その日がバレンタインデー前最後の平日であることは知っていたけれど、お菓子の類が好きな丸井は普段通り登校していた。今年のバレンタインは日曜で、今週最後の平日である金曜日はチョコレートを目当てにする男子や特定の人間に渡そうと奮闘する女子とで浮き足立っているようだった。人混みや甘いものが嫌いな仁王は去年と同じく欠席しており、仁王目当てにチョコレートを作ってきた女子生徒たちは残念そうに丸井へ寄付する。だから丸井の元には例年の二倍ほどの量が集まったし、仁王の下駄箱に無残ながらも突っ込まれた多数のチョコレートも、廃棄処分されるか丸井の腹に収まるかのどちらかになるだろう。もし仮に丸井が仁王の家に持って行ったとしても結果は同じなのだから、さっさと回収してやった方が早かったりもする。
 昇降口でも紙袋丸々ひとつが埋まってしまう程のチョコレートを貰ったと思ったのに、教室に行くまでにはその紙袋がもうひとつ増えていた。教室では、クラスメイトの女子たちから『義理』と言う名のチョコレートを渡され、笑顔と決まった言葉を返して受け取っていく。大量に貰うのなら、日持ちするモノが良いと思う。そんな時、クッキーやチョコレートをコーティングしたものだと助かるのだけれど、気合を入れたのかケーキ類を渡されると、さっさと処分しなくてはならなくなる。気を引きたいがために態々作ってくれるのは重々承知だ。それでも、食べる側の気持ちも少しは解ってほしいと思うのは悪いことだろうか。今回もクッキーの入った小さなラッピング袋に混じり、どう見ても本命ですと言わんばかりの大きさの箱を見て、小さくため息を吐いた。

 「凄いじゃん! コレ、超美味しいよ!」
 「本当? そう言ってくれると作った甲斐があるよ」

 そんなやり取りと共に少しだけビターな匂いが丸井の鼻をつっついたのは、昼休みのことだった。昼休みは、案外渡しに来る女子は少なかったりする。朝か放課後に限定しているのか何なのかは解らないけれど、悠々とランチタイムを過ごせることには感謝していた。今日も例外なく暖房の効いた教室で友人たちと昼食を取っていたのだが、丁度丸井の斜め前の席で向き合いながら弁当を広げている女子生徒二人の片方が手にしているモノに目を奪われた。シンプルなラッピングがほどかれて顔を覗かせているのは、大きなくるみが乗せられたブラウニー。一口サイズに切られたソレを、可愛らしいプラスチックのフォークで口に運んでいる姿を何となく眺める。形の綺麗なブラウニーはどう見ても美味しそうで、昼食を食べたばかりだと言うのに食欲をそそられる。今日貰った中にもそういうものがあるだろうかと思案していると、丸井と向かい合う形で座っていた女子生徒がふと此方を見た。

 「丸井聞いて! の作ったお菓子って凄く美味しいの、ちょっと食べてみてよ!」
 「えっ、ちょっとゆんちゃん!」
 「マジ? くれんの? んじゃ頂き!」

 差し出されたピンク色のフォークの先には、チョコレート色のブラウニーが刺さっている。少し驚いた様子のに一旦は躊躇したが、遠慮なく頂く事にした。先ほどまで彼女たちの使っていたフォークだったから、ソレに触れないようにブラウニーを口の中へ入れる。広がるチョコレートの味はほんのりビターで、苦味と甘味が混ざり合っている。確かに、彼女の言うとおりお世辞抜きに美味しいモノだった。鼻から抜けていくチョコレートの香りに、思わずもうひとつと言ってしまいそうな衝動に駆られる。

 「超美味い! コレが作ったんだろい? お菓子作り上手いのな」
 「ほ、ほんとう? ありがとう!」

 丸井の方に振り向いたは、一度目を見開いた後心底嬉しそうに笑った。その笑顔に思わず胸が跳ね上がり、慌てて曖昧に笑って誤魔化す。はその後友人の方に向き直って、談笑のつまみのようにブラウニーを口にしていた。そんな様子を見ていると、ひとつの疑問が湧き上がってきた。あんなにも美味しいブラウニーを作れる彼女は、誰かに渡すのだろうか。勿論誰もが男子生徒にチョコレートを渡すとは限らないけれど、何となく気になったのだ。一度気になってしまうとさっさと聞いて解決したくなる丸井は、背を向けているに話しかけた。

