黄昏に染まる君へ。 「すげえ難しくねえ? コレ」 俺がそう言うと、目の前で黙々とシャーペンを走らせていたが顔を上げた。窓から差し込む黄昏の夕日に、の顔は薄らと夕焼け色に染まっている。今はもう放課後で、周りに俺と以外の人間は誰も居ない。手元のプリントを見て、ふうと息を吐いた。英語の小テストの補習用のプリント。俺は勿論補習常習犯で、こうやって放課後残されるのも当たり前になってきた。俺の前にいるは、その日偶々休んでしまい、補習対象者になったらしい。は暫く考えるように目を泳がすと、手元のプリントに目を落とした。 「そう? うーん、ノート見れば判る問題だと思うよ」 そう言ったの手元には、確かにノートが置いてあった。白っぽいファイルに挟まれたルーズリーフには、赤と青のカラーペンで判り易く纏められている。シンプルに書かれたノートをパラパラと捲って、は順調にプリントを埋めていた。プリントの枚数は全部で五枚。俺はまだ一枚目の半分も行ってないと言うのに、のプリントはもう四枚目に差し掛かっている。その要領の良さに、思わず眉を顰めた。そんな俺に気がついたのか、はもう一度顔を上げて俺のプリントを見た。 「切原君も、ノート見てやってみたら?」 「其れが出来たら苦労しねえっつの」 勿論俺だってノートは書いている。だからと言って、其れは読み返せるような丁寧さ等皆無なノートだ。取り合えず板書された文字をノートに書き写すのみ。友達からメールが来れば、携帯を操作しながら文字を書く事だってある。そんな俺のノートは、まるでミミズが這った痕のような文字がズラズラ並んでいるだけ。試しに机の中から取り出して開いてみても、今やっているプリントの内容が何処に書いてあるかさえ解らなかった。取り合えず適当にパラパラとページを捲り、それっぽい物を見つけようと努力してみるものの、文章さえまともに読めないノートに何が書いてあるかなんて解るはずも無い。思わず溜息を吐いて、乱暴にノートを仕舞う。全く埋められていないプリントの上に頬杖を付いて、目の前でどんどん問題を解いていくを見つめた。引っ掛かる場所があれば器用に左手でノートを捲っていき、その指で文字を追っていく。右手は休む事なく動き、文字の上に読みやすい字を綴っている。ふと、が此方を見た。俺とは違う白い肌。暑くて開けられた窓から風が吹いて、の長い髪を揺らした。その髪を鬱陶しそうに掻き揚げ、また目線を戻す。良く女がしているストレートパーマを掛けている訳でも無い、自然なストレート。前髪はキチンと斜め分けにされ、黒く細いピンで留められている。こうして見てみれば、は結構顔が良い女だと思う。きゅっと締まった桃色の唇を見て、不覚にもキスしてしまいそうになった。(何言ってるんだ、俺は。)それは、又もや此方を不審そうに見るによって妨げられる事となる。 「ねえ、切原君」 「な、何だよ」 「さっきからボーっとしてるみたいだけどさ、学校閉まるまで後一時間無いよ。終わるの?」 その時に気がついた。驚いたように時計に目をやれば、時刻は六時を回っていた。先程まで聞こえていた運動部の掛け声だって、今じゃ一つも聞こえてこない。焦ってプリントを見ても、シャーペンを置いて微動だにしなかった俺が文字を書いているはずもなく、一問も進んではいない。真田副部長に怒られてまで居残りの許可を貰ったと言うのに、コレでは部活に参加するどころか、指定時間内にプリントを終わらせる事さえ出来ない事に気がついた。その事実に顔を顰め、脳内で計算を始める。今から本気で取り組んだとしても、学校閉鎖時間までには絶対に間に合うはずが無い。今日中にプリントを片付けろと言われたのだから、説教を食らう事間違いなしだ。はもう五枚目の真ん中辺りまで来ているらしく、プリントの残りが置いてあった場所には何も置いてはいなかった。それに比べ、俺は一枚も終わっていない。ふと外を見てみれば、先程まで夕日に染められた校庭が綺麗なグラデーションを描いて紺色に染まりつつあった。上の方にしか残っていない、オレンジ色の夕日。思わず現実逃避してしまいそうな光景に、は目を細めて窓の外を見た。 「綺麗だね。この時間帯はもう家に居るし、久しぶりに見た」 「俺が部活から帰る時なんか真っ暗だぜ。テニスに集中してて、こんな景色なんて見てねえもん」 「そっか。真っ暗でも、天気が良いと星が見えるから良いよね。私が帰る時なんて、いつもと変わらない空なんだよ」 桃色の唇を釣り上げて、笑みを浮かべる。今までにない表情を見せられた気がして、思わずゴクリと唾を飲んだ。はそれに気が付く事もなく、窓のサッシに両肘を乗せて外を眺めていた。白く華奢な腕につけられた数本のゴムが、スルリと二の腕の方へ落ちていく。そう言えば、体育の時間に髪を結んでいたような気がしないでも無かった。時折吹く小さな風が髪を揺らして、まるでシャンプーのCMに出てくる女優の髪のように、ふわりと靡いていた。細い肩に、サラサラと髪の毛が滑り落ちている。そんな髪を、先程と同様ゆっくりと掻き揚げた。その時見えた白い耳には、意外にも小さなイヤホンが付けられていて。驚いてを見た。 