第三夜.消えた仲間たち


 誰がどう考えても、この事態は異常だった。真田は、交わした約束を破る事など絶対にしない。昔から気心の知れている幸村相手ならなおのこと。その幸村と、十分以内には絶対に帰ってくる事を約束した筈なのに、無残にも時計は三十分の時を刻んでしまっていた。
 一般部員達は少し離れたコートで練習しているから、まだこの異常事態には気が付いていなかった。けれど、レギュラー陣の間では言い知れぬ不安と、険悪の空気が漂い始めている。
 幸村はベンチに座ったまま微動だにせず、十分を過ぎた頃から俯いていた。それが不安や悲しみから来るものなのか、それとも激怒の念から来るものなのか、誰にも解らなかった。練習内では、居なくなった三人とペアを組まねばならないメニューもあるし、なかなか思い通りには動いてくれない。
 そんな中、漸くラリーを終えた柳と丸井が、幸村の元へやってきた。漸く西日に傾いた太陽だけれど、日差しはまだ強い。タオルで首筋を伝う汗を拭いながら、柳は幸村を見下ろした。

 「精市、顔を上げてくれ」

 案外すんなりと、幸村は柳を見上げた。ちょうど太陽と重なったのか、幸村は眩しそうに少しだけ顔を顰めている。しかし、その表情には不安も怒りも、何ひとつ含まれてはいなかった。
 幸村の反応にビクビクしていた丸井も、それを見て不思議そうに目を丸くする。約束を破る人間をあれ程嫌っている幸村が、表情に全く出さず、普段通りにしているのだから、丸井の反応は至極当たり前の事だった。
 幸村は柳と目を合わせると、途端に眉をひそめて難しそうな表情を浮かべた。

 「俺は弦一郎を信頼している。アイツが約束を破る事は絶対に無いと、そう言い切れる」
 「それは俺にも言える事だぞ、精市。今までにない異例の事態だ。彼らの身に何かあったと考えるのが妥当だな」
 「でも、たかが学校内なんだ。校外ならまだしも、事件性は無い」
 「レギュラー陣全員で探しに行くべきだろうか。それとも、俺と精市のみで探しに行くか?」
 「俺と蓮二が仮に戻って来なかったら、混乱は免れない。ここは、もう練習を切り上げて全員で探しに行こう」

 隣で会話をしていた二人の目が、同時に丸井へ向いた。丸井はびくりと肩を跳ねさせ、同意するように頷く。一般部員に召集を掛ける為に立ち上がった幸村の後ろ姿を見て、柳は薄らと笑ってみせた。だから部長を務められるのは、彼しかいないのである。
 こういった異常事態に陥っても、幸村は冷静さを欠くことなく、何が一番得策なのかを考えていたのだ。きっと幸村の中にも少なからずあるであろう不安は出さず、怒りの念を消し、帰って来ないメンバー達の為に、こうして動いている。丸井もまたそれに気が付いて、胸を撫で下ろしつつ、頬を緩めた。
 すると、仁王と柳生もラリーを終えたのだろう、こちらへやってきた。一般部員の元へ向かっていく幸村の姿をちらちら振り返りながら、二人は怪訝そうな表情を見せている。

 「これは、どういう事ですか?」
 「弦一郎が帰って来ないのは二人も気付いているだろう。これ以上混乱を招かないよう、部活は切り上げる」
 「ほお、幸村はそれで向こう行ったんか。でも、俺らは違うんじゃろ?」
 「三人を探さねばなるまい。これが何らかの事件に関係しているようなら、警察にも通報するべきだし」
 「でも……大丈夫なのかよ?」
 「赤也達は、一人ずつ行方不明になっている。大人数で行けば現場や状態把握が出来るし、通報もし易い」

