喰らった事はあった。
 それでも、その日以来そんな失態を犯すような事は無かったわけで、ジャッカルは首を捻るしかなかった。とりあえず幸村に報告しておこうと、今まさに真田とラリーを始めようとしていた幸村の元へ行くと、幸村は怪訝そうに眉をひそめてこちらを見た。

 「幸村、赤也がまだ帰ってきてないらしい」
 「何だって? 仕方ないな、アイツは。ジャッカル、すまないが探してきてくれ」
 「ああ、わかった」

 どうせ、そこらで寝てしまっているのだろう。そんな気持ちで、ジャッカルはテニスコートを後にした。
 まずは切原が普段から休憩している、テニスコートの裏の大木。けれどそこには、人が居た形跡すらない。ここはテニス部用の水道から少し遠いのもあって人気が無いのだけれど、今日は普段なら居る筈の切原も居ない所為か、より一層寂れた場所に見えた。
 テニス部用の水道には一般部員達がたくさん集まるし、疲れた時にそう言った人ごみを嫌う切原は、恐らく別の水道へ行ったのだろう。日頃から切原と接している分、彼が何を考えるのかは、薄らとだが解る。ジャッカルは小さく溜め息を吐いて踵を返し、グラウンドの水道へ向かった。
 陸上部とサッカー部用の水道を使った形跡はあるものの、てっきりその近くにいるかと思いきや、切原の姿は見えなかった。ふと、水道の真正面にある校舎に目を向ける。今日は学校が閉まっているようで、外から見える廊下は酷く薄暗かった。校内に入る全ての入り口は閉め切られている筈だし、流石の切原も入りはしないだろう。
 (まさか……な)
 ジャッカルは思わず苦笑を浮かべて、校舎から目を逸らした。
 しかし、彼がどこまで行ってしまったのか、ジャッカルは見当が付かなかった。切原が行きそうなところは全て調べたにも関わらず、彼の姿は一向に見えない。もしかすると、数分の差ですれ違いになり、テニスコートへ戻ったのだろうか。しかし、もしそうだとすればここまで真田の怒号が聞こえてきても可笑しくはない。

 「どこに行ったんだよ、赤也のヤツ……」

 こうなったら、ここからテニスコートまでの道を調べるしかない。いくら切原だって、帰ってくるのが遅くなるような遠い場所に出向いたりはしない筈だ。グラウンドの隅を真っ直ぐ抜けると、昇降口に出る。昇降口から見て、右側に行けばテニスコート、左側に行けばグラウンド、真っ直ぐ行けば校門という造りになっており、グラウンドとテニスコートの間にはかなりの距離があった。
 そのテニスコートに向かう途中、ジャッカルは裏庭に抜ける道に気が付き、ふとそちらを見やる。
 裏庭には何度か行った事はあるけれど、大きな校舎とたくさんの木々の所為で、昼間にも関わらず酷く薄暗い印象だった事しか覚えていない。と言う事はすなわち、太陽が当たらない、休むのには絶好の場所と言う事である。
 (裏庭か……?)
 ジャッカルは少し迷った後、裏庭に足を向けることにした。
 確かに裏庭は、昼間にも関わらず少し薄暗く、ひんやりとしていた。鬱蒼と茂っている木々の下は雑草が伸びており、ここにわざわざ来るような要素は何ひとつなかった。表とは違い、酷く寂れている印象しかなかったのだ。
 一番奥まで見渡せる裏庭にも、人の気配は全くといって無かった。しかし、あるものがジャッカルの目に留まった。

 「なんだ、あれ?」

 ここから少し離れているところに、何かが落ちている。それが何だかは解らないけれど、ジャッカルは知らぬ間にその物体に向かって歩き出していた。伸びた雑草に紛れるようにして置かれていたそれ。近づいてその物体が何であるかを理解すると、ジャッカルは軽く頬を引きつらせた。
 無造作に置かれていたそれは、薄汚れたフランス人形だった。金色のくるりとカールした髪の毛と、多少なりとも泥がついてしまっているピンク色の頬。ガラス細工なのだろうか、微かに青みかかった綺麗な色の瞳は、ぼんやりと虚空を見つめている。
 人形が着ている服は、フランス人形に相応しいもの。ピンクと白のレースをふんだんに使用した、可愛らしいドレスである。けれど、そのドレスもところどころが破れ、汚れてしまっていた。

 「つーかなんでこんなモンが落ちてんだよ……」

 悪戯にしては性質が悪い。学校の裏庭に落ちているだなんて、不釣り合いにも程がある。ジャッカルは思わず眉を顰めて顔を背けたけれど、すぐにその目を戻してしまった。
 貧乏性の性と言うか、こうやって捨てられているものをみると、どうしても拾ってしまいたくなるのだ。とは言っても勿論持ち帰ることはせず、近くのゴミ捨て場か何かに移すだけなのだけれど。とは言っても、薄気味悪い人形を手に取るのは、確かに躊躇われる。
 でも、迷っていたって仕方が無い。探している切原は見つからないし、見つからないまま戻ったってジャッカルが怒られるだけなのだ。
 ジャッカルは大きく息を吐き出して頭を掻くと、数メートル先に落ちているそのフランス人形を、そっと拾い上げた。刹那、ジャッカルの意識は暗転した。



 * * *



 「たるんどる! ジャッカルまで戻って来ないとは、どういう事だ!!」
 「弦一郎、うるさいよ。それは二人が帰ってきてから言ってくれ」

 切原とジャッカルが戻って来ない事で、コート内は殺伐とした雰囲気に包まれていた。幸村は無言のままピリピリしているし、真田に関してはその怒りを隠そうともせず、誰かれ構わずに怒鳴り散らしている。近くのコートでラリーをしていた仁王と柳生は、黄色い球を行き来させながら顔を見合わせた。
 切原はまだしも、ジャッカルまでとなると、少し可笑しいのではないだろうか。長年パートナーをやっているからか、お互いが考えている事は何となくではあるが伝わってくる。
 とは言っても、今は部活中。幸村や真田の恐ろしさは十二分に解っている筈なのに、二人は一体どうしているのだろうか。ジャッカルはまだ探しているのかもしれないが、切原は入れ違いで戻ってきても良い時間が経過してしまっている。
 隣のコートで柳とラリーをしている丸井は、正反対の態度であろうとも完全に切れている二人をちらりと見やる度に肩を竦ませていた。

 「我慢がならん、俺が探しに行く」
 「頼む。……けど、十分以内に帰ってきてくれ。例え二人が見つからなかったとしても、必ず」
 「何故だ?」
 「そんなの、決まっているだろう。これ以上部員が欠けると、練習に支障が出るからだ」

 俺のラリーの相手は、弦一郎だろう。幸村の言葉に、真田は頷く。そして手にしていたラケットをベンチに置くと、そのままフェンスの扉をくぐって出て行った。
 誰もがこれで解決すると思っていた。十分以内に真田が二人を探し出し、叱りつけながら戻ってくる姿を思い浮かべていた。いや、もし見つからなかったとしても、約束は絶対に守る真田の事だ、必ず帰ってくるだろうと、誰もが胸を撫で下ろしていた。
 けれど、その真田ですら、十分経っても戻ってくる事はなかった。