「な、柳生。何でじゃと思う? 俺にはようわからんのよ」抑揚の無い声は、普段の彼と酷く掛け離れていた。呼ばれた本人である柳生は、米神を伝う汗を拭って隣に座る仁王を見る。トレードマークである逆立った銀色の髪は、汗を掻いたからか殆どが下を向いていた。目に掛かる長い前髪を鬱陶しそうに掻き揚げ、仁王は大きく息を吐いた。ポーカーフェイスで有名なその顔も、今は少しだけ歪められている。そんな彼の様子と先ほどの発言を比べて、柳生は漸く理解したように一度だけ頷いた。目の前では後輩である切原が、久しぶりに部活に顔を出した柳とラリーを行っている。そんなコートを挟んだ向こう側には、飽きもしないで毎日フェンスに群がり見学をする女子生徒たち。引退前よりは幾分か少なくなったギャラリーの群れの合間から見えた一人の女子生徒が、今の仁王を作り出す原因である。黒髪や少しだけ明るい茶髪が多い中、彼女は一際目を引く金色の髪をしていた。その金髪頭は、フェンスの向こう側を一定の速度で横切ろうとしている。真横に座る仁王の瞳はソレを追いかけるように動き、やがて見えなくなると再度溜め息を吐いた。 今しがた通り過ぎたばかりの派手な髪色をした女子生徒は、仁王雅治の彼女である。付き合い始めたのは二ヶ月も前になるが、柳生は彼らが一緒に居るところを見たことが無かった。恋愛に無頓着な仁王のことだ、自分から彼女のところに出向くなんてことは、余程の用事が無い限りしない。ソレは、彼女であるにも同じことが言えた。仁王に興味が無いのか恋愛に興味が無いのかは定かではないが、の方から仁王の元に来ることも滅多に無かった。この前漸く訪れたかと思えば、教師に頼まれた伝言を伝えるだけ。役目が終わるとさっさと目の前から姿を消してしまう。そんな彼女を上手く呼び止める術を知らなかった仁王は、踵を返して去って行くの後姿をただ見つめることしか出来ない。最初の内はソレでも良いと思っていたのだろうが、何分今までの彼女と全く違う行動パターンを取る。それどころか、仁王以上のサボり魔らしく日常生活で見かけることすら侭ならない。幾ら女慣れした詐欺師と言えど、行動パターンの読めない人間を相手に自分の思案通りに事を進められるほど極めてはいなかった。だからこそ、言いようの無いもどかしさを感じている。 仁王は己の髪をぐしゃぐしゃと掻き回すと、そのまま項垂れるように大きく屈み込んだ。冷静な仮面が崩れた時、彼が無意識のうちに自らを隠すようにする癖である。元々猫背な背中は更に丸まって、芥子色のユニフォームが綺麗に弧を描いている。 「あー……駄目。自分のペースに引き込めん」 「悩むなんてらしくないですね。何時も通り別れれば良いでしょう」 紳士とも呼ばれる柳生がいとも簡単に「別れ」の道を口にしてしまうのは、それほど仁王の恋愛がいい加減だったことに起因する。自分の思い通りに行かない人間とは即手を切り、現在も一切の関わりを持っていない。今回もそうすれば良い筈なのだ。仁王は妙な所で不器用だから、一度そうして気になってしまうと私生活に支障が出ないとも限らない。今回もこうしてテニスに集中出来なくなっているわけだし、高校に上がってからもテニスを続ける身としてはさっさと本調子を取り戻して欲しいのが実のところである。溜め息交じりに言う柳生の横で、仁王は意外にもだんまりと口を閉じてしまった。訳がわからぬまま引き下がるのは嫌なのだろうか。けれど、仁王は思っていても口に出す男ではない。 「仕方の無い人ですね」 一度ハマり出したら、自分で這い上がるまでは絶対に抜け出さない。そんな仁王の頑固な性格を熟知しているからこそ、柳生は眉尻を下げて微笑んだ。何時までも座っていると、現役を退いた筈の真田から怒号が飛んでくる。幾ら引退したとは言え、練習に出ているのだから当然のこと。三年付き合ってきて慣れているとは言っても、なるべく避けて通りたいものである。