第七夜.白衣の女と女子生徒


 「え……?」

 後ろを歩いていた切原と丸井が、あからさまに硬直するのが解る。真っ直ぐ幸村を見つめている女は、マスクを外す事なくもう一度繰り返した。何故だろうか、機械的に聞こえてしまったその言葉を頭の中で繰り返してから、幸村は曖昧な笑みを浮かべる。幸村達が良く知っているあの妖怪――口裂け女かどうかは解らないけれど、率直な意見を述べた。

 「綺麗ですよ」
 「そう? それなら、これでもキレイ?」

 女が目を緩く細めて、マスクに掛けた手に力を込めた。耳に掛かっているゴムを外すと同時に露わになった口元を見て、幸村は凍りついた。想像していたものよりも、もっとグロテスクなものが、そこには存在していた。これが、本物の口裂け女なのだ。漫画の中でも、映像の中でもない。リアルなそれが、目の前に立っている。
 頬の上の方まで醜く裂けた口元が笑みを浮かべると、よりいっそう裂けて見えた。つり上がった口元から覗く黄色い歯と、黒ずんだ歯茎に酷い嫌悪感を覚える。
 そして何より衝撃的だったのは、赤黒い肉が捲れるようにして裂かれた口元からは、絶え間なく蛆が湧いていた事である。鼻から下を全て覆うかのように湧いた蛆虫が、自分達の存在を誇示するべく一斉に動き出して、ぼたぼたと廊下に落ちていった。
 その気持ち悪さと言ったら、あの幸村でさえも絶句してしまう程のものだった。グロテスクなものに耐久がないらしい切原が、小さく悲鳴を上げて後ろに後ずさる。
 ニタニタと笑っていた女はそんな切原を鋭い瞳で見据えると、自分の羽織っている白衣の中から小さなメスを取り出した。暗闇に近い廊下で、メスの先がきらりと光る。幸村に向けていた足を切原の方へ揃えると、ロボットのような動きでメスを手にした右手を振り上げ、抑揚のない声で笑った。

 「ククク、アタシの顔ニ、驚いタわネ?」
 「うっ、うわあっ!!」
 「赤也!! こっちに向かって走れ!」

 我を取り戻した幸村が、口裂け女の後ろから切原に声を掛ける。切原は恐怖に顔を白くしながらも、持ち前の反射神経で振り下ろされたメスから逃れると、もつれそうになる足を一生懸命に動かして走り出した。それに続くようにして、他の三人も走り始める。幸村はその四人が自分を抜かしたのを確認して、後を追うようにして走り出した。
 後ろからは、耳を劈くような不愉快な悲鳴と共に、恐ろしい程に速いペースで聞こえるハイヒールの音が追ってくる。相手は高いヒールを履いているし、何より日頃から鍛えている男のスポーツ選手より足が速いわけがないのに、ハイヒールの音はまるで耳元で聞こえてくるかのように近い。
 一向に遠くならないハイヒールの音に、誰もが恐怖を覚えた。恐らくこのまま昇降口へ向かっても自分の家に帰れる保証は無いし、自分達がこの世界に来てしまった入り口である大視聴覚室からは、今まさに遠ざかろうとしている。
 学校の廊下には似つかわしくない大きな音を立てながら、廊下を突っ切って行く。仁王の横を走っていた丸井は、あからさまに顔をしかめてちらりと後ろを振り返った。

 「くっそ! なんであの女、あんなに速えんだよ!!」
 「そりゃあ、普通の女じゃないからに決まっとろうが! さっさとスピード上げんしゃい!」
 「これでも全速力だっつーの!」

 カッ、コッ、カッ、コッ。耳に入ってくる情報と言えば、それだけだ。最初に上げた悲鳴以外、あの女は一言も発していない。それが更に不気味だった。暗闇に紛れて、メスを振りかざしたグロテスクな女がニタニタと笑いながら、無言で追いかけてくるのである。
 彼女が自分たちに追いつくことはないけれど、かと言って引き離される事もない。全速力で走っている現在は良いが、これから先ずっとそうやって走っていられるかと言われれば、答えはもちろんノーである。今もし、仮に少しでもスピードを緩めてしまえば、あの女は容易に追いついてくるだろう。

 「とりあえず渡り廊下に行こう!」

 幸村の一言で、すぐ隣に見えた階段を駆け上がる。三階の廊下に出て、前方に見える渡り廊下が見えた刹那、すぐ真横にあった教室の扉が勢い良く開いた。
 思わず身体を竦ませたが、その教室から出てきたのは探していた一人、真田だった。目の前を全力疾走している仲間達に驚いたのか、真田は小走りだったその足を止めて目を見開いており、それを見かねた仁王が彼の腕を掴んだ。ぐん、と引っ張られると同時に、真田もまた走り出す。

