玄関の扉を開けるなり、丸井の耳に聞こえて来たのは小学生の弟達の笑い声と、最近はメッキリ姿を見せなくなった幼馴染の穏やかな声。リビングに通じる扉を開けると、楽しそうにテレビゲームをやる二人の弟を傍らで眺めているの姿が眼に入った。丸井がリビングに入って来た音に気付いたらしく、彼女は目線だけをこちらに向ける。そして、緩く微笑んだ。
 彼女に会うのは、彼是半年振り位だと記憶している。三つ離れたは今年大学受験があり、勉強の為なのか丸井家にも全く顔を出さなくなった。丸井は二ヶ月ほど前に部活を引退したものの、エスカレーター式に高校へ上がる所為か受験勉強なるものには手をつけていない。高校はそのまま立海付属高に上がるつもりだ。だから受験も無縁だし、忙しいとも感じなかった。だから彼女が此処に居るのは、受験が終わったからなのか、はたまた別の用事なのか、丸井に予想がつく筈も無かった。
 は弟たちから手渡されたであろうゲームのコントローラーを片手に、ひらひらと手を降ってきた。

 「久しぶりだね、ブン太。ちょっとは身長伸びた?」
 「るせ、余計なお世話だっつーの」

 彼女の決まり文句だった。会う度に身長を聞いてくるのは、丸井が成長期と言うものに未だ遭遇しないからだ。普段なら機嫌を悪くするのだけれど、この時ばかりは丸井も緩んだ口元を隠さずに彼女の横へ腰を下ろした。その際、ふわりと彼女の香水の匂いが鼻先を掠めた。嗅ぎ慣れない匂いに、丸井は無意識の内に眉をひそめる。前までは知った洗剤の香りだった筈なのに、急に彼女が大人びた気がした。よくよく見てみれば出先の帰りなのか、綺麗な私服に身を包んでいる。知らず内に腰まで伸びていた黒髪は、肩を過ぎた所からくるりと柔らかく大きなウェーブが掛かっていた。化粧もしているし、黒髪から覗く白い耳には、何時空けたのかすら解らないシルバーピアスが光っていた。
 じっと見られている事に居心地の悪さを感じたのか、は皺の寄った丸井の眉間を細い人差し指でツンと突く。そして、誤魔化すように笑った。

 「私の顔に何かついてる?」
 「久しぶりだなーって思ってさ。結構変わったなあ」
 「そりゃそうよ、来年から大学生だもの」

 その言葉が、丸井の胸にズンと圧し掛かる。丸井が彼女に追いつこうとするたび、彼女の肩書きはどんどん変わってゆく。一緒だったのは小学生の時までだ。彼女が中学生に上がり、丸井も中学生に上がった頃には、彼女は高校生になっていた。今度は丸井が高校生になる。けれど、彼女は大学生になってしまう。彼女は地元の公立高校に通っているけれど、もし丸井と同じ学校に居たとしても、綺麗に擦れ違ってしまうのだ。だから丸井は、学校での彼女を知らない。どんな友人が居て、どんな学校生活を送っているのか。彼女の口から出てくる言葉よりも、実際眼で見て確かめることは出来ないのだから。
 しかしは何とも思っていないらしく、弟たちに誘われるがままコントローラーを操作している。画面には大きな文字でカウントダウンがされ、ゴーの文字と同時に八台の車が走り始める。カーレースゲームだ。はこのゲームが得意なのか、巧みな操作でアイテムを使い一位をキープしている。

