恋愛





進化論。






 目の前で微かに頬を染める男子生徒を他人行儀な瞳で眺めながら、はただひたすら聞いていた。冬だからか少し乾燥した唇から紡がれる言葉を、ただ。時折癖の様に首の後ろを掻き、定まらない目線をふよふよと漂わせ、其れでも彼の言葉は止まらない。直入に言えば、告白だ。暖房が効く室内では無く、わざわざ人気の無い屋上に呼び出され、頬を掠めてゆく北風のピリピリとした痛みと戦いながら、は彼の言葉を聞いていた。名前は、桜井と言うらしい。正直な所、顔は何となく見覚えが有るけれど、名前は知らなかった。でも其れを言っても彼が傷つくだけだと解っているから、敢えて言わなかった。

 「余り喋った事無いから、印象とか無いかもしんないけどさ。それでも俺は、が好きなんだ」

 男独特のハスキーな声が、少しだけ上擦る。最後にと目を合わせると、はにかむ様に俯いた。一連の動作を見て、は考える。顔は、中々整っている方だと思う。性格も申し分無いだろう。遠い記憶の引き出しを開け閉めしても、彼にこれと言った決定的な欠点は見つからなかった。そして、ふと思い出す。二年生の時、委員会が同じだったのだ。と言っても特に話し込んだ覚えは無く、事務的な会話だけで一年が終わった記憶しか残っていない。彼は委員長だったから、名前では無く担当役割で呼んでいた、だから名前に聞き覚えが無かったのだ。そこまで思い出してから、もう一度彼を見る。返事が無いことに戸惑っているのか、彼の頬に射していた朱は消え、心配そうな表情での顔色を伺っていた。
 返事を返すのを忘れていた。寒さで麻痺した様に感覚の無い指先と指先を合わせながら、はひそりと眉を寄せる。そして、小さく呟いた。

 「ごめんなさい」
 「そう、か。でも、聞いてくれただけで満足だよ。有難うな」

 は黙って首を振る。何とも無い様な声色の、彼の顔を見る事は出来なかった。否、見なくても容易に想像出来た。それでも、最後にもう一度礼を言う彼の顔を見遣る。笑っていた。寒さなのかはたまた別のものなのか、少し引き攣った頬を持ち上げて、瞳を細め、笑っていた。彼はと目を合わせると、そのまま踵を返して去って行った。
 バタンと大きな音を立て閉まる屋上の扉を見つめ、は一旦瞳を閉じる。再度開くと、大きく溜息を吐いて近くのフェンスに寄り掛かる様に座り込んだ。ブレザーから取り出した携帯電話で時刻を確認すれば、後一分程で授業が始まる様だった。次の授業は、とても出る気にならない。寒さにもスッカリ慣れ、悴んだ指先でそっと頬に触れる。温度の感じられない、ただ指先だけの感覚。その手をそのまま、コンクリートに這わせる。

 「あいつ人気有るぜ」
 「ふうん」

 不意に聞こえて来た声に驚く事も無く、は大して興味もなさそうに聞き流した。声の主が居る事は、何となく予想していた。絶好のサボりスポットだし、大抵のサボりは屋上に行くと殆どの生徒が知っている。クラスメイトでもあるは、屋上に来る前彼が教室に居なかった事も知っていた。

 「興味無かと? お前さんも結構整った顔しちょるけ、色んな男が寄ってくるじゃろ」
 「そうでもないよ。それに、君もそうでしょう、仁王君?」
 「俺は殆ど受け入れるぜよ」
 「へえ」

 給水タンクの上から、銀色が現れる。彼は数段梯子を降りたかと思うと、皇かにふわりと飛び降りた。長い足は、真っ直ぐの方へやって来る。は、その足を辿る様にして上を見上げる。ご丁寧にマフラーの巻かれた口元は見えなかったけれど、ニヒルな笑みを浮かべている事はすぐに解った。特に反応も見せず目を外し、首をフェンスに凭れさせる。すると、仁王はその場にしゃがみ込み、と同じ目線の高さまで降りてきた。そして、小首を傾げる。

 「振った側なのに、落ち込んどるんか」
 「落ち込んではないよ。ただ、申し訳無いなって思ってるだけ」
 「そう思うなら付き合えばよかろ」
 「解ってないねえ、仁王君」
 「何が」
 「そんなの、先延ばしにしてるだけ。後々、同じ事を思う時が来る」

 仁王に解る筈も無い。そんな感情を持ち合わせる事も無いし、後々思った事も無い。は其れを知ってる上で、話を続ける。

 「私、結構自己中なの。ピンと来ないと付き合わないよ」
 「人を選ぶって事か」
 「傷つくのも、傷つかれるのも嫌。告白された場合は例外だけどね」
 「付き合った事無いんかの?」
 「あるよ。中一から、高二の終わりまで」
 「長」

