次の階段を上れば、の属するクラスが有る三階に着く。は走っていた。明日提出する筈の数学プリントを、机の中にあるファイルに入れておいたまま取り出すのを忘れてしまっていた。それに気付いたのが家に着いてからだと言うのだから、面倒臭さも相乗りして苛立っていた。
 学校に着いたのは五時。秋だからか辺りはすっかり暗くなり、部活動をしている生徒達の声しか聞こえなくなっていた。外から校舎を見ても、吹奏楽部や軽音楽部、美術部などといった文化部が使用している教室しか明かりが点いていない――と思っていたのに、運が良いのか、のクラスも明かりが灯っていた。きっと六時になれば見回りがやってきて、教室に残っている生徒を追い出すだろう。
 (それにしても、誰だろう)
 階段を上り切り、角を曲がれば薄暗い廊下に光が伸びているのが見える。言わずもがな、目的の教室だ。全速力に近かった足を少しだけ緩めて、呼吸を整える。教室に誰が残っていたとしても、息を乱し肩で息をしている姿を見られたくはない。眉間に皺を寄せ呼吸が落ち着いたのを確認すると、教室の扉を開けた。
 (仁王、君)
 窓側の一番後ろの席に座り、窓から空を眺めている人物。クラスメイトの、仁王雅治だった。頬杖をついたまま、に気付いた様子も無い。それもそうだ。彼の耳元は、耳に直接掛けるタイプのヘッドフォンが覆っている。彼の銀色の髪に、真っ黒いヘッドフォンは酷く浮いていた。だから解った、と言うのもあるが、気付かれていない事を確認すると、はそっと教室に入り自分の机の中を覗き込んだ。そこには、主人を待っていたかの様に大人しく鎮座するファイル。それを取り出して目当ての数学プリントが有るのをキチンと視認してから、肩に掛けていたスクールバッグにしまい込む。チャックを閉めた所で、聞き慣れないハスキーな声が聞こえた。振り向けば、ヘッドフォンを外して此方を見る仁王が居た。その表情は酷く驚いていて、も又びっくりした様に仁王を見つめる。

 「さん? 忘れ物かのう、声掛けてくれれば良かったんに」
 「音楽聴いてるみたいだったし、邪魔しちゃ悪いかなって」
 「邪魔にはならんよ。それにしても、さんが忘れ物なんて珍しか」

 曖昧に笑い返しながら、無意味に鞄の整理をしてみる。仁王はと言えば、そんなの行動を黙って見ているだけ。彼の机には当たり前であるかの様に鞄が引っ掛けられており何時でも帰れる状態であるのに、ひとつも行動に出そうとはしていない。疑問に思いつつも、問いかけようとはしなかった。クラスでも全く話さない人間と会話を弾ませるのは、なかなか難しいものである。
 そんなの心情を悟ったのか、仁王は小首を傾げて問うた。

 「俺が此処で何しちょるか、聞かんの?」
 「気にはなるよ。仁王君が何で此処に居るか、よりも、聞いてる音楽の方がね」
 「ククッ、面白い奴じゃのう」
 「それは光栄」

 然しそれは事実だ。仁王が起こす行動云々より、彼が聞いている音楽の方が気になる。普段音楽を聴いている様な人ではないし、『詐欺師』の二つ名を持つ彼だから、何を聞いているのか想像もつかない。静かな教室内では仁王が外したヘッドフォンから、微かながらに音漏れしている。けれど、聞き取れる程大きなものでもない。

 「気になる?」
 「まあ、気になるっちゃあ気になるかな」

 机の上に置かれたヘッドフォンを持ち上げ、仁王は口角を釣り上げた。そしての言葉を聞くなり、空いた手で小さく手招きを始める。何となく意外な行動を起こすものだから、は自然と零れる笑みを隠す事が出来なかった。彼は、瞳を細めてを待っている。大人しく鞄をいじる事を止め近寄ると、仁王は自分の席の前の席を指差した。無言だけれど、意味は通じる。素直に椅子を引いて座り、仁王の方を振り返った。
 初めて間近で見た、仁王の顔。炎天下の中テニスをしているにも関わらず、日焼けの「ひ」の字も似合わない真っ白な肌をしている。外が暗く蛍光灯の光しかないからか、仁王の銀髪はやけに浮いて見えた。切れ長の瞳がを捉えると同時に、耳元を彼の手が覆った。ひやりとしたの耳元とは裏腹に、室内に居たからか仁王の手はとても暖かく感じられた。びくり、と反応して仁王を見つめる。仁王は、ヘッドフォンをそのままの耳に当てたのだ。彼はしてやったりな笑みを浮かべ、穏やかな表情でを眺めている。そんな時ダイレクトに聞こえてくる音楽は、が良く知るアーティストのもので。しかも一番お気に入りの、最近出た新曲だったから、すぐに意識は仁王から外れた。

