第四夜.見覚えのない部員


 二人の仲間が消えてしまった踊り場で、柳生は目つきを鋭くさせて柳を見た。柳生の心情は、黙って事の一部始終を見ていた仁王にだって解る。普段から温厚な性格の彼が怒るのは、酷く珍しい事だった。けれど、今回はそれも仕方のない事だ。
 しかし柳は何かを考え込むようにじっと鏡を見据えたまま、微動だにしなかった。そんな柳に痺れを切らした柳生が、怒りの含まれた冷たい声色で問いかける。

 「何故彼らを助けようとしなかったのですか」
 「もし俺達が加勢したとしても、精市達を引きずり出す事は出来なかったからだ」
 「どうしてそんな事が解るんです?」
 「ジャッカルが、何と叫んでいたか解るか?」
 「流石に、口元までは……」
 「"そこから離れろ""すぐに引き返せ"」

 横入りした仁王の言葉に、柳はその通りだと、頷いた。仁王もまた、あの状況の中でジャッカルの言葉に気が付いていたのだ。だから手を貸そうとはしなかったし、丸井のように酷い混乱に陥ることもなかった。しかし柳生は納得できない様子で、整った眉をあからさまに寄せる。

 「でも、だからと言って見捨てる事は出来ません」
 「精市が丸井の腕を掴んだ時、ジャッカルはこう言った。"無駄だ""このままでは、全員引きずり込まれる"と」
 「俺もそれに気付いた。じゃけん、もし参謀が止めんかったら、俺が止めとった」

 ジャッカルは、少なからず白い手について知っている。ここにいるメンバー全員で立ち向かったとしても、あの白い手には勝てないと言う事を、ジャッカルは伝えていたのだ。そう言われてしまえば、柳生は口を噤むしかない。幸村の言葉からして、彼もきっとそれに気付いていたのだろう。
 明らかな異常だった。鏡の中に人間が入ってしまうなんて、常人じゃ考えられない事だ。推測でしかないが、切原と始めとした三人もまた、こうして鏡の中に吸い込まれてしまったのだろう。すぐ近くを歩いていた真田は、恐らく丸井達の数分前に引きずり込まれたに違いない。
 鏡は、素知らぬ顔で壁に掛かっている。今ここで人が引きずり込まれた事が嘘のように、鏡に触れても白い手が出てくることはなかった。三人共無言のまま立ち竦んでいると、そこに第三者の声が響いた。

 「あれ? こんな所で、どうしたの?」

 思いのほか、三人とも強張っていたらしい。突然の声に、誰もが驚いて振り向いた。その先には、驚いたように目を瞬かせるマネージャーの姿。良く知った人間であることに胸を撫で下ろすと同時に、どうして彼女がここにいるのか、三人には検討もつかなかった。

 「皆は居ないし、一般部員は解散しちゃうし……山口くんに教えて貰って探してたら、昇降口に皆の靴見つけたから、追いかけてきちゃったんだけど」

 他の皆は? とは首を傾げる。純粋なその問いに、三人は答えることが出来なかった。それは口に出したくなかったと言うのもあるし、彼女が「鏡の中に引きずり込まれた」と聞いて、本当に信用してくれるのか、自信が無かったからでもあった。
 黙ってしまった三人を見上げて、も微かに浮かんでいた笑みを消した。代わりにその顔に浮かんでくるのは、不安。きょろきょろと辺りを見回してみても、そこに他のメンバーの姿は無い。
 柳は暫くを見下ろしていたが、不意に小さく息を吐いてから、強張っていた頬の筋肉を和らげる。

 「、今から言う事を信用してくれるか?」
 「……どういう、意味? 私が信じられないような、事なの?」
 「俺も、見とらんかったら信じんよ。参謀もそうじゃろ?」
 「ああ。きっと、俺も見ていなければ信用し難い。精市と丸井が、この鏡の中に引きずり込まれたんだ」

 は大きな瞳をめいいっぱい見開いて、柳の後ろにある鏡に目を移した。もちろん、何の変哲もない普段通りの鏡が、そこには掛けられている。彼女はもう一度柳に目を戻して、一度だけ小さく頷いた。それは、柳達を信じている、という証。
 少なからず安堵した三人は、漸く固まっていた身体を動かすように各自の元に集まってきた。

 「でも、後の人たちは……?」
 「赤也と真田はまだ行方不明じゃ。ジャッカルは、恐らく既に鏡の中におる」
 「これから、どうしましょうか。柳くんがおっしゃっていた通報は、流石に出来ませんね」
 「確かに、そういう類のものではないから、自分達で何とかしなければならないな」
 「それだったら、図書室はどう? 校内新聞だったら昔のもあるし、似たような事が起こってるかも」
 「開いとるか解らんよ?」
 「イチかバチかだから、何とも言えないけど。でも、ここでこうしているよりかはマシだと思うし」

