「……アレ、仁王の彼女じゃねーの?」

 太陽はスッカリ姿を消し、街頭が辺りを照らすようになった頃。丸井が行きたいと言っていた駅近くのカフェのケーキバイキングに付き合っていた仁王は、彼の声で携帯に落としていた目線を上げた。最近オープンしたばかりの雑貨屋から出てくる立海の制服を着た少女は、紛れも無く仁王の彼女で。屈託の無い笑みを浮かべて笑う彼女の横には、他校の制服を着た男が楽しそうに相槌を打っている。二人は所謂恋人繋ぎをしているらしく、どこからどう見ても恋人同士にしか見えなかった。第一発見者でもある丸井は、その事実に目を見張っていたが、次いで気まずそうに仁王を見やった。丸井が言わなければ、携帯に集中していた仁王が気付くことは無かっただろう。その事に申し訳なさを感じている丸井とは裏腹に、仁王は少し眉をひそめたものの、大して反応を見せる事も無く目線を携帯へと落とした。向こうは丸井たちに気付いた様子も無く駅へと入って行ってしまった。丸井はそんな風に見えなかった彼女への驚きと、仁王がさも当たり前だと言うような態度で居ることへの驚きが入り混じり、とうとう眉間に皺を作る。

 「身内か何かなワケ?」
 「いんや。あの様子じゃ、彼氏じゃろうな」
 「は? 仁王と付き合ってんだろい?」

 仁王は、彼の言葉に首を振った。勿論付き合っている。間違っても、仁王だけが恋人認識をしているわけでは無い。その旨を伝えれば、丸井は更に顔を歪めた。認めたくないのか、本来出てくる筈の単語は何時まで経っても出て来ない。だんまりと口を結んだまま仁王を凝視する丸井に、仁王は痺れを切らしたように目を細めた。そして、薄く笑う。

 「俺以外にも、彼氏はたくさん居るとよ。全員他校じゃけど」
 「それって浮気じゃん。お前、なんで付き合ってられんだよ」
 「俺だって似たようなことしとったろうが」

 納得したように、丸井は頷いた。確かに仁王は、女遊びが激しい。彼女と言うポジションに立つ女が居ても、不特定多数の女を相手にしていたのは事実だ。だから自分のことを棚に上げて彼女に注意するのは間違っていると、そう言っているのだろう。そこまで読み取って、丸井は初めて仁王の発した言葉の裏の意味に気が付いた。
 最近の仁王は、特に目立った女遊びをしなくなった。それどころか、丸井の知っている範囲で仁王が女と連絡を取っているところを見たことが無い。話すことすらしない。その真意は、仁王と長い付き合いをしている丸井の中では、必然的に導かれるわけで。けれどそれは今まで一度も無かったこと。丸井は少し青ざめた顔で、仁王に問う。

 「それが過去形っつー事はさ……お前、にマジ?」
 「お。ブンちゃん、今日は勘が冴えてるのう」

 アタリ。そう言って笑う仁王の言葉が、嘘か本当かなんて丸井に解る筈も無かった。しかし、最近の仁王を見ていればそれが事実だと教えてくれる。丸井は頬を引きつらせて、仁王に本気の恋愛をさせている彼女――を思い浮かべた。同じクラス。彼女の周りに居る女子とは違う、真っ黒い髪。腰の手前まであるその髪はパーマが掛かっているのか、肩を過ぎたところからふんわりと波打っている。肌は浮くように白く、大人びた顔立ちは一時期男子の中でも人気があった。高嶺の花の一歩手前、と言ったところだろうか。一見すると近付きがたい印象があるのに、彼女は酷く友好的だ。明るく、どんな話題にも合わせる事が出来る。人によって態度を変えることはしないけれど、ある人間には線を引いているように見えた。その人間と言うのは一体誰か。それは、彼氏であるはずの仁王だった。仁王とが付き合っている事は周知の事実なのに、は滅多に自分から仁王に近付くことをしない。仁王がに話し掛けても、不思議とぎこちなさが生まれてくる。それは第三者である丸井ですら解ってしまうのだから、当人である仁王に関してはとっくの当に勘付いてしまっていることだろう。

 「何で? お互い浮気ばっかだったワケじゃん」
 「だから。あんなに俺に関心のないまま付き合ってる女は初めてじゃ」
 「そりゃそうだろ。仁王を好きじゃなきゃ恋人として成り立たないし」
 「それが初めて成り立ったのが。誰かと付き合ってて、寂しさを感じたのもが初めて」

 仁王らしからぬ言葉に、丸井は背筋に冷水を流されたような違和感を覚えた。仁王から、惚気にも似た言葉を掛けられるだなんて思ってもいなかった。思わず口を噤んでしまった丸井を他所に、仁王はくつくつと喉を鳴らして笑った後、不意にたちが消えて行った駅を眺めた。

