「ちゃんがあの家に居るのも今年で最後だし、ブン太パーティ用のケーキでも作ってあげたら?」 「……は?」 朝食中さも当然の様に告げられた言葉に、丸井は掴んでいた卵焼きを茶碗の中に落とした。隣で同じく朝食を取っていた弟がそれを見て笑っているが、今は気にする所か脳の片隅にさえ留まっていなかった。問題は母親の爆弾発言である。つい先週晴れてと結ばれたのは良いけれど、矢張り忙しいのかメールも電話も殆ど出来ない状況が続いていた。半年以上会っていない状況が続いていたのだから我慢出来ると言えば出来る。家は隣だし、部屋だって典型的な隣同士だ。けれど彼女の部屋は常に白いレースカーテンが掛かっており、顔を合わせる事は殆ど無かった。でもだからと言って、それが母親の言う「今年で最後」にはなりえない。意味が解らぬまま、落としてしまった卵焼きを口の中に放り込んで問うた。 「行き成り何の話してるわけ」 「何って、ちゃん来年から一人暮らしするじゃないの。聞いてなかったの?」 「一人、暮らし? 何だよそれ……」 「今の家だと、大学から少し遠いんですって。何ならちゃんに聞いたらどう」 母親はそれだけ言うと、空になった食器を持ちキッチンへと消えて行った。呆然と箸を止める丸井を他所に、二人の弟もさっさと済ませてダイニングテーブルから離れていく。一気に食欲がなくなった気がして、丸井は黙ったまま箸を置いた。一人暮らしするだなんて、聞いていない。考えてみれば、隣で話を聞いていた筈の弟も驚いていなかった。知っていたのだろうか。沸々と沸いてくる怒りとどうしようもないやり切れなさで、丸井は荒々しくリビングを後にする。後ろで母親の怒る声が聞こえてくるが、今は構っていられない。 バタバタと音を立てて階段を駆け上がり、自室に入って向かい側に有る窓を開けた。冬の朝独特の冷たい空気が部屋の中に入り込む。彼女の部屋は相変わらず白く薄いレースカーテンが引っ張られているが、その奥で影が動いたのを丸井は見逃さなかった。 「! 居るんだろい、ちょっと顔出せよ!」 「何? こんな朝早くに」 すんなりとカーテンが引かれ、が顔を出した。見慣れない高校の制服に身を包んでいる。彼女は丸井の顔を見るなり、怪訝そうに眉をひそめた。彼の顔が、稀に見ない不機嫌顔だったからだ。喧嘩したわけでもないし、連絡は確かに途絶えていたが、たかが三日四日の話。メールやら電話やらが嫌いなにとって、メールを返さなくなるのも電話に出ないのも、丸井は知っている。だからこそ丸井が怒っている理由が解らないのか、はそれ以上文句を言う事をせず黙って窓のサッシに頬杖をついた。 「なんで言わなかったんだよ」 「……何を?」 「一人暮らしの事! 何で俺に言わなかったんだよ!」 は眼を見開いて、丸井を凝視した。何で知ってるの、とでも言いたげなその顔を、丸井はあらん限りに睨みつける。少しだけ息を荒げた丸井を、は困惑した風に見つめた。言わなかったわけではない。先週のあの日、丸井家に居た理由はそれだった。来年から一人暮らしをすることを伝えに来たのだ。玄関先でさっさと済ませようとしたのだが、弟たちに引っ張られてゲームをやっていたのだと、彼女はそう言った。だから故意に言わなかったわけではなく、言うタイミングを逃しただけなのだと。けれど丸井はそれで納得するはずも無く、鋭い眼光は未だ緩まない。 黙ったまま睨みつけてくる丸井に、は大きく息を吐いた。彼女は気が長くない。どちらかと言えば短気だけれど、それは一定の項目に関してだ。後は無関心を貫く彼女が実は短気だなんて、彼女の両親や丸井家の人間しか知らないんじゃないだろうか。 「ブン太は何が言いたいの」 顔を見なくても解る。呆れた、冷たい声。自然と眼を伏せていた丸井の上に、彼女の言葉が容赦なく降りかかった。頬杖をつく彼女の右手には、サッシに沿うように左腕が添えられていて。その指先が、苛々するようにカツカツとサッシを叩く。黙り込んだまま何も言わない丸井に、は二度目のため息を吐いた。 「言えなかった事に関しては謝る。ごめんね。でもちゃんと言おうと思ってたのよ?」 「そうじゃ、なくて……なんで一人暮らしなんてすんだよ。あの家、出て行くのかよ」 「長期休暇には戻ってくるよ。何せ、実家だからね」 「どこの大学行くんだよ。別に家から通ったって良いだろい?」 焦っているのが自分でも感じて取れた。今まで、彼女は丸井の我が侭を幾度と無く聞いてきた。全て叶えてくれた。今回も、きっと踏み止まってくれるだろうと思ったのだ。けれど。は戸惑った表情を浮かべて、首を横に振った。頭が真っ白になるのが解る。今までの思い出の上に、真白いペンキをぶちまけられたかのように、一気に白くなっていた。