 思わず顰め面をして見せた仁王に、は声を出して笑う。約五年間付き合って来た事を誰かに話すと、誰もが同じ反応をする。けれど、にとって五年は普通だった。それ以上続くのが、普通だと思っていた。呆気なく終わりを迎えてしまった結末は、今でも鮮明に思い出せる。

 「何で別れたと?」
 「ただ単に、これから先付き合っていける自信が無かったから」
 「五年も付き合って来たのに?」
 「付き合って四年経った頃かな、彼が浮気したの」
 「許さなかったんか」
 「ううん、許すも許さないも無いよ。浮気は、分岐点の選択肢の一つだし」
 「分岐点?」
 「浮気するっていうのは、これから先、何時来るか解らない別れの道を選択したって事」
 「でも、浮気した前科があっても結婚して幸せなまま生涯を閉じる奴も居るとよ」
 「そんなの当たり前だよ。これは私の恋愛論。私じゃない人がどう恋愛しようと、何千通りの恋愛の仕方が有るんだから当然の事。でも、私と付き合うんなら別。浮気をすれば、その場は許されたとしても、後々別れに繋がっていく第一歩だって言ってるの。私が冷めちゃうから」

 仁王は驚いていた。自分の恋愛を確り理解した上で、其れを他人に述べられる様な人間を初めて見たからだ。無論、の言う事には頷ける。仁王には仁王なりの恋愛の仕方が有る。だが、付き合って来た殆どの女が、仁王の恋愛を否定して別れを告げた。仁王の恋愛方法に従えと言っている訳じゃない、ただこういう恋愛もあるのだと、理解の姿勢を見せてほしかったのだ。は、息を抜くように溜息を吐いた。

 「仁王君も有るでしょ、そういうの。ま、恋愛論なんてどんどん変わっていくけどね」
 「ククッ、面白い女やのう」
 「そう? 普通だと思うよ。取り敢えず、別れるのが嫌なんだよね、だから付き合わない」
 「ま、五年も付き合ってればねえ」
 「冷めて別れたとしても、五年も一緒に居たからね」

 少しだけ懐かしむ様に瞳を細め、は口元を釣り上げる。何色にも染められていない真黒い髪を掻き揚げて、空を仰ぎ見た。冬の曇り空。別れた時の空も、こんな色をしていた。別れて約一年経っても、未だに思い出す事が有る。五年間は、余りにも長過ぎた。忘れられていないのかもしれない、けれど其れで良いとも思う。

 「俺、遊び人みたいなイメージあるじゃろ?」
 「そうだね、来る者拒まず去る者追わずって言われてるし」
 「あれ、半分正解で半分不正解。付き合う期間は短いが、彼女が居る時は他の女と遊ばんよ」
 「それじゃあどうして別れるの?」
 「俺は基本的に恋愛には無頓着なんじゃ。優先する事もないしの。それが耐えられんらしい」
 「きっとその内、仁王君の恋愛観を変えてくれる人が現れるよ」
 「変える? 認めるじゃなくて?」
 「勿論認めるのも必要だよ。でも、仁王君は認めてほしい訳じゃない。受け入れた上で、変えてくれる人を待ってる」

 違う? と首を傾げて瞳を細めるに、仁王は呆気に取られた顔をしていたが、不意に表情を歪ませると楽しそうに頷いた。

 「今の恋愛に満足してないのは、自分の恋愛論って言わないよ」
 「そうやの」
 「だからきっと、君に相応しい恋愛をさせてくれる人が現れる」
 「その人が目の前に居るかもしれないっつったら?」

 仁王の言葉に、は驚いた様に目を丸くした。まさかそんな切り返しをされるとは思っていなかったのだ。仁王はふと真面目な表情に戻ると、のすぐ後ろにある緑色のフェンスにそっと片手を絡ませる。ただ其れだけで落ちる女は、幾らでもいた。けれど、彼女は仁王の行動を黙って見ている。否、これから起こす行動を待っている。
 彼女の無言の訴えに、仁王は小さく笑みを零した。

 「なあさん、俺と付き合ってみん?」

 距離にして五十センチも無い場所から呟かれた声を聴くなり、は目を閉じる。脳裏に、彼の顔を描いた。高校、大学、そして社会人。大人になっても、彼は変わる事なくの横で笑っている、そんな想像が容易に出来てしまった。先程告白してくれた彼とは全く別の何か。が仁王の恋愛観を変えると同時に、仁王も又の恋愛観を変えていくのだろう。

 「いいよ」

 は、屈託の無い表情で笑った。