 「な、俺らがここに居たこと気付いちょったよ」
 「え?」
 「そりゃそうじゃろ。俺ら程目立つ髪を持った学生なんぞ、そうそう居らんからな」

 無意識の内に、丸井は自分の頭に手をやった。顔の前まで持ってこれるほど横髪は長く無いが、ちらりと視界に映る前髪は燃えるように赤い。仁王は自分の尻尾を弄りながら、微かに眉間に皺を寄せた。けれどその口元には笑みが浮かんでいて、それはどうにも苦し紛れに出た笑いのように思えてならなかった。
 彼女は、仁王や丸井が居たことに気がついていた。それでも、動揺した様子は無かった。反応一つ見せる事も無かった。まるで、浮気現場を見られることに慣れているかの様。驚きもせず二人の近くを通過していったは、一体どんな気持ちだったのだろうか。丸井は、顔を歪めたまま駅に向かって呟いた。

 「やめとけよ、あんな女。趣味ワリィ」
 「お前さんには解らんよ。全く同じことをしてた俺じゃなきゃ、多分解らんじゃろうな」
 「どういう意味だ?」
 「のように頭の良いヤツは、無意味に不利益な遊びをせんっちゅー事じゃ」

 きっと、何かしらの意味がある。仁王は駅に顔を向けたまま、そう言った。その時、が常にクラス一位の成績を取っていることを思い出す。学年十位以内に食い込む仁王よりも上なのだから、恐らく相当頭が良いのだろう。それは解るけれど、仁王の言った意味だけはどうしても解らないままだった。



 それから一週間程経ち仁王と交わした会話も忘れつつあった頃、丸井はとある告白現場に遭遇した。立海に昔から伝わる、中庭の大きな木の下で告白すると結ばれると言うジンクスを信じてか、それは中庭で行われていた。
 丸井は、その中庭の丁度真上にある図書室に居た。図書委員だなんて面倒臭いものを引き受けてしまったのは三年の四月だったけれど、部活を引退するまでは気を遣ってか殆ど仕事を頼まれなかった。しかし、引退してから司書は、遠慮と言う言葉を度忘れしたかのように仕事を押し付けてくる。今日もまた仕事を頼まれ、カウンターの奥で傷んだ本を直すと言う更に面倒な仕事をこなしていた。その際に、古い本ばかりを扱っている所為かカビ臭さの充満している部屋を換気するために机の前にある窓を少しだけ開けていたのだ。その窓から、まるで流れ込むように聞こえて来た告白の声。図書室と言う静寂に包まれた場所だからこそ、微かながらでも聞き取ることの出来る声に、丸井はそっと身を乗り出して下を見た。影を作る木の下で、向かい合って立つ男女。女の方は校舎の方を向いていて、必然的に丸井とも向かい合わせる状況になる。女の顔を確認した途端、丸井は反射的に腰を下ろした。
 (だ――)
 気付かれていなかったことを確認して、ホッと息を吐く。あの一件があって以来、丸井は何となくを避けていた。友好的な態度の裏にあんな一面があったことは未だ受け入れ難かったのもあるし、何しろ仁王が本気で恋をしている相手だ。無闇に喋ったら、仁王に何をされるか解らない。一見興味の無いように見えるが、彼は酷く嫉妬深い男である。噂の現場を見た次の日、どうも信じられなくてを観察するように凝視していたのが仁王にバレ、素晴らしい笑顔で見られた時には人生が終わるとさえ思った程なのだから。
 それは置いておいて、丸井は身を乗り出さずとも呼吸を殺して耳を澄ませた。上手い具合に風に乗り、やんわりと丸井の耳へとはいって来るやり取り。

 「ここまで言ったら解ると思うけど、俺が好きなんだ。良かったら付き合って欲しい」
 「……申し訳無いけど、私は貴方を好きじゃない。もし付き合ったとしても、好きになることは絶対無い」
 「それでも良い。可能性が無くても、好きなやつが居なきゃ解んねーじゃん」
 「ううん。好きな人は居るの。付き合ってる人の一人、だけど」
 「え? それじゃあ、なんでそいつだけと付き合わないんだよ」
 「その人もね、私と同じだから。だから、私だけが夢中なんて悲しいじゃない?」

 の穏やかな声は、初めて聞く気がする。何時も明るく笑う声ばかりだったから、静かに紡がれる言葉は一つ一つが重たく感じられた。丸井は、そっと窓に近付く。彼女の顔が見えるか見えないかの辺りで止まると、の顔をじっと眺めた。柔らかく微笑む顔。それは、美しいと感じると同時に、こちらまで哀しくなるような印象を与えた。思わず、彼女の顔から目を逸らしてしまう。するとほぼそれと同時に、向かい合わせになって立っているであろう男子生徒の声が聞こえた。

 「アイツと付き合い始めてから、男遊びするようになったって……本当だったんだな」
 「やっぱり、立海の人には解っちゃうよね。どう? それでも、私と付き合いたい?」

 頭の中が、ぐわんと揺れた。仁王と交わした会話が、フラッシュバックする。彼女は今何と言った? 立海の人間には解ってしまう、が好意を寄せている人間。他校には解らない。それはすなわち、立海の生徒であると言うこと。確か仁王は、自分以外の彼氏は全員他校なのだと言っていた。そして、彼女の言う男は少なからず遊び人。全てがぴったりと当て嵌まってしまう人間なんて、一人しか居ないじゃないか。丸井は、湧き上がってくる震えを止めることが出来なかった。仁王でさえ読み取れなかった、彼女が浮気を続ける意味。それが、今まさに目の前で本人の口から解き明かされてしまった。勿論、はそんなつもりなど毛頭無いだろうけれど。目を見開いてを凝視する丸井には気付いた様子も無く、は寂しげに小首を傾げた。