そして、知らずうちに言葉が出ていた。 「もう……なんて知らねえよ!!」 「ブン太、」 勢い良く窓を閉め、カーテンを引いて。机の上に無造作に置かれたスクールバッグを手に取ると、丸井は一目散に家を飛び出した。の驚いた様な、小さな声で名前を呼んだも反応せずに。 暫く走って辺りにちらほらと立海の生徒が見えてきたのを確認すると、丸井はゆっくりと速度を落とした。弾む息を整えながら、ぐちゃぐちゃになった頭の中を整理し始める。彼女が一人暮らしを始める。すなわち、産まれてからずっと一緒だった家や丸井家から居なくなるということ。どこに一人暮らしするのかは知らない。けれど、どこへ行こうとも離れてしまうのは事実だ。幾ら先週、半年振りに顔を合わせたとは言え、隣の家にいるという安心感があったからこそ。顔を合わせなくとも、一メートルの空間を挟んだ向かい側に彼女が住んでいる。それだけで充分だと思っていたのに、今度はそれさえも無くなってしまう。居なくなってしまう事に一抹の不安を覚え、丸井は苛々した様子で己の髪を掻き回した。 その日の授業は、全て集中出来なかった。まるで日課のようにお菓子を持ってやってくる女子生徒達とどうやって会話したのかも、全く覚えていない。何時もの通り放課後カラオケに誘われたのも、断ったのか了承したのかすら覚えていなかった。けれど、放課後誰も何も言わなかったのを見て、きっと無意識の内に断っていたのだろうと知る。 (ダッセェ俺……) 彼女を困らせるだけだと解っていた。進路を決めるのに、恋人中心に決める人間は居ないだろう。いや、付き合う前からだったから、余計だ。幼馴染の為に家に残る、なんて決断、するはずがない。苛々している癖にキチンと謝ってきたのも、怒鳴る丸井に怒鳴り返さなくなったのも、全て彼女が成長しているが故。付き合っているのに、未だに遠い存在に感じる。それが、心だけでなく現実にも離れ離れになってしまうだなんて思いもしなかったのだ。 一人教室に残ってため息を吐く丸井の頭上に影が出来たのは、HRが終わって大分経った頃だった。 「校門の横に女が立っちょってなあ」 仁王だった。仁王は読めない笑みを浮かべながら、丸井の前の席に腰を下ろす。気だるそうに足を組み、頬杖をついて丸井を見やった。その意図が読み取れず、丸井は不機嫌な表情を隠さぬまま、更に眉間に皺を寄せた。仁王はくつくつと喉の奥を鳴らしながら、窓から外を見る。寒空の中、下級生が部活動に励んでいるのが見えた。遠くの方から、後輩である切原の声が聞こえてくるような気さえした。一向に続きを言わない仁王に、丸井は痺れを切らしたように目を向けた。 「それがどうしたんだよ」 「いんや? ずーっと前、お前に見せて貰った写真の女に、よーく似とうと思っての」 「……写真?」 「ずっと生徒手帳に挟んどるじゃろ。ま、幼い頃の写真じゃけえ確信は持てなかと」 その言葉に、丸井はハッとした様に外を見た。けれど、此処から校門が見えるはずも無い。冷静に考えて、彼女の高校から立海まで大分距離がある。居るとは思えない。すぐに眼を戻すと、仁王がニヒルに口端を釣り上げた。何を考えているのかなんて、丸井に解るわけが無かった。 「何処の制服着とったかのう? 赤ストライプのネクタイと、チェックのスカート」 「そんなん、幾らでも居るだろい」 「そうか? あの有名な進学校ぜよ。スクバにでっかい校章マーク入っとるやつ」 ガタン、と大きな音を立てて席を立つ。仁王は解って言っているのだ。そうじゃなければ他校の女に興味を持つ筈が無いし、細々とした制服のパーツを覚えている筈が無い。急に立ち上がった丸井に驚いたのか仁王は一瞬だけ瞬きをすると、窓の外に眼を向けた。そんな仁王の横顔に礼を述べてから、机の横に引っ掛けたままのスクールバッグを片手に走り出す。デジャヴ。朝もこんな風に忙しく出て来た。 放課後だからか、全速力に近いスピードで走る丸井を注意する者は誰も居なかった。昇降口でローファーを引っ掛け、校門目指して走る速度を上げた。暫くして見えてきた校門には、仁王の言うとおり一人の他校生が立っている。見覚えの有る立ち姿。けれど、その周りには立海の男子生徒数人が屯していた。どれも知らない生徒達だが、生徒が多い立海ではそれが当たり前だ。見ていると無償に腹が立ってきて、丸井はあらん限りの声で叫んだ。 「!!」 彼女は名前に反応したのか、ゆるゆると此方を見やる。その表情には、苛立ちと安堵。彼女はきっと怒っている。丸井はすぐにの元に追いつくと、彼女の腕を引き寄せて呆然と眺めている数人の男子生徒に向けて怒鳴った。 「俺の女に手ェ出してんじゃねーよ!」 