柳生は傍らに置いてある自らのラケットを手に取ると、大きく伸びをするように立ち上がった。幾ら音を立てていなくても、相棒が立ち上がったことは気配でわかるだろうに、仁王は何時まで経っても顔を上げようとはしなかった。たった一人の人間――それも女子生徒の為に、こんなにも悩む仁王雅治の姿を、柳生は未だ嘗て見たことは無かった。 今思えば、ソレはただの偶然だったのだろう。放課後、図書室までの人通りの少ない廊下を歩いていた柳生は、前方に見える廊下の角から姿を現した人物を思わず凝視してしまった。距離にして十メートル程だろうか。まるで彼女の周りだけが初秋であるかのような、見ているだけで肌寒く感じられるワイシャツ姿。短いスカートから伸びた厭に白い脚は、窓から差し込む夕陽に赤く染められている。首元のネクタイは緩められ、腰の手前まで伸びた例の金髪も横で一つに縛られていた。まるで運動後であるかのような出で立ちに、柳生は目を丸くさせる。けれどは驚いた様子で立ち止まってしまった柳生に反応を返すこともなく、そのまま横をすり抜けて行ってしまった。数秒遅れて鼻腔をくすぐる香水の匂いに混じって、微かながらに漂った不吉な香り。 (血の、匂い?) ほんの少しだけだった。他に誰も居らず、嗅覚を邪魔するものが無かったからこそ気付けたようなものだ。それでも確証は得られない。確認するように振り向いてみても、少し遠くなった彼女の後姿が見えるだけ。徐々に小さくなっていこうとするを、どうやって呼び止めようかと口の中で色々な言葉を転がしてみる。けれど、どれも彼女からすれば同じものだろうと踏んで、苗字を呼ぶだけに踏み止まった。閑寂な廊下に柳生の声は良く響き、苗字を呼ばれたは立ち止まって振り向く。彼女の目線が長いリノリウムの床を辿って柳生へ行き着いた時、は少しだけ驚いたように瞳を瞬かせた。全く面識の無い人間から話しかけられると、誰もがこんな反応をするのだろうか。要らぬことを考えながら、柳生は脳内を支配していた一つの疑問を紡ぐ。 「つかぬ事をお尋ねします。怪我しているのですか?」 柳生との間に時差が有るかのように、彼女は暫く黙ったまま柳生を見つめていた。聞こえていなかったのだろうかともう一度柳生が口を開きかけた時、は漸く反応を見せた。返ってきた言葉はソレを否定するもので、彼女は言葉に合わせて緩く首を横に振る。そして、愛想笑いにも似た微笑を浮かべて首を傾ける。今度はが尋ねる番だった。口を開こうとしないけれど、彼女は確かに柳生へ問い掛けていた。何を――なんて、聞くのは愚問だ。しかし、柳生はそれに気付かぬ振りをして今度は別の質問を投げ掛けた。 「廊下は暖房が効いていません。どうしてその様な格好を?」 「そんなに気になる格好でも、無いと思うけど」 今度の答えは速かった。少しだけ困惑したような声色に乗せられた言葉に、柳生は暫し考え込む。ブレザーを脱いで、指定のセーターだけで過ごす人間は幾らでも居る。けれど、ワイシャツ一枚で廊下をのんびり歩ける程今日は暖かくない。運動をしていたと言うのなら未だしも、彼女の顔色にそれらしきものは伺えなかった。 すっかり自分の世界に入り込んでしまった柳生は、何時の間にか目の前に来ていたに気付くことが出来なかった。彼女は怪訝そうに前髪からちらりと覗く眉をひそめ、柳生を眺めている。ソレに気がついて目を見開いたと同時に、は少し呆れを含ませた溜め息を吐いた。柳生を見るその瞳はまるで珍獣を見ているかのようで、柳生は慌てて意識を逸らすように口を開いた。 「仁王くんが―――」 「……仁王が?」 あ、と思ったときには遅かった。柳生とを結ぶ共通の人間とも言える仁王の名前を出した途端、彼女はあからさまに顔を歪めた。急いで口を閉じても、が納得するはずもない。仮にも恋人の名前だと言うのに、彼女の地雷を踏んでしまったらしかった。射抜くように柳生を見上げたは、柳生が再度口を開く前に冷たい声色で問い掛ける。 