綺麗な黒髪だ、と毎回ながら思う。白石は頬杖を突き直して、丁度対角線上に座る少女を見た。友人に囲まれて笑っている彼女は、遂一ヶ月程前に東京の学校から編入してきた。四天宝寺中学では珍しい標準語を喋り、ここ三年二組では滅多に見られない落ち着きを持っている少女だ。教師の笑いを取るために奇抜とは言わずとも派手な髪色をしている人間が多い中、彼女は何色にも染めたことの無いであろう純粋な漆黒の髪をしていた。その髪から遠慮がちに漂ってくるのは、嗅ぎ慣れないシャンプーの匂い。自慢じゃないが女に困らない白石は、女物の香水の香りを良く知っている。擦れ違いざまに香る匂いですら、どの香水か言い当てる程には、女に慣れていると言っても良い。そんな中、何故東京から来たばかりの馴染み無い彼女に目が奪われるのかと言えば、それは三日前に遡る。 それは放課後だった。日直として残っていた白石とは裏腹に、彼女、は自分の席に座り黙って本を読んでいた。白石が日誌を書くボールペンを滑らせる音と、が不定期に本を捲る乾いた紙擦れの音が響く中、彼女はまるで白石なぞ端っから存在していないとばかりに話しかけることも、振り向くこともしなかった。基本的に優しい性格として通っている白石と二人きりになれるチャンスがあれば、大抵の女子は良い印象を持ってもらう為に好意的に話し掛けてくることが多い。だからこそ、意外だった。今思えば、転入してきたばかりで白石を全く知らなかったのだと解るけれど、その時はそんな疑問ばかりが頭を埋め尽くしていて仕方が無かった。白石は日誌を書き進めていた手を一旦止め、彼女を見る。白石の席はの席よりも大分後ろにある為、彼女は白石に気付いた様子も無く本を捲る。そして不意にページの間に栞を挟んだかと思うと、本を閉じてくるりと振り向いた。その際、肩口にかかる黒髪が滑り落ちるのを、白石はどこか他人事のように見ていた。はそんな白石を捉えると、前髪に隠れた眉を微かながらにひそめて首を傾げた。 「なあに?」 「いや。放課後に一人、黙って本を読んどるっちゅーのが気になってな」 「ああ……休み時間に本を読めなくてね」 「煩すぎて、か。まあ仕方ないな、それが二組やし」 それもそうね、と彼女は口端をやんわりと持ち上げて微笑んだ。その表情は、普段賑やかなクラス内で見せるモノとは全く異なっていた。酷く穏やかで、見ているこちら側も思わず口許を緩めてしまいそうだった。は暫く白石を眺めていたかと思うと、ふと何かを思い出した風に少しだけ目を見開いてから、薄く笑った。 「何処かで見たことのある顔だと思ったら、全国大会で会ったことがあるのね。テニス部の元部長さん」 「……え?」 彼女は笑みを深める。白石は、少しの間呆けたようにを眺めていた。彼女の言っている意味が解らないのではない。キチンとその旨を理解した上で、身に覚えが無いだけ。全国大会と言えば、何ヶ月前と言う過去の話だ。今は十一月。部長として活躍していた時期もとうに過ぎ、今は受験生として勉学中心の生活を送っている。引退直後は部活に顔を出していたけれど、部長を引き継いだ後輩の顔を立たせる為にも、今や殆ど学校のテニスコートでラケットを持つ事は無かった。 一度から目を逸らし、窓から外のグラウンドを見つめる。三年生と言う立場の人間を、全て消し去ってしまったグラウンド。トラックを走る陸上部にも、ゴールに向けてビブスを翻し走るサッカー部にも、グラウンドの隅で機械相手にバッティングの練習をする野球部にも、三年生は居ない。引退してしまったのだ。白石率いるテニス部もまた、全国大会終了後に引退した。その全国大会も、今や一枚の写真としてしか思い出には残っていない。