「丸井の彼女かよ……」 「だから言ったろ、こんな美人が此処に居るっつったら彼氏待ちしかねえって」 男子生徒はもとから諦めていたのか、それとも丸井の剣幕に驚いたのか、すごすごと帰っていった。それを尻目に、丸井はに目を戻す。彼女はポカンとした顔で一連のやり取りを見ていたらしく、驚いたままの表情で帰っていく彼らの後姿をじっと見つめていた。しかし、不意に丸井に目を戻すと、少し怒った様子で口を開く。 「ちょっと付き合ってくれる?」 は眉をひそめたままそう言うと、丸井の返事を聞く間もなく踵を返した。何処へ行くつもりなのか、何故立海まで来たのか。その問いかけをしようと思っていたのに、彼女は立海の生徒達に紛れてさっさと歩いて行ってしまう。慌てて追いかけて隣に並んでも、はだんまりを決め込んだのか何も喋らなかった。家に帰るため丸井が乗る駅も通り過ぎ、やってきたのは人気の少ない公園だった。住宅街の中にある公園だったが、遊具が無いからか子供たちは誰一人として居ない。彼女は忘れ去られたように置かれたベンチの手前で止まると、漸く丸井のほうに振り返った。 「引っ越す直前まで言うつもりは無かったけど」 「……何の、話」 「一人暮らしの話よ。おばさんから聞いたの。ブン太、そのまま立海の高校に上がるつもりなの?」 「それと何の関係があるんだよ」 「立海って、私たちの家からそこそこ離れた場所にあるでしょう」 彼女の意図がわからず、丸井は言われるがままに頷く。確かに、丸井達の家から立海までは距離が有る。丸井も電車通学だ。けれど立海付属高は中学と隣接しているし、通学に何ら問題は無い。大学は更に一駅離れた場所にあるが、まだ先の話だ。の言わんとしていることが全く解らず、丸井は小首を傾げる。 「私は地元の高校に通ってたし、電車通学は慣れてないの。立海って東京寄りじゃない? だから、今後も便利だと思ったの」 「ちょ、ちょっと待てよ。何の話してるんだ?」 「だから」 は一呼吸置いて丸井を見た。 「立海大に行くの、私」 驚いて言葉の出ない丸井を他所に、は続ける。彼女の話はこうだった。 は推薦で立海大を受け、合格した。けれど、如何せん立海までは遠い。隣に住む丸井が通っているのは知っていたが、部活を引退してからサボり癖がついている事も解っていた。だから立海大近くに一人暮らししようと物件を探したのだがなかなか見つからず、漸く見つけたのが立海付属中の最寄り駅付近だった。交通の便は良いし、東京寄りな為都内にもすぐに出られる。将来就職したときにも便利だろうと言う事で、は物件をそこに決めたのだと言う。その報告も兼ねて、丸井と付き合いだしたあの日報告に来ていたのだ。その時、丸井の母親に酷い遅刻癖がついている事を改めて相談され、は「もし立海付属高にあがったら、私の所から通った方が良いんじゃないですか」と提案したらしい。高校は中学と違い義務教育ではない為、遅刻ばかりしていると単位も危うい。だから彼女の提案が助かったのだろう、元々楽観的な丸井の母親はそれに喜んで頷いた。の母も、幼馴染である丸井を良く知っている為、潔く了承してくれたのだ。けれど、丸井には立海付属高校に上がる事が本決まりになるまで言わないでおこうと思っていた。もし他の高校に行くのであれば、自宅から通ったほうが近い場合だってある。実際、が通っていた高校はそうだったのだから。二人で暮らす事を目的に進路を決めてほしくなかった、彼女はそう締め括った。 「ま……マジで?」 「だから言わなかったの。でも本当の事言わなきゃ納得しないでしょ、ブン太は」 彼女は仕方ない、と言った様子で頷く。行き成り告げられた事実に丸井は暫く呆然としていたが、不意に彼女の腕を引いて抱き寄せた。何時から彼女よりも身長が高くなったのだろうか。すっぽりとまではいかないけれど、それでも小さい存在に、丸井は抱き締める腕に力を込める。 「すっげえ、嬉しい。俺、と暮らせんの?」 「それは、ブン太が立海付属高に行く事が決まったらの話で――」 「行くに決まってんだろい! それ以外行くトコねーしな、俺」 元々、立海は偏差値が高い。丸井が立海に来たのも一苦労だった。けれど入ってしまえばそのままエスカレーター式に上がる事が出来るため、勉学を怠っていたのは言うまでもない。だから、どっちにしろ立海付属高に行く事には変わり無かった。嬉しさの余り笑顔が零れ出る丸井に、もひと段落したかの様にホッと息を吐いて笑った。 「おばさん達には、私がこのこと言ったの秘密だからね」 「解ってるって」 耳元で囁かれた言葉に、は頬を緩めると丸井の首元に腕を回して抱きついた。 09/12/29 雅 |