第六夜.響くハイヒールの音


 カツ、コツ、カツ。本当に遠くの方で聞こえたハイヒールの音に、切原は目を覚ました。寝起きで霞む視界を擦りながら、自分の体温で温くなった床から顔を離す。ぼんやりとした思考の中、ぐるりと辺りを見回して、首を傾げた。周りには、切原と同じようにして部活の先輩達が倒れている。
 確か自分は、マネージャーを追いかけて大視聴覚室までやってきたのだ。そして大鏡を見つけて、傷ひとつないそれに感動して、手を差し伸べて――引きずり、込まれた。今でも鮮明に思い出せるあの真っ白い手によって、切原は鏡の中に引きずり込まれた筈。けれど、こうして鏡の前に倒れていると言う事は、夢か何かでも見ていたのだろうか。
 背中に走る悪寒に気付かぬふりをして、すぐ横に倒れていた仁王の肩を揺さぶると、彼はすぐに切れ長の瞳を開いた。

 「ん……? 何処じゃ、此処は」
 「大視聴覚室ッスよ。先輩達も此処に来たんスか?」
 「大、視聴覚室……ッ!?」

 仁王は色素の薄いその瞳を大きく見開いて、弾かれるように起き上がった。それに驚いた切原が、目を丸くして後ろに仰け反る。しかし仁王はそんな事に構いもせず、同じようにして床に倒れている幸村、柳生、丸井を叩き起こし始めた。三人はすぐに目を覚まして、起き上がる。
 そして三人が三人とも、仁王と同じように驚愕の表情を浮かべながら、お互いを見つめ合っている。そんな状況に一人ついていけない切原が、「先輩……?」と声を掛けると、幸村が切原の方に目を向けて、更に驚いた表情をしてみせた。

 「赤也、どうして此処に?」
 「何で、でしたっけ……? でも、昇降口の鍵が開いてて、中に入って……そうそう、ここの暗幕が揺れてたんスよ。その正体が気になってここに来たんスけど、大鏡を見てたら、白い手に引っ張られた。そっから記憶無いッス」
 「お前もだったのかよ……つーか、仁王と柳生は何でだ? 俺と幸村くんだけだっただろい」
 「あの後、参謀が大視聴覚室に向かう、同じジャージを着た男を見つけたんじゃよ。そんで、追いかけて此処に来たら……鏡ん中に、女がおってな。そいつに、引っ張り込まれた」
 「女? 私が鏡に近づいた時は、そんな人は映っていませんでしたが」
 「可笑しいじゃろ、普通に考えて。幸村と丸井が鏡ん中に引きずり込まれたの見た後に、いくら違う鏡だとは言え、自分から鏡に近づけるもんかの?」

 それに、柳生だけじゃ。鏡に映っとった女を見とらんかったんは。仁王はそう続けて、溜め息を吐いた。鏡に引きずり込まれる前、滅多に見せない驚いた表情をした柳と、泣きそうに顔を歪ませているを見た。ジャッカルが仁王達に伝えた言葉を知っていたけれど、パートナーである柳生を助けないわけにはいかなかった。
 勿論、丸井と幸村なら助けない、というわけではない。あの場で幸村の力に叶わないのならば、仁王達が叶う筈がないと、力の差を見せつけられてしまったからだ。
 それでも、二人だけを残してしまった自分への嫌悪感は、どうにも消え去ってはくれなかった。
 柳生は信じられないとばかりに呆然としていたが、自分の中でも矛盾に気が付いたのだろう。仁王にやっと聞こえる程度の小さな声で、そうでしたか、と呟いた。

 「でも、普通の大視聴覚室ッスよね? ココ。なら、コート戻りましょうよ」
 「そうだな。別に、何の異常もねーし」
 「いや、ちょお待ちんしゃい」

 仁王が長年培ってきた勘が、恐ろしい程に警報を鳴らしている。何かが違う。その何かに靄が掛かっていて、何なのかが解らない。眉をひそめて、ゆっくりと大視聴覚室を見渡す。綺麗に並べられた机、使われていない所為か濃い緑色のままの黒板。窓や入り口には暗幕。とは言っても、窓の暗幕はカーテンと共に開けられている。
 目の前にある忌々しい大鏡と、黒板の横に掛かっている時計。
 心臓が一度止まったように感じられた。数秒の後、心臓はうるさい程にドクドクと音を立て始める。壁に掛かったシンプルな時計。そこに描かれた十二の数字。それらが全て、反対になっているのである。そう、まるで鏡に映っているかのような――
 心当たりがある、どころの話じゃあなかった。時計を凝視したまま微動だにしない仁王の目線を追って、幸村もまた硬直した。こういう時、冷静に思考回路が働いてしまう自分に嫌気が差した。