 「此の曲、仁王君好きなの?」
 「そうやのう。好きぜよ」
 「私も好きなんだ、このアーティスト」
 「知っとうよ」

 意外な返答に、はきょとんとした。仁王に、此のアーティストが好きである事を話した記憶は無い。と言うか、何か事務的な事でも話した事なんて無い。
 驚いたの顔が面白かったのか、仁王は喉を鳴らして笑うとの両耳を覆っていたヘッドフォンのひとつを自分の耳に当てた。

 「何で知ってるの、って顔じゃな」
 「あ、当たり前だよ。私、仁王君に言った事無いのに」
 「駅前のCDショップ」
 「駅前、の……? もしかして、見てたの?」

 仁王が頷くと同時に、の頬は赤く染まる。この新曲が発売されてからCDを買うまで、は駅前にあるCDショップで視聴をして帰るのが日課だった。それを仁王は見ていたらしい。確かに駅前は立海生が良く通る所だし、 CDショップも壁がガラス張りになっているオープンな所だから、外から見えても可笑しくは無い。けれど、仁王が一個人をそうやって捕らえている事に違和感を覚えた。自分や仲間であるテニス部員以外は、眼中に無い。そんなタイプの人間だと思っていたからこそ、どうしても驚きは隠せない。

 「毎日お前さんが視聴しちょるけえ、気になって借りたんよ」
 「帰る時間、そんなにぴったりなんだ。偶然だね」

 だって、長時間CDショップに居座る訳じゃない。一回聞いたら、後は適当にショップ内を見て回って帰っている。だからショップに居る時間は十分も無いし、それを毎日の様に見ていた仁王は、ピンポイントで帰宅時間が一緒だったと言う事になる。思わず口元を押さえると、仁王は少しだけ首を傾ける。

 「違うぜ?」
 「え?」
 「偶然じゃない。最初、見つけた時は流石に偶然じゃったけど」
 「それ、じゃあ……」
 「外から姿は見えても、視聴してる曲までは普通解らんじゃろ」

 丁度、曲が終わる。シンと静まり返った室内に、なおも仁王の声が淡々と響く。

 「此の曲を聴くと、お前さんを思い出す」
 「?」
 「だから好き」

 自分の顔が熱くなって行くのが解る。もそこまで馬鹿じゃない。彼が言わんとしている事なんて、すぐに理解出来た。真っ赤な顔のまま口を開閉させているを眺め、仁王は柔らかく笑った。普段誰にも見せないような表情に、の心臓がドクンと跳ねる。

 「さあ、帰ろうかの」

 ガタンと音を立てて立ち上がった仁王に、は肩を揺らした。仁王はの耳からそっとヘッドフォンを抜き取ると、そのまま自分の席に放置されたままだったスクールバッグを手に取って肩に掛け、の方に振り向いた。暫く呆然としていただったが、慌てて自分の鞄を引っ掴むと仁王の元へ駆け寄る。仁王は教室の隅にあるスイッチを押して室内の電気を消した。外の光が微かに明るく見える。遠くにあるマンションの光やグラウンドのナイター設備がやけに目立っていた。真っ暗な闇の中、廊下に出る前、は震える声を隠そうともせず彼の背中に声を掛けた。

 「もう一曲、視聴したい曲が有るんだ。一緒に行かない?」

 真っ暗な中響いた声に、仁王が反応して振り向くのが解る。けれど表情までは確認出来ず、はそっと目を逸らした。

 「ええのう。その後、俺の好きなアーティストの曲聞かせてやる」
 「うん!」

 差し伸べられた手に、は自分の其れを絡めた。






Music Magic

(09/11/07  もし仁王君の好きな曲を聴いたら、聞くたびに思い出すのかな)