 「なあ、
 「……え?」

 丸井が話しかけたのが唐突だったからか、は驚いたように振り向いた。その際、テレビの中の車が崖と思わしきものから真っ逆さまに落下していったが気にしない。彼女は酷く吃驚した様子で丸井を凝視している。余りにもその様子が可笑しくて、丸井は首を傾げた。何か変な事を言っただろうかと。本題はまだ話していないし、何せ名前を呼んだだけだ。
 (名前、を……!)
 今更気付いても後の祭りだ。今の今まで、彼女を呼び捨てで呼んだ事なんてなかった。小さい頃から姉代わりだったからか、ずっと「姉ちゃん」と呼んでいた。けれどそれはあくまで彼女の前だけ。学校で幼馴染の話題になった時なんかは、普通に呼び捨てで呼んでいたから、その癖がついてしまったらしい。丸井家の中でも、の話題が出た時には普通にそうしていた気がするし、誰かに触れられる事も無かった。定着してしまっていたのだ。
 は暫く驚いた顔をした後、弟たちに呼ばれてハッとしたようにテレビ画面に目を戻した。そこには、彼女の車だけがポツンと路上に残された状態で掲げられた「GAME OVER」の文字。余所見してるからだよー、なんて可愛らしい声で文句を言われ、は苦笑しながら謝っている。ゲームはまだ続いているらしく、メインのコントローラーを持つ上の弟が操作をすると、またもやカウントダウンの画面へと切り替わった。彼女はテレビから目を離す事なく、そっと問い返した。

 「それで、どうしたのブン太」
 「そのゲーム終わったら、俺の部屋に来いよ」
 「ああ、うん」

 彼女が頷いたのを確認すると、丸井は傍らに放置していたスクールバッグを片手に自分の部屋へと向かった。二階にある部屋は随分と冷えていて、部屋に入るなりさっさとエアコンを点ける。朝脱ぎっぱなしだったスウェットを、入り口近くの麻で出来た洗濯カゴへ放り込んだ。ブレザーをハンガーに掛けると、首元を締め付けるネクタイを緩める。起きた時は何時もぐしゃぐしゃになっているシーツを不器用ながらに綺麗に伸ばし、その上に寝転がった。フィルターを挟んで聞こえる、楽しそうな声。声変わりのしていない弟たちの高いはしゃぎ声が、やけに耳につく。
 暫くすると、静かに階段を登ってくる音が聞こえた。家族の誰でもない、落ち着いた足音。それは丸井の部屋の前で止まると、二回のノックの後ゆっくりと扉が開いた。ベッドに寝転がっていた丸井はその姿が見えなかったけれど、ベッド脇に腰を下ろすその後姿を見て、自然と口元が緩んだ。

 「ブン太の部屋なんて久しぶりに入るね。全然変わってない」
 「あんま、部屋の中とか気にしねーし」
 「で? 勉強でも教えてほしいの? 急に部屋に呼ぶなんて」
 「違う」

 片肘を突いて、上半身を起こす。リビングとは違う蛍光灯に照らされたが、じっと丸井を見つめていた。マスカラの塗られた長い睫毛も、全く荒れていない白く透き通った肌も、赤く色付いた唇も。全て丸井の知っている彼女のものではないような気がして、思わず彼女の肩を掴む。は微かに眼を見張ったが、すぐに柔らかく瞳を細めた。

 「何考えてるのかしらないけど」

 丸井の真っ赤な髪に触れながら、はぐっと顔を近づける。黒目の大きな瞳に、自分自身の戸惑う顔が映し出されたのが、どこか他人事のようだった。彼女は戸惑う丸井を見て喉を鳴らして笑うと、首を傾げた。サラリと肩口を滑り落ちる黒髪から、また香水の匂いが漂う。

 「ハッキリしないのは嫌いなの」
 「ご、ごめん」
 「言う気になったら言ってよね」

 それだけ言うと、は何も無かったように丸井から離れた。そして、ベッド脇から立ち上がり机の横にある本棚を眺め始める。中には月刊のテニス雑誌が所狭しと並んでおり、彼女はその内の一冊を手に取りベッドに寄りかかるように座り込んだ。ぺらぺらと捲られる中身は、有名なテニスプレイヤーの特集だったり、スポーツメーカーの宣伝だったりと、には縁の無いものばかりのように思える。それでも彼女はあるプレイヤーの特集のページで手を止めると、小さく書き連なった文字を目で追い始めた。そのプレイヤーは世界的にも有名なプレイヤーだが、それはテニス界の中での話しだ。テニスに何ら関わりのない一般人が知っている程メジャーではない。けれど、はプレイヤーのインタビュー内容を熱心に読んでいる。