 柳の説明に三人が頷いたところで、一般部員のコートから号令の声が聞こえてきた。その声に反応して振り返れば、一般部員達が一斉に片づけ始めたのが見える。幸村は一般部員内でのリーダーである山口に何やら耳打ちをすると、そのままこちらに帰ってきた。

 「山口には、俺達が戻って来なくても帰るよう言っておいた。さて、あの馬鹿達を探しに行こうか」

 幸村が口元をつり上げて笑ったのを見て、丸井は気付かれぬよう肩を竦めて明後日の方向を見やって小さく呟いた。見つかったが最後、と。



 * * *



 幸村達は、校舎近くの水道までやってきていた。切原が休憩場所として使っている場所を一通り回ってからである。けれど何処にも三人の姿は見えなかったし、形跡すら残っていなかった。
 日はすっかり傾き、オレンジ色の夕日が今にも沈みそうに光っている。淡いオレンジ色に照らされたグラウンドを横切り、校舎に面している水道までやってきたところで、丸井は目を疑った。
 幸村達は周りを見回していて気が付いていないが、ほぼ暗闇と化した薄暗い校舎の中に、見覚えのあるキャップを見つけたのである。普段から見慣れているキャップと、暗闇の中で微かに浮かび上がる辛子色のジャージ。真田は今まさに目の前を通り過ぎようとしている。

 「なあ、幸村。あれ、真田だよな?」
 「どれだい? ……何で、校舎の中なんかに」

 慌てて一番近くにいた幸村のジャージを引っ張り、丸井は真っ直ぐ校舎内を指差した。幸村は意味が解らない、と言った様子で眉を顰める。今日校舎内が全て施錠され、閉め切られている事は、幸村だけでなくテニス部員なら誰もが知っている事だったからだ。
 幸村はすぐに動き出すと、真田が歩いている廊下に面したガラス窓をノックして、こちらに気づかせようとした。けれど真田は反応しないどころか、全く気が付いていないようだった。
 そうこうしている内に少し離れた場所にいた柳達三人も集まってきたが、現状は変わらない。真田は全く気付かないまま、幸村の目の前を通り過ぎて行く。
 ダン、と窓ガラスに拳を叩きつけて大声で呼びかけても、真田は全く反応してくれないのだ。

 「どうなっとるんじゃ、これ」
 「どう考えても可笑しいな」
 「おい! 真田! 返事しろい!!」

 丸井の声は、思いのほか良く響いた。けれど、真田はそれに反応しないまま、西階段を上って行ってしまった。幸村と柳は顔を見合わせ、何やら不穏な空気を漂わせている。ただの廊下に防音設備はされていないし、あれ程大きな音で窓ガラスを叩いていたら、気付かないわけがない。
 真田は意図的に、自分達を無視したのだ。幸村は額に青筋を浮かべ、西階段を上って行く真田の後ろ姿を睨みつけた。氷のような眼差しに、丸井はそっと柳の後ろへ回り込む。

 「でも、可笑しいですね。今日は閉め切られている筈ですが」
 「しかし、弦一郎が校内に居ることに変わりはない。全員が視認しているから、気のせいではないだろう」
 「昇降口は開いとるんかのう?」
 「試しに、行ってみるか。……なあ、幸村くん?」
 「そうだね。弦一郎、見つけたらただじゃおかないよ」

 幸村はにっこりと笑ってみせると、踵を返して昇降口の方向に向かって歩き出した。後ろ姿からでも解る、幸村の怒り具合に、あの柳でさえ手がつけられないとばかりに肩を竦めた。
 人気の全くない昇降口は、まるで五人を招き入れるかのようにほんの少しだけ開いていた。内側からかけられている筈の大きな南京錠は外されており、足元に転がっている。ギイ、と錆ついた音を立てて中に入ると、全く電気が点いていない所為で、ほぼ真っ暗の状態に佇む下駄箱が姿を現した。
 気持ち悪いほどに静寂に包まれた校内。ふと、柳が二年生の下駄箱前でとあるものを見つけた。乱暴に脱ぎ散らかされたシューズ。最近新しいものを買って貰ったばかりなのだと、自慢していた後輩の笑顔が、ふっと脳裏に蘇る。