 「はさ、誰か男にチョコあげんの?」
 「……わ、わたし?」
 「そ。そんな美味いモン作れるんだったら、誰かにあげても可笑しくねーだろい」

 もう一度振り向いて、は首を傾げた。その瞳は丸まっていて、まるで猫のようだった。彼女は困ったように眉尻を下げると、戸惑った様子で首を傾げて丸井を見やる。

 「あげたい人は居たんだけど、いっぱい貰ってるようだったから」
 「へえ、そんなモテる奴なんだ」
 「うん。だから、渡そうか迷ってるんだよね」
 「ふうん……」

 何となく、つまらないと思った。子供染みた独占欲だ。が好きだと言うわけじゃない。ただ、丸井の好みにピンポイントなあのブラウニーを他の男が食べることに、少しだけ嫌悪した。好きなものは独り占めしたい、と言う小学生のような発想である。途端に眉をひそめた丸井の様子が気にかかったのか、は小さく笑った。

 「それに、今日渡すつもりはないし。コレ、試作品だから」
 「試作品?」
 「もうちょっと苦めにしてみようかなって」

 そう言って、ブラウニーにフォークを刺した。彼女の口に運ばれていくソレをじっと見つめてから、ふと目を外す。丸井の勘は悪くない。寧ろ当たるほうだ。丸井の脳裏に、チョコレートをたくさん貰っている人間をピックアップしていく。仁王が真っ先に浮かんだが彼は学校に来ていない。柳生は貰っている方だとは思うが、が渡すのを躊躇するような人間ではない。一人ひとりにわざわざお返しをするようなタイプだし、たくさん貰ったからと言って大部分をないがしろにするなんて非紳士的な行動はしないからだ。そうやって消去法で考えていくと、出てきた人間は――柳だった。彼は、本命も義理も相当な数を受け取っている。それに、甘い物はそこまで好きではない。苦味の強いブラウニーだったら、好みなのではないだろうか。そんな丸井の思考を知ってか知らずか、は少し恥ずかしそうに丸井へ問うた。

 「テニス部って、日曜日……練習あるよね?」
 「え? あー、あると思うけど。もしかして、テニス部の奴?」

 その答えは、聞かずとも解った。一瞬にしての頬に朱が差し、彼女自身の瞳もあからさまに泳いでいたから。やはり、柳なのだろうか。けれどその問いかけをする前に、昼休みを告げるチャイムが鳴ってしまい、結局その質問は聞けず終いだった。慌てて前を向きなおし授業の準備をする彼女の後姿を、丸井は黙って見つめていた。



 日曜日。快晴よりの曇り空の下、丸井たちは練習に励んでいた。幾ら引退した身とは言え、高校進学も決定した所為か特別な用事が無い日以外はこうやって練習に参加している。今日はバレンタインデー当日だったけれど、やはり当日に渡しに来る女子生徒は殆ど居なかった。休憩時間でなければコートから出ることはないし、練習の空気を乱す者は真田が容赦しないのだ。
 午前の練習が無事に終わり昼休憩に入った際、ローテーションでマネージメントをしている一年部員がベンチで休憩していた丸井に話し掛けてきた。その手にはシンプルな紙袋。用件は言われなくとも、勿論解ってしまう。

 「コレ、丸井さん宛ての届け物です。すみません、断るべきでしたか?」
 「いや、別にいーぜい。サンキュな」

 礼を言ってその紙袋を受け取れば、一年部員は頭を下げてさっさと部室へ入っていった。それを見届けてから、紙袋の中を覗き込む。赤いリボンで結ばれた透明の袋には、いつしか見たブラウニーが入っていた。驚いて目を見開く。ソレを取り出そうとした時、ふと一枚のメモ用紙が入っているのを見つけた。メッセージカードになっているその紙には、シンプルに黒いボールペンで書かれた綺麗な文字が連なっていた。
 『運動後に甘いモノを食べると、物凄く甘く感じるんだって。美味しいって言ってくれて嬉しかったよ、ありがとう。良かったら食べて下さい』
 その文字を目で追い終わってから、丸井は綺麗にラッピングされたブラウニーのひとつを口に放り込む。金曜に食べたモノより確かに苦味が強かったけれど、それでも今の丸井には酷く甘く感じられた。適度な苦味と甘味を口の中で転がしながら、ホワイトデーのお返しについて思案した。


愛に溺れる昼下がり
あの味が、どうにも忘れられなくて  10/02/14 雅