 「どうなっておるのだこれは!」
 「話は後じゃ! 今はあの女から逃げる事が先決じゃけん、今は黙って走りんしゃい!」
 「何、お前らも何かに追われているのか?」
 「はあ? 真田もなんか?!」
 「うむ。下半身のない女子生徒に、先程からしつこく付きまとわれている」

 隣を走る真田の言葉に、仁王は眉を寄せて振り返った。相変わらずの速さで追いかけてくるあの女の、数メートル手前。仁王たちの膝までしかないであろう女子生徒――いや、下半身のない黒髪ショートカットの女子生徒が、両腕を使って追いかけてきている。ケラケラケラ、と甲高い笑い声を上げながら。
 金属音のような笑い声に、ぞくりと背筋が震えた。あの女子生徒が着ている服が立海の制服だからか、妙にリアリティを感じるのだ。
 最初は状況把握が出来ていなかったらしい真田だが、不意に足を止めたかと思うと、すぐ近くまで来ていた下半身のない女子生徒の両腕を掴み、そのままハンマー投げのように口裂け女に向かって投げ飛ばした。女子生徒は口裂け女の鳩尾に当たったらしく、二人して醜い悲鳴を上げて倒れ込む。

 「今のうちに撒くぞ!」
 「ナイス真田!」

 きっとあの妖怪達は、すぐにでも復活するだろう。その前に、いち早く妖怪達の視界から消えることが出来るか。それが勝負だった。渡り廊下を渡って、特別棟の中にある小さな資料室に身を滑り込ませる。残りのメンバー達が全員飛び込んだところで、最後に入った幸村が、なるべく音を立てないようにそっと扉を閉めた。
 心臓が今にも爆発してしまいそうなほど激しく、そして強く波打っているのが解る。普段ならこれ位のダッシュだってそこまで息切れすることは無い筈なのに、途中から参加した真田を除いた全員が、膝に手をついて背中を大きく揺らしていた。呼吸が上手くいかないのか、丸井が時々むせている。

 「ゲホッ、……はあ、何なんだよアイツら!!」
 「口裂け女と、テケテケ、ってとこかのう」
 「下半身のない女子生徒を、テケテケと言うのですか?」
 「なん、柳生知らんのか? 有名な怪談話ぜよ」
 「と言われましても、ホラーには興味がありませんので……ミステリーなら好きなのですが」

 困ったように眼鏡のブリッジを上げる柳生の傍らで、幸村が鋭い瞳を真田にぶつけた。

 「弦一郎、さっきはよく俺を無視してくれたね」
 「無視? 何の事だ?」
 「惚けても無駄だよ。鏡に吸い込まれる前、校内を歩いている弦一郎を見かけた。俺が窓を叩いているのに、意図的に無視しただろう」
 「……何の話だか、俺には理解出来ん。まず第一に、俺は校内に入ってはいない」

 その言葉に、切原を除いた全員が真田を見やった。切原以外は、廊下を歩いて西階段を上って行く真田の姿を見かけたのだ。真田の言葉を信じろ、と言われても些か難しい事である。
 しかし真田は眉間に深く皺を刻むと、そのかんばせに似合わない、不思議そうな表情を浮かべてみせた。

 「校内は施錠されていただろう。赤也を探している時に、昇降口の鍵が掛かっているのは確認した」
 「けど、俺らは間違いなく廊下にいた真田を見たんだぜい?」
 「見間違えたのではないか? 現に、俺は今上靴ではなくシューズを履いている」

 皆が上靴を履いている中、確かに真田はテニスシューズを履いていた。校内に土足で上がるなんて、真田には考えられない事。それに真田が嘘をつくメリットは何処にもない。確かに真田を廊下で見かけた筈なのに、納得せざるを得ない状況になってしまった。
 幸村はふうん、と一度だけ頷いてからもう一度真田に目を向ける。

 「じゃあ、弦一郎はどうやってこの世界に来たんだい?」
 「うむ、それが良く解らんのだ。赤也を探しに保健室を覗いてから、記憶がない」
 「保健室?」
 「ああ、あそこは外からでも出入り出来るだろう。気付いたら、自分の教室に居た」

 だから俺は、校内に入っていない。そうハッキリと言われると同時に、幸村たちの背中には言い知れぬ悪寒が走った。自分達は、真田ではない別の『誰か』を――見てしまったのだ。