「お前、曲聴いてんの?」 「え? あ、うん。小さな音でだけどね。先生には秘密だよ」 すっと人差指を口元に持っていき、もう片方の指でイヤホンを指差した。細く伸びた人差指の爪は、綺麗に手入れされているらしい。つるつると光った何かが塗られていた。そういえば、姉貴が同じ物をつけていた気がする。その名前は忘れてしまったが、それが爪を手入れする物だと言うのは解った。 の耳に付けられたイヤホンは、周りに気付かれないように制服の中に通しているらしい。白いコードが、ワイシャツから中へ伸びているのを見てそう思った。俺がボーっとを眺めているうちに、彼女はさっさとプリントを終わらせたらしい。真横に置いてあった筆箱に、出してあったシャーペンと消しゴムを仕舞っている。その光景を目に入れて、俺は慌ててに声を掛けた。 「!」 「ん、何?」 「悪ィ、教えてくんね?」 「良いよ。えっと、何処から?」 「此処」 俺が自分のプリントの引っ掛かった問題を指差すと、それに沿うようにしての指が並んだ。そのまま文章を読むかのように指は動き、目線はプリントへ行ったり自分のノートへ行ったりと忙しそうだ。問題を理解したのか、ノートから目線を離して少し乗り上げる。合わせられた机の丁度境界線辺りに片肘を置いて、文章の一つを指差した。 「これは未来形。天気の時はItは訳さなくても良いの。Willは未来形である証拠。rainは、天気の一つで雨。tomorrowは明日。未来形は〜だろう、とかそういうのだから、訳すと?」 「Itは訳さねえんだろ? 明日は、雨だろう……?」 「うん、まあそういう感じ。だけど、日本語にすると少し片言だから、『明日は雨が降るだろう』の方が良いと思うよ」 に言われた通り、下の空欄にそのまま文字を書く。それに被せるよう、が「It will rain tomorrow.」のwillの所に赤のボールペンで下線を引いた。其れを見ると、は何食わぬ顔で次の問題を見ながらノートに目を移している。そして又、ページは変えぬままノートを指でなぞり始めた。それを見ながら、俺は手元のプリントの問題を見る。『彼女は明日、フランスに行くでしょう。』と日本語で書かれていて、チンプンカンプンな俺は訳の判らなさに首を傾けた。は殆どノートの方を見ずに、また身を乗り上げて問題を指差した。 「これも〜でしょう、だから未来形ね。彼女、は一年生で習ったから解るよね。主語を前に置いて、次は未来形のwill。行く、はgo。フランスはそのまま。明日は、さっきも言った通りtomorrow。訳すと?」 「彼女……? He? She?」 「She。Heは彼」 「She will……go……? France tomorrow?」 「うーん、惜しい。goの後はtoをつけて、She will go to France tomorrow.が正解」 「お前、頭良いんじゃん」 「悪くも無いし良くも無いって所かな。成績は平凡。応用になると引っ掛かるよ」 彼女が言った通りの英語を書き並べていく。フランス、の単語をローマ字でFuranseと書いた以外は意外にも全部合っていて、柄にも無く英語が楽しいと思ってしまった。そんなこんなで俺は順調に解いて行き、三枚目辺りになると、が少しヒントを出してくれれば大体を理解できるようにもなった。と言っても、最初に必要な文法が出てこない訳だから進歩していないと言えばしていないのかもしれないけれど。三枚目の真ん中辺りに差し掛かった所で、が顔を上げて時計を見た。それに釣られて俺も時計を見れば、時刻は六時五十分を指しているのが解る。残りのプリントは二枚半。でも、そろそろ片付けをしなければ校門が閉まるのに間に合わない。電気も付けず、すっかり薄暗くなった教室の中で、は俺に目線を戻した。 「残りは家でやってくるといいよ。先生、今日までって言ってたけどもう帰ったみたいだし。明日、朝一で提出すれば間に合うと思う。て言うか、私も明日提出するし」 「家でっつっても、俺家に英語の辞書とかねえし……」 「私のノート貸してあげる。教科書に出てきた単語は全部調べてあるし、似たような文章が色々あると思うから」 「サンキューな」 「どういたしまして」 端っこに追いやったプリントの端を揃えて、鞄に突っ込む。はきちんとファイルがあるようで、それに挟んで整頓された鞄に仕舞っていた。(たまたまチャックが開いた時に中が見えたのだ。)筆箱も何も全部仕舞い、に借りた白いファイルをそっと入れる。ぐちゃぐちゃと色々入っている俺の鞄に、シンプルな其れは酷く不釣合いだった。は並べていた机を元に戻し、開けていた窓を閉めてから鞄を肩に掛けた。合皮のスクールバッグだ。一方俺はテニスバッグのワンスペースで、本来持ってくるはずの学生鞄は平べったくなってテニスバッグの奥に入れられている。俺が立ち上がって椅子を中に仕舞えば、は「それじゃあ、また明日」と言って教室を出て行った。 それを見て、言いようの無いもどかしさが胸を支配していく。考えるより先に行動が出る俺は、直に教室を出て目の前を歩く彼女の白い手首を掴んだ。驚く君に言うんだ。一緒に帰ろう、と。 |