 「その選手、知ってんの?」
 「知ってるって言うか、慎吾が好きなプレイヤーだから何となくね」
 「……慎吾?」
 「ああ、クラスメイト。友達の名前よ」

 さも当然の様に彼女の口から出て来たのは、未だ一度も聞いたことの無い男の名前。呆然とする丸井に気付いた様子もなく、はページを捲った。どうやらもう読み終わったらしい。それとも、途中で飽きてしまったのだろうか。どちらか定かではないけれど、彼女の興味がそのプレイヤーから反れたのは事実だ。後は特に気になるページも無かったのか、ざっと読み終えると雑誌を元に戻そうと立ち上がった、その時だった。フローリングに下ろされていた彼女の華奢な手を、引き止めるように掴んだ。似た様な事が何度か続いたから、は大して驚いた様子も見せずに丸井を見返すが、その目線は交わらなかった。丸井はじっと彼女の手を見つめていた。自分でも何故引き止めたか解らない、なんて戯言は言わない。本能のままだったのだから。自分で痛いほど理解しているし、その旨を彼女に伝えなければいけない事も良く解っていた。

 「誰、そいつ。仲良いの?」
 「まあ、仲良いっちゃ良いけど。三年間同じクラスだったし」
 「ふうん」
 「もう、何なの? 言いたいことがあるならちゃんと言ってよ」

 丸井が不機嫌になった事くらい、顔を見なくても声のトーンで解るのだろう。俯いたまま顔を上げようとしない丸井の頭に、彼女のため息が落とされる。はっきりしない男は嫌いなのだと、先ほどが言っていたのを思い出した。もしかしたら、冷たい瞳で見下ろしているんじゃないだろうか。呆れた顔をしているんじゃないだろうか。そんな想像ばかりがぐるぐると頭を回って、無意識の内に掴んでいた手に力を込める。そんな静寂を破るかのように、エアコンがカチャリと音を立てて風向きを変える。小型ゲームの取り合いでもしているのか、遠くでは弟たちの言い争う声が聞こえてきた。母親がキッチンで料理を作る音も。色々な音が交じり合う中、丸井は漸く顔を上げた。

 「俺さ」
 「うん」
 「ずっと前から、の事が好きだった」

 暖房の所為だろうか。顔から蒸気が出そうな程、熱い。彼女の腕を掴む手も、心成しか汗ばんできたように感じる。彼女は丸井の言葉を聞くなり、今度こそ驚嘆した様子で眼を見開いた。薄ら開いた唇は開閉を繰り返し、やがてゆっくりと閉じられた。そして嬉しそうな、楽しそうな、幸福に満ちた笑みを零す。

 「私だけだと思ってたよ」
 「それって、」
 「私もブン太が好きよ」
 「マ、マジで?」
 「嘘ついてどうするの。本当だよ」

 は掴まれていた手をそっと動かして、丸井の指と絡めた。つい最近まで大差無いと思っていた手も、彼女の方が白く、細く、そして柔らかかった。丸井の手の第一関節辺りまでしか無い掌に、思わず笑ってしまった。もつられる様に笑い出す。

 「ずーっと『姉ちゃん』なんて呼ばれてたから、諦めてたところよ」
 「でも、俺の前以外では殆ど呼び捨てだったぜい」
 「そうなの? さっきは流石に驚いちゃったけどね」

 お陰で一位どころか最下位だったの見てたでしょう、とは微かながらに頬を膨らませた。

 「んでさ、聞きたかったんだけど。何で慎吾とか言う男は下の名前で呼んでんの?」
 「同じ苗字だから。私含めて三人も居るの」

 そう言って、彼女は口端を釣り上げた。そんな笑い方も何時の間にかサマになっていて、前なら当然の様に飛び出ていた「大人ぶるなよ」の一言も喉に引っ掛かったまま出てきてくれない。はそれを知ってか知らずか、更に笑みを深めた。
 三日月型に細められた大きな瞳が不意に近付いたかと思えば、唇に柔らかく暖かいものが押し付けられた。一層強まる香水の香り。目を見開く丸井の前で閉じられている、長く濃い睫毛で縁取られた瞼。状況を把握するまでに時間が掛かりすぎたのか、はそっと唇を離して額同士を合わせる。

 「余計な事考えないの。私が好きなのはブン太だけだから」
 「知ってる」

 丸井の言葉には眼を丸くしたが、すぐに微笑むとそのまま眠るように目を閉じる。そんな彼女の後頭部に手を回し、そっと引き寄せて口付けた。



09/12/21 雅