喧騒が近付いてくるのを感じ、は微かに眉を顰めた。音源となる方向を向かなくとも、誰が巻き起こしているのかすぐに解る。必需品となった耳栓をブレザーから取り出すと、其れを耳に嵌め込んで聞かぬ振りをした。此の休み時間の間に、欠席した分の授業ノートを書かねば間に合わなくなる。巻き込まれるのはご免だ。耳栓を通して聞こえてくる自分の溜息は、小さい様で意外と大きかった。頬杖をつき、ふと窓の外を見る。薄曇った窓ガラスを、一滴の雫が流れ落ちて行った。張り付いた水滴の合間を縫うように落ちていく雫は、サッシに溶けて消える。頭ではノートを書き写す事を望んでいるのに、身体はどうしても言う事を聞かなかった。ぼやけた視界の奥に、雨に塗れたグラウンドが見えた。今日の体育は、自習かそれとも――

 「俺様の前で耳栓なんぞ良い度胸じゃねーか」

 不意に右側の耳栓が抜かれ、は驚いた風に目を丸くして振り返る。そして耳栓を手にしている人物を捕らえると、又かと言わんばかりに瞳を細め、あからさまに呆れた表情をしてみせた。一方耳栓を抜いた本人は、不愉快だとばかりに眉間に数本の皺を刻んでいた。

 「跡部の周りはうるさいから」
 「アーン? 俺の知ったこっちゃねえ」

 フン、と鼻を鳴らして跡部は笑う。さも当然の様にの前の席に腰を下ろし、ピンク色の小さな耳栓を眺め始めた。そんな事をしていても様になるのか、廊下からは悲鳴にも似た歓声が聞こえてくる。馬鹿らしいと思っていても、彼女達は本気なのだ。そして、跡部の後ろに座るに敵意の目を向ける。見知らぬ女子生徒達から敵視されるのも今やすっかり慣れてしまい、廊下を歩けば後ろ指を指され、すれ違えば誰もが振り返る。そんな生活を当たり前だと思うようになった自分が、まるで別の人間の様だった。

 「それで、此処に来た用件は?」
 「理由がなきゃ彼女の所に来ちゃ駄目ってか?」
 「別にそんな事は言ってないけど。珍しい」

 と跡部は、恋人関係にある。付き合って三ヶ月。其れまでは生徒会役員としての接点しかなかったからこそ、跡部と付き合い始めてから知った事も色々有る。けれど、跡部がこうして十分間という短い休み時間の間に、理由も無くの元に現れるのは珍しい事だった。普段なら、手には生徒会の資料がある。副会長であるは、跡部が部活の練習が忙しい時に代役として仕事を受け持っている為、今回もまたその類だろうと思っていたのだが、どうやら違うらしい。

 「最近、お互い忙しいだろうが。放課後だって時間作れねーし」
 「そうだね」

 彼の言う通り、最近は生徒会の事でしか話さなかった。テニス部がオフの日は、最終下校時刻まで生徒会室で書類を纏めなければならない。勿論二人きりな訳ではない為、公私をキチンと分けている二人が恋人らしい会話が出来る筈も無く、彼是一週間が過ぎようとしていた。
 の目線は、ノートとノートを行き来している。すらすらと書き綴られて行く文字は、跡部のお墨付き通りとても綺麗だった。けれど、折角彼氏が時間を作り会いに来ていると言うのに、素っ気無い態度を取り続ける彼女に、跡部は不満を感じていた。元々大人びているは、必要以上に感情を出さない。勿論楽しければ笑うし怒る時は表情に出るけれど、何時でも笑顔というわけではない。

 「少しはこっちを見ろよ、

 その不満が、行動を起こす。ノートを黒くしていくシャープペンを抜き取ると、そのままの空いた手に自分のそれを絡めた。驚いた様子で目を見開き、呆然と此方を見るに、何時も通りの勝気な笑みを浮かべた。

 「漸く向いたな」
 「びっくりするでしょ。本当にどうしたの、何かあったの?」
 「お前は何もねえのかよ」

 跡部の青く透き通った瞳が、を捉える。寂しいのが自分だけなんて、認めてやらない。そう聞こえてくるようで、は微かに笑った。そして、絡められた手に力を込める。肉刺の出来た白い手に触れるのは本当に久しぶりで、その感触を確かめる様に両手で包み込む。

 「寂しいよ。けど、仕方ない事だと思ってた」
 「仕方なくなんかねえ。お前が寂しいっつーなら、時間割いてでも会いに来る」

 だから、少しは我が侭言えよ。付け加えて笑う跡部は、何時になく穏やかな顔をしていた。自分が仕舞い込んで来た感情をいとも簡単に見破られ、は少しだけ苦笑する。忙しい人だから。人気の有る人だから。一個人の我が侭で振り回してはいけない、そんな気持ちが先走ってしまった。それが、跡部にすれば大人びた余裕だと思ったのかもしれない。

 「時々、こうして会いに来てくれれば充分」
 「部活と生徒会、両方引退したら飽きる程構ってやるから、それまで待ってろ」
 「うん」
 「いや……俺が待てないかもしれねえな」

 クツクツと喉の奥を鳴らして笑うと、机を挟んだまま身を乗り出して、そっと彼女の唇に吸い込まれていった。








純愛コーダ

(09/11/10  これでも我慢してたのよ、あなたのために)