彼女なんて、到底思い出せる筈もなかった。 白石の心境を知ってか知らずか、は困ったように眉尻を下げたあと、小さく首を傾げた。胸元よりも少し長い黒髪が、それに合わせてふわりと揺れる。 「覚えてなくて当然。貴方が顔を合わせたのは、立海のレギュラー達だもの」 「立海……そういや、さん、神奈川から来たっちゅーとったな」 「そう。三年生が引退するまで、ずっと男子テニス部のマネージャーをやっていたの」 もう一度、思い出に身を馳せる。確かに、会場で立海のレギュラー陣と会った記憶がある。深いオレンジ色のユニフォームに、好戦的な瞳。王者を目の前にして、心の底から興奮と言う名の震えが沸き起こって来たのを、今でも覚えている。そんな面子の中、一人同じユニフォームを着た少女が居たのを、記憶の端に捕らえた。ラケットを持つ彼らとは違い、肩にはスポーツドリンクの入ったクーラーボックスを掛け、ユニフォームと同じ色をしたタオルを数枚手に抱えていた。仕事の邪魔にならないように高く結ばれたポニーテールは、今現在よりもずっと長かった気がした。自分の記憶力の良さにこれ程までに感謝した日は、他に無いだろう。少しだけ驚いた顔を浮かべた白石を見て、は穏やかに目を細めた。 「赤也も、何だかんだ言いながら三年生が来るのを楽しみにしてたんだ」 話は唐突に始まった。名前は聞き覚えがあったが、話の内容からして二年生の事なのだと解る。きっと彼は、継いで部長になったのだろう。話を聞いている分に、きっとは色んな人間から頼りにされているであろうことを悟った。そしてその内、彼女の話す内容が白石自身のことを言っているような気がした。 「引退したから終わりじゃなくて、それからでも教えてあげられることはたくさんある」 「たくさん……?」 「部長って言う仕事の大変さは、同じ部長をやってた人じゃないと解らないでしょう」 苦笑を浮かべて、は白石を見る。 「最初、貴方がテニス部の部長をやってたことをすぐに思い出せなかったの」 その言葉を聞いて、白石は漸く頷いた。引退前は毎日のように背負っていたテニスバッグは、今では自室の片隅に置かれている。テニスを辞めた訳ではない。今でも、三年の友人達と近くのテニス場で打ち合うことはある。だからラケットの調子もちゃんと管理しているし、手入れも怠ってはいない。ただ、それら一式を学校へ持って行く機会が少なくなっただけの話だ。テニス部の象徴とも言えるテニスバッグを持っていなかったのだから、彼女が白石のことをすぐに思い出せなくて当然である。 「部長の悩みはね、同じ部活の元部長にしか解らないものよ」 「俺が部活出てないの、そんな可笑しいか?」 突如話を遮って問い掛ける白石に、は一瞬だけきょとんとした表情を浮かべたが、不意に何とも言えない風に苦笑すると、やわやわと首を振って否定した。 「出たくないなら出なくて良い。でも、白石君はそうじゃない。出たいけど、責任感があるからこそ出られない」 「責任感、ねえ」 「申し訳ないと思ってるし、自分が出ることによって部活の空気が変わってしまうのも怖い」 心臓が跳ねた。何時の間にか彼女の顔から笑顔は消え、真剣に白石を見つめている。テニス部のマネージャーとして三年の部員たちと共に引退した彼女は、部長でなくとも『マネージャー』という役職に就いていたからこそ、何か思うことがあったのかもしれない。口を噤んだ白石を前に、は困ったように眉尻を下げて首を傾けた。 「ごめん、今言ったこと忘れて。そういう風に見えただけなの。偉そうに言ってごめんなさい」 そう言うと、は白石が止める間もなく本をスクールバッグに突っ込むと、そのまま教室を出て行ってしまった。教室に残された白石は、日誌を放って暫く考えていた。