春風は、濡れた頬を冷やす様に優しく包み込む。精神状態は落ち着いていも、身体は未だ興奮していた。味わった事の無い焦燥感が、切原を鬱陶しい位に取り巻く。テニススクールに入ってからは無敗だったからこそ、大きな絶望を覚えた。井戸の中の蛙とは、正しく此の事なのだと実感した。桁違いに強い、立海の三強とも呼ばれる全国レベルのプレイヤー達。殆ど点を取らせて貰える事無く、試合が終了してしまった。中でも特に威圧感を感じたのが、部長である幸村精市。穏やかな雰囲気や儚い様子とは裏腹に、誰よりも力強く魂の込められた球を打ってきた。年齢の差は一つしかないと言うのに、実力は果てしない差が有るのだと痛感した。 「クソ!」 身体を流れ落ちる汗を拭う事も、焼けた様に熱く乾燥した喉に潤いを与える事もせず、切原は人気の無い裏庭で蹲っていた。悔しさで出てくる涙は、何時まで経っても止まらない。頬を伝う熱い其れが、更に焦燥感を駆り立てた。近くの草を握り締める。その際に爪に土が入ったが、そんな事は気にしていられなかった。嘗て無い程の自信が、一瞬にして砕かれた気がした。荒い息を吐き出すと、不意に視界が青色に染まった。眉間に皺を寄せ其れを取り払うと、どうやら其れはテニス部で使うタオルらしかった。 「漸く見つけた。すぐ走って行ったから、探したよ」 「誰、アンタ」 「入部した時に説明されたでしょう、テニス部マネージャーのです」 すぐ近くに見えた、学校指定のジャージ。紺に赤のラインが入った其れを伝い上を見上げれば、太陽に被さる様に彼女が笑っているのが見えた。は切原の横に腰を下ろし、立て膝に頬杖を突いて切原の方を向く。突然見知らぬ人間が入り込んで来た所為か、切原はあからさまに不機嫌そうな顔を作り彼女を睨みつける。無論目を合わせていたは、そんな切原の様子を見て目を見張ったが、すぐに又瞳を細め笑みを浮かべた。 「試合お疲れ。良くあの三人と連続で試合出来たね」 「お前には関係ねーだろ」 「君がテニス部入るんなら関係有るじゃない」 「何で此処に居んだよ、さっさと他のトコ行って貰えません?」 嫌味ったらしく語尾を強調して言う切原に、は嫌な顔一つ見せずに首を振った。そして、続ける。 「君が、三人に勝たなくて良かったと思うよ」 「は?! ふざけんなよお前! コッチがどんな思いで……!」 「もし勝ってたら、君が立海に来た意味が有った? 此処で何を学ぶの?」 「え……?」 「テニススクール通ってて、楽しかったの?」 ふと真面目な顔になり、は問うた。彼女の問いの答えは、ノーだ。確かにテニススクールに通っていて友人も沢山出来たが、心底楽しむ事は出来なかった。切原よりも強い人間がおらず、常にコーチ相手に試合をしていた。けれどコーチは切原だけに構っている訳にも行かず、常にと言っても一週間に一度出来るか出来ないか位の頻度だ。マンネリ化していた日常を変える為に、立海に来たのだから。途端に黙り込む切原に、はふわりと唇を釣り上げた。 「目標が出来て良かったね。立海に入って、未だ少ししか経ってない。未だ時間はたくさん有るよ」 「目標……」 「何も目指さないでテニスをするより、目標を作った方がぐんと伸びるでしょう」 優しい声が耳に入ってくると同時に、頭を撫ぜられた。普段なら身を捩ってでも拒否する行為を黙って受け入れてしまったのは、彼女の言う事が最もだったからかもしれない。は不意に切原の耳元に口を寄せると、そっと呟いた。 「精市達は、君に期待してる。君を待ってるよ」 ダイレクトに伝わってくる声に、切原の動悸は激しくなる。が、はすぐに立ち上がった。最後に切原の横にスポーツドリンクのペットボトルを置くと、そのままその場を後にしようとした。が、去ってゆく後姿を、大声で呼び止める。驚いて振り返る彼女の顔を目に刻み付け、敬意を込め、叫んだ。 「先輩! 俺、切原赤也ッス! 絶対、勝ち上がってみせます!」 自信に満ち溢れた声色に、はすぐに笑顔になった。そして、大きく頷いた。 「赤也、そろそろ起きないとお昼終わっちゃうよ」 先程まで聞いていた声が間近に聞こえ、切原はゆるゆると目を開けた。どうやら、夢だったらしい。夢で見たよりも幾分か大人びた彼女が、目の前で笑っていた。少し掠れた視界を擦ると、はくすくすと声を立てて笑う。何の事だか解らず首を傾げると、は楽しそうに話し始めた。 「随分懐かしい夢見てたんじゃない? 寝言言ってたよ、先輩ーって」 「マジ、スか。その通りッスよ、俺と先輩が初めて会った時の夢見てました」 「初めて会った時? ああ、赤也が精市達に負けた時の」 懐かしいね、と付け加えて、は屋上のフェンスに寄り掛かった。そして、更に笑みを深める。 「まさか、懐かれるなんて思ってもみなかったよ」 「超慕ってましたよね、俺」 「ブン太達にからかわれた癖に、全然辞めなかったもんね」 「いーじゃないッスか、結果俺の彼女になった訳だし?」 上半身を起こし、を引き寄せる。あの頃よりも成長した身体は、今じゃをすっぽりと抱き締める事が出来た。寝起きだからか酷く高い体温に、は呆れた様に眉尻を下げる。幾ら秋に差し掛かっているとは言え、残暑はまだまだ厳しい。しかしあからさまに暑いとも言えず、仕方ないと言わんばかりにため息を吐き、その背中に腕を回した。 「先輩が居なかったら、今の俺は居ないッスよ」 「はは、大袈裟過ぎ。そんな事言うと、皆怒るよ? あれでも赤也の事凄い可愛がってるんだから」 「部長と仁王先輩は解り難いッス」 「それを言うなら弦一郎でしょう、あれは愛の鞭って感じだもん」 「あー、鉄拳はもう食らいたくねえ」 「なら英語で赤点取らない事だね。そうすればきっと見直してくれるんじゃない?」 「それじゃ、先輩教えて下さいよ」 「ええ? 高くつくよ?」 「俺金欠なんですって。これで許して下さい」 顎を持ち上げられ、不意に落とされたキスには目を丸くしたが、すぐに笑顔を浮かべた。 「バーカ」 エリーゼの夢 (09/11/23 遠い記憶は、今を辿る証拠) |