 「赤也のシューズ、だな」
 「げ、赤也も中に居んのかよ。揃いも揃って、何でまた」

 けれど、近くに真田のシューズは見当たらない。きっと几帳面な彼の事だから、逐一自分の下駄箱に入れて履き換えたのだろうと、下駄箱の中は確認せず、幸村達は中へ入って行く。
 そのまま真田が通ったと思わしき廊下を突き進んで、西階段を上がった。電気はひとつもついておらず、外からの光だけが頼りだ。自分達の足音以外何ひとつ聞こえてこない校舎と言うのは、何とも不気味なものである。
 西階段を上り、折り返し地点の踊り場にやってきた時、一番前を歩いていた丸井が足を止めた。すぐ隣にいた幸村がどうした、と問う間もなく、丸井は真っ直ぐ鏡を指差して叫んだ。

 「ジャッカルが居る!!」
 「何、だって? ……どういう事だ、これは」
 「鏡の中……?」

 踊り場に設置されている姿見の中に、探し人の一人であるジャッカルが映り込んでいたのだ。ジャッカルは折り返した階段の途中に立っているが、それは鏡の中だけだった。何度ジャッカルが映っている階段を見ようとも、そこには彼の姿など全く見当たらないのである。
 ジャッカルは丸井達の存在に気が付くと、大きく目を見開いた。そして、必死の形相で首を横に振る。何かを叫んでいるようだったが、その声は聞こえてこない。相方の尋常ではない様子を見て、丸井は混乱を引き起こした。酷く戸惑った様子で、鏡の中のジャッカルを見つめながら、静かに鏡へ近づいていく。
 するとジャッカルはより一層驚いた風に目を見張らせて、激しく首を横に振る。どうやら、足元が全く動かないらしい。こちらに駆け寄る事も出来ないようで、丸井を見つめている。
 丸井が、ジャッカルの映り込む鏡に触れた、その時だった。

 「っうわ!!!」

 突如鏡の中から真っ白い手が現れたかと思うと、その手は丸井の二の腕をしっかりと掴み、強い力で引きずり込もうとし始めたのだ。全くの無抵抗状態だった丸井は、呆気なく鏡の中へ引きずり込まれる。突然の事態に驚いた幸村は、慌てて丸井のもう片方の手を掴んだが、白い手の力は並大抵のものではなかった。
 鏡の中のジャッカルは、今にも引きずり込まれそうな二人を見つめながら、歯を食いしばっている。何かを叫びながら首を振っているけれど、白い手の力は一向に弱まらない。

 「くそ……! このままじゃ引きずり込まれる!!」
 「幸村くん、私の手に捕まって下さい!!」
 「駄目だ、柳生!」

 丸井は既に鏡の中に飲み込まれてしまっていた。唯一出ている右腕を幸村が掴んでいる状態だったが、そんな幸村の腕を、あの白い手が掴んだ。思わず力が抜けてしまいそうになる程、冷たくひんやりとした手。まるで白粉を塗られたかのように真っ白い腕は、しっかり幸村の腕を掴んで離さない。
 そんな状態を見かねた柳生が幸村に向かって手を伸ばすが、それを柳が静止する。戸惑った表情を隠さず柳を振り返るも、柳は黙って鏡を見つめているだけ。
 そうこうしている内に、何とか持ちこたえていた幸村の足が、地面から離れた。

 「後は頼んだぞ、蓮二!」
 「絶対に助ける。生きて待っていてくれ」

 最後に振りかえった幸村は、薄らと微笑んでいた。刹那、鏡の中の景色がぐにゃりと歪み、幸村は姿を消してしまった。先程まで階段にいたジャッカルの姿も、すでに無くなっていた。