彼女の言っていることは、百パーセントとは言わずとも当たっていると思う。けれど、半分以上はただの逃げ。怖いだけ。もし引退した自分が部活に顔を出して、受け入れてもらえなかったら。新しい部長に煙たく思われたら。実際は有り得ないと思っているけれど、その傍らリアルに想像してしまう自分が怖かったのだ。彼女は、ソレを気付かせてくれたのである。 そして話は冒頭へ戻る。あんな会話があったからこそ、白石はを気にかけていた。恋愛感情かと言われれば答えようがないし、未だ友人の段階だと思う。しかし、それでも白石から女子生徒を気にかけるのは初めてのことで、自分自身どうしていいのか解らなくなっていた。そんな白石に気付いた様子もなく、はにこにこと楽しそうに笑って友人と会話をしている。しかし、白石がずっと見ていることに気がついたのか、彼女は不意にこちらを見た。何の警戒もしていなかった白石とバッチリ目が合い、白石は無意識のうちに頬を引きつらせる。けれどは、白石に向け小さく笑顔を向けただけだった。そしてすぐに目を逸らし、友人との会話に戻っていく。 (かわいい顔しとんなあ) 笑った顔は、確かに可愛いと思う。けれど笑いのツボが少ないのか、声を出しながら笑うことは滅多に無かった。今もそうだ。楽しそうにしているけれど、黙って笑っているだけ。そして、ふと気を抜いた顔が寂しそうに見えるのだ。ソレが妙に気にかかって、白石はすぐ行動に移した。丁度授業の始まる直前だったから、ノートの余白をちぎって文字を書き込む。教室の入り口付近に座る彼女の机の上にそのメモを落とすと、そのまま教室を後にした。教室を出る間際に振り向いた時、がちょうどそのメモを手にした所だった。 「サボりのお誘いか何か?」 「お、来てくれたん?」 「屋上に来てってメモ、渡されたら行くしかないじゃない」 が屋上に現れたのは、授業が始まって五分後のことだった。心底不思議そうな表情の彼女は、白石を見つけるなり戸惑った風に眉をひそめる。どうやら、それが白石からのものであるとは解らなかったようだった。が屋上の扉を閉めると同時に、白石は寄り掛かっているフェンスの横を軽く叩く。すると、は一旦躊躇しつつも、案外すんなりと腰を下ろした。 「一体どうしたの?」 「テニス部、出ようかと思ってん。さんが何で俺にああいうこと言ったか、ちょっと分かった気ィしてな」 「どういうこと?」 「俺は出ようと思えば出られるけど、さんはそうはいかへんやろ」 真横で、彼女が息を呑む音が聞こえた。 「さんも、出たいんねやろ? 一人だけ、大阪来たんやもんな」 「……うん」 小さく頷いたは、その後俯いてしまった。寂しくない筈がない。幾ら楽しいクラスだとは言え、彼女の心を満たす理由にはならないのだから。立海で二年半過ごして、大阪へ来たのだ。引退後の部活にも出られないし、後輩マネージャーに色々と教えてやることも出来ない。そのもどかしさがあるからこそ、白石の葛藤にも気付いたのかもしれない。 「寂しくなったら、ウチのテニス部に来るとええで」 「え? ここのテニス部に……?」 「二年のマネが困っててん。引退後に入って来た奴らやから、よう解らんみたいでな」 「……」 「さん、マネやっとったんやろ? 良かったら教えてやってくれへん?」 「でも、私なんかが教えるなんて悪いよ」 「俺からの頼みや。立海の敏腕マネージャーやったら大歓迎やで」 敏腕マネージャーって、とは苦笑する。そして、柔らかく微笑んだ。「それじゃあお願いします」と丁寧に下げられた頭を見て、白石も笑顔を浮かべた。 終焉が過ぎて始まる こころからのありがとうをあなたへ 10/02/13 雅 |