 困惑した様子で、は踊り場から見える一階の窓を見た。西に傾いている夕日はほぼ姿を消し、濃いオレンジ色が廊下を照らしている。夕日が消えれば、恐らく学校内は闇に包まれてしまうだろう。今日は本来施錠されている日だし、学校内の主電源は落とされており、電気は点かないのだ。
 時間は、後少ししかない。図書室があるのは特別棟。一階と三階にある渡り廊下を通らなければいけない為、一階にある渡り廊下の方へ皆が動き出した時、柳の視界の隅に何かが映った。
 ん、と眉をひそめて、踊り場から二階を見上げる。ちらり、と見えたのは、見慣れたジャージ。階段を降り始めた仁王達を引き止めて、柳はもう一度二階を見上げた。  廊下の曲がり角に上手く隠れているお陰で、柳の場所から見えるのはジャージの裾だけだ。それでも、見知ったそれに声を上げる。

 「そこに居るのは誰だ。赤也か? 弦一郎か?」
 「え? 彼らが居るのですか?」
 「いや、解らない。テニス部のジャージが、ここから見えるだろう」

 柳の元にやってきた三人は、柳に促され同時に二階を見上げる。辛子色のジャージの裾がゆらりとはためいて、すっと引っ込んだ。考えるよりも早く、柳が階段を駆け上がって廊下へ出る。辛子色のジャージを着た誰かが、柳達から離れるように廊下を走っていた。窓ガラスから差し込む光は、ちょうど首から下を照らしているし、後ろを向いていて顔が解らない。
 仁王達も柳に倣って二階へ上がってくると同時に、柳は走り出した。あれが誰であろうと、テニス部員には変わりがない。怒りよりも、まずは同じ境遇に置かれている人間を一人でも増やしたいのだ。けれど、データマンとして知られている柳だけが、気付くことがあった。
 前を走っている男のフォームに、見覚えがない。レギュラー陣を誰よりも見ているからこそ、そのレギュラー陣の走り方のフォームは知り尽くしている。その、どれにも当てはまらないのだ。
 思わず怯みそうになったが、真実を確かめたいと言う気持ちのお陰で、足は止まること無く走り続ける。
 一直線の廊下を真っ直ぐに突き抜けて、その男は一番奥の教室に入って行った。自分のクラスがある階だから、柳はその教室が何であるかを知っている。

 「大、視聴覚室……」

 ぴたりと閉じられている扉の前で、柳達はプレートを見上げる。一度も使用したことのない、大きな教室。男は、この教室に入ったまま出てこなかった。物音ひとつ聞こえてこない。

 「この教室に、一体何が……?」
 「それは、見るまで解らないな」

 その言葉と同時に、柳は目の前の扉を勢い良く開いた。ガラガラ、と廊下全体に響くような音と共に、分厚い暗幕が姿を現わす。それを掻い潜るようにして中に入って、絶句した。中に入った筈の男が、どこにも居ないのである。
 呆然と立ち尽くす柳の後ろから、柳生が感嘆の息を漏らした。目線の先には、教室の後ろに広がる大きな鏡。金色の凝った装飾と、傷ひとつない美しい鏡が、教室全体を映し出している。

 「これは確か、理事長のおっしゃっていた大鏡ですね。前から興味はありましたが、まさかこんなに凝ったものとは」
 「ちょ、ちょお柳生、待ちんしゃい」
 「仁王くんも近くで見てください。恐らく百万は降らないと思いますよ」

 柳生は仁王の言葉など耳にも入っていない様子で、真っ直ぐその大鏡の方へ向かった。今さっき、仲間が鏡に引きずり込まれたのを見た人間にしては、有り得ない事だった。今まで追いかけてきた男が居ない事をすっかり忘れているかのように、柳生はただ鏡だけに興味を示している。
 大鏡に近づいた柳生を心配そうに眺めていた仁王が、突如凍りついたように目を見開いた。隣に居たもまた、小さく悲鳴を上げる。それまで消えた人間のカラクリを調べようとしていた柳もそれに反応して柳生を見やり、滅多に開かない瞳を開けて、叫んだ。

 「柳生!! そこから離れろ!」

 じっと鏡を見つめたまま立ち竦んでいた柳生が、今気が付いたと言わんばかりにびくりと肩を揺らし、不思議そうな表情で振り向く。けれど、彼の後ろ――鏡の中には、恐ろしい形相をした女が、今にも柳生に襲いかかりそうな程、醜い顔を歪めて立っていた。
 赤黒く爛れた顔、口元は片方だけが大きく裂けている。女の膝裏辺りまで伸びたぼさぼさの黒髪から覗く目は、人間では有り得ない不規則な動きでぐるぐると回っていた。
 そんな気持ちの悪い容姿にも関わらず、柳生は今の今まで、何の反応も示せずその女と向き合っていたのである。柳の言葉に柳生は首を傾げるだけで、真後ろの鏡に映し出されている女には全く気が付いていないようだった。

 「おや? 私はどうして鏡の前に……?」
 「柳生、早くこっちきんしゃい!! 早く!!」

 すぐにでもこちらに引き戻したい仁王が、綺麗に揃えられた机の合間を縫って、柳生の腕を掴む。すると、鏡の中の女が不気味に口元を歪ませて笑うと、丸井達が引きずり込まれた時にも見たあの白い手を伸ばして、柳生の腕を掴んだ。咄嗟にその手を払おうと白い手を掴んだ仁王もまた、女のもう片方の手を掴まれ、二人同時に鏡の中へ吸い込まれてしまった。
 呆気なく、二人の仲間が消えてしまったのである。