 「普通の、じゃない。ここは、鏡の中だ……」
 「鏡の中? 何を見てそんなこと、ッ!?」

 怪訝そうに眉をひそめた丸井が、幸村と同じように目線を辿り、時計を見上げて絶句した。インテリアファッションと言われればそれまでだが、学校内でこんなにもユニークな時計を使う事はまずあり得ない。何より丸井達は鏡の中に引きずり込まれて、目が覚めた。すなわちここは、鏡の中の世界。

 「とりあえず、他の奴らを探そう。これで、行方不明になってから出会ってないのは弦一郎だけだ」
 「そうじゃの。二人が引きずり込まれた後も、真田の姿は見とらんし」
 「あの場に残してきてしまった柳くんとさんは、こちらに来てしまったのでしょうか?」
 「それは、流石に俺でも解らない。でも、明らかにあの学校は異常だ。何らかの拍子にこちらに来るかもしれない」

 幸村の言う事は最もだった。柳とだけが取り残された状態で、彼らがそのまま帰宅してしまう筈がない。それでも鏡には用心しているだろうが、もしかすれば、鏡以外にもこちらに引っ張り込まれてしうトラップがあるかもしれないのである。
 仁王はその言葉に頷いて、ふと眉をひそめた。自分達の話し声で解らなかったが、廊下から何か物音が聞こえる。会話のところどころに小さく聞こえてくる、カツ、カツ、と言う音。それが何なのか気付く前に、切原が小さく声を上げた。

 「さっきから、ハイヒールの音しません? 俺、その音で目ェ覚めたんスけど」
 「ハイヒール? ……言われてみれば、聞こえるかもしれねーな」
 「空耳ではありませんか? 校内でハイヒールなんて、そんな不躾な事……」

 柳生の言葉は、そこで止まった。大視聴覚室のすぐ近くで、そのハイヒールの音が聞こえたからだった。ゆっくりと一定のリズムを保ちながら、ハイヒールの音は確実に近づいてきている。誰もが口を閉じてしまった今、静まり返った教室に、その音はとても良く響いた。
 カツ、コツ、カツ、カツ。そこまで大きな声で喋っていたわけではないから、暗幕のお陰で外に声が漏れていない筈だ。それでもハイヒールの主は、迷う事なく大視聴覚室にやってきたかと思うと、大きな音を立てて扉を開けた。
 暗幕一枚隔てた向こう側で、その暗幕を捲ろうとするかのようにゆらりと揺れている。シャ、とカーテンのレールが走る音と同時に、一人の女が姿を現した。
 艶のある長い黒髪と、ぱっちりとした大きな瞳が可愛らしい。保険医なのか、赤いタートルネックの上からは白衣を羽織っている。その女はきょとんとした顔で首を傾げたかと思うと、眉尻を下げて微笑んでみせた。とは言っても、本来なら釣り上がっているであろう唇は、顔下部を覆うようなマスクによって露わにはされなかったけれど。

 「あら、今日は施錠されている筈よ? どこから入ってきたの?」
 「すみません。ウチの部員が、数人校内に入り込んだみたいだったので、探しに来たんです」
 「そうだったの。それなら、昇降口まで送って行ってあげるわ。その間に、お友達も見つかるかもしれないしね」
 「ありがとうございます」
 「学校側には黙っておいてあげるから、その代わり私の愚痴を聞いてくれない? それでオアイコ」
 「ええ、良いですよ。……一応、ここから出ようか」

 真っ白なマスクは気になるが、女に別段不自然なところはなかった。その女を信用しているわけではないが、いつまでも大視聴覚室に居たって他の部員達と合流出来るとは思えず、とりあえず外に出るように残りのメンバーを促し、大視聴覚室を出る。
 昇降口に向かいながら、幸村の隣を歩いていた女が、困ったように笑う。

 「私ね、彼氏がいたの。でも、その彼に振られちゃったのよね」
 「そうなんですか?」
 「彼、なんて言って私を振ったと思う? 顔がキライになった、ですって。私、頭にきちゃったから、整形しちゃったの。彼が駄目だっていうところは、全て直したわ。このマスクは、整形後の傷を隠す為につけているのよ」
 「……はあ」
 「明日彼に会いに行くの。これできっとよりを戻せるわね。でも、まだ自信が無いの。だから、あなた達に見てもらおうかしら」

 狂っている、と思った。ただ、純粋に。思わず顔が引きつってしまった幸村に構う事なく、その女は目を三日月型に細めて笑ったかと思うと、その大きなマスクに手を掛ける。

 「ねえ、私って、キレイ?」

 脳裏に浮かんだフレーズと全く同じ言葉を、目の前の女は言ってのけたのだった。