 「が、良いって言うなら――」
 「ちょっと待て!!」

 気が付けば、丸井は身を乗り出して叫んでいた。が呆気に取られた顔で丸井を見上げ、向かい合う男も釣られて振り向いて校舎を見上げる。丸井はここがどんな場所であるか考えもせず、目の前で目を見開いている彼女に向かってなおも叫び続ける。

 「お前、仁王が女と連絡切ったこと知らねーのかよ! アイツはお前が好きなんだよ!」
 「……え?」
 「だから! だからお前も男と全員手を切れ! お互い、壁作ってんじゃねーよ!!」

 今になって、彼女が仁王にだけ線を引いた理由が解った気がした。ただ単に、好きな人間を前に緊張していただけなのだ。付き合っているとは言え、お互い本気ではなかった身。だから仁王はを特別扱いすることは無かったし、もそれを解っていたからこそ、自分が傷つかない為に更に分厚い壁を作ろうとした。そんな見えないやり取りが生み出した、奇妙な関係。
 彼女は暫くポカンと口を開けて丸井を見ていたが、不意に小さく笑った。丸井の必死さに笑ったのか、自分の愚かな行為に笑ったのか。それは解らないけれど、心から笑っていた。

 「ありがとう、丸井君」
 「こうなったら俺も手を引くしかねーな。、幸せになれよ」
 「うん、ごめんね。ありがとう」

 の目が丸井から外れ、告白をしてきた男に戻る。その男にも礼を言うと、彼はそのまま去って行った。はもう一度、丸井を見上げる。そして、苦笑にも近い表情を浮かべる。

 「説教は効いたけど……そこ、図書室だよね?」

 その言葉に、丸井はハッとした様に振り返った。不幸中の幸いと言ったところか、司書は席を外していて居なかった。けれど、その代わりに丸井に突き刺さる冷徹な目線。読書や勉強をしに来た側からすれば、とんでもなく迷惑な行為だろう。慌てて誤魔化すように笑みを貼り付けてみれば、大抵の目線は外れてくれた。しかし、その中で一人厳しい顔で丸井を見つめている人間が一人。部活を引退した今、図書室にはほぼ毎日通っているであろう柳生だった。彼は、非常識な行為に煩い。丸井は冷や汗を垂らしながら目を逸らそうとした。けれど、柳生は口をへの字に結んだままあろう事かこちらに向かって来たかと思うと、誰もが本や参考書に目を向けていることを良い事に、カウンターをひらりと飛び越えた。カウンター内には、本来隣の準備室からでなければ入ってくる事が出来ないのだ。本気で怒らせてしまったかと身体を硬くしていると、彼はカウンターの外から死角になる部分に身を滑り込ませる。それでも丸井からは良く見えるから、丸井はそんな柳生をじっと見つめる。すると柳生はキチンと締められていたネクタイを緩め、メガネを外して茶色の鬘を取った。そこには、柳生ではなく仁王雅治が居た。

 「に、仁王?!」
 「随分恥ずかしい事してくれたのう。ホンマ、柳生の姿で良かったぜよ」

 仁王は少し朱に染まった頬を誤魔化すように頭を掻くと、そのまま窓の傍に居る丸井の横に並んだ。丸井も釣られて見下ろすと、そこには用事が済んだからか中庭を後にしようとしているの姿が目に入る。丸井はどうするのかと仁王を見たが、仁王は少しだけ開けられた窓からそっと彼女の名を呼んだ。

 「
 「……仁王君?」

 彼女はすぐに反応し、上を見た。そして仁王を見つけるなり、先ほどと同じく驚いた様に目を見張る。隣に立つ丸井と仁王を交互に見つめ、何故そこにいるのと言わんばかりの表情を浮かべた。丸井は、仁王が最初から図書室に居ると知っていたなら大声で仁王のことを暴露するなんてヘマはしない筈。気付いていなかったと言われればそれまでだが、はなおも不審そうに二人を見上げている。仁王はと目が合うと、ゆるゆると目を細めて小さく笑った。

 「丸井の言った通り、俺はお前さんが好きじゃ。今からそっち行くけえ、待っときんしゃい」

 仁王はそれだけ言うと、踵を返して図書室から出て行った。又もやカウンターを飛び越えるかと思ったが、今回はちゃんと準備室の扉から出て行ったらしい。どうやら、事は上手く丸める事が出来たらしい。丸井はそんな満足感を覚え、驚いたままなおも此方を見つめているに笑顔を一つ返すと、そのまま窓を閉めた。親しい人間の色恋沙汰は、見ていてむず痒い気持ちになる。
仕事を再開してから暫くしてそっと下を覗き込むと、丁度二人が中庭を去っていくところだった。その一箇所が緩く繋がっているのを見て、丸井は笑みを深めた。



09/01/30 雅