「仁王に何か言われたの?」 「いえ、ただ……貴女の行動パターンが読めない、と。そう言っていました」 「私の行動に、パターンがあると思ってるんだ」 馬鹿みたいね。そう呟くと同時に彼女はゆるゆると瞳を細めて、髪をまとめていたゴムを解いた。さらりと背中へ滑っていく金髪を耳に掛け、目線を落とす。マスカラの塗られた長く濃い睫毛が伏せられ、彼女の白い頬に黒い影を作った。そのコントラストに目を奪われていると、は不意に顔を上げて柳生を見た。恐ろしく冷えた、突き放すような瞳。持ち上がっていた口角も、今では横一本に引き締められている。けれどそれは次第に緩んでいき、彼女の大きな瞳に薄い膜が張った。息を呑む柳生を他所に、は微かに困惑の色を見せるように眉尻を下げて苦笑する。何を言おうか迷っている様だった。少しばかり目線を泳がせた後、ただを見下ろしている柳生に目を向ける。 「女を何だと思ってるんだろうね。全ての行動に、一定のパターンがあるとでも思ってるのかしら」 「それは、どういう?」 「そのまま。私は、自分の思った通りに動くだけ。だから、規則性なんて何も無い」 は少し眉をしかめ、吐き捨てるように言う。そして、だらしなく下げられたネクタイを引っ張った。微かにワイシャツと擦れる音がして、ブルーのネクタイは彼女の手の中に納まる。ソレをもう一度首に引っ掛けて器用に結び直していく白い指先には、数枚の絆創膏が貼られていた。一つなら未だしも、両手に幾つも貼られている。濃い肌色をしたソレは、日焼けのしていない彼女の白い肌の中で妙に浮いていた。はネクタイを締め終わると、少しだけ肌寒そうにワイシャツ越しの腕を擦る。その仕草に思わずテニスバッグに入れてあるコートを取り出そうとしたのだが、は無言で首を振った。腕を擦っていた手を下ろして、溜め息と共に指先を顎に当てる。 「責任持てとは言わないけど、仁王には少し周りを見て欲しいよね」 「何の話でしょうか?」 「立海の女も馬鹿じゃないからさ、それなりに仁王のことを理解してるわけ」 「は、はあ……」 「だから、仁王に見つからない所で仁王の彼女を叩き潰すなんて容易いのよ」 まるで日常的な話をするようにあっけらかんと告げられた話に、柳生は動揺を隠せなかった。そんな話、一度も聞いたことが無い。仁王の彼女は皆、彼が恋愛に執着しないが故に別れていったのだと思っていた。だからこそ、突然の事実がどうも信じられない。けれどは柳生の反応などお構いなしに話を続けてゆく。 「仁王には言えなかったんだよ、根回しされてるから」 「ちょっ、ちょっと待って下さい。幾らなんでもそこまでは――」 「そうやって、信じて貰えないでしょう? だから誰も言わない」 「え……?」 「今はまだ、女の子たちは仁王から離れれば逃れられた。けど、仁王が本気で好きになった相手と付き合った場合は?」 彼女は、それきり口を閉じてしまった。答えられないまま薄く唇を開閉させている柳生との間に、シンとした静寂が訪れる。はただ黙って柳生を眺めている。その瞳は勿論回答を求めていて、柳生はどうしたものかと困惑した。歴代の彼女たちは、仁王から離れれば自分に降りかかる難から逃れることが出来た。けれど、彼女の言うとおり仁王が本当に好きになった人間と付き合った場合はどうなるのだろうか。彼女はもっと傷つく。仁王に助けを求めることも出来ない。それは、ある種の地獄だ。 「きっと、女の子は仁王から離れれば楽になれるでしょうね。でも、仁王はその子以上に傷つくことになる」 「以上って……」 「仁王は間違いなく傷つく。だから、これは警告。もし本当に好きな子が出来たら、大事にしてあげて?」 「その言い方だと……まるで私が仁王くんであるかのように感じられますが」 「自分自身が一番良く分かってるんじゃないの?」 が、初めて笑った。大きな瞳をやんわりと細めて、緩く微笑む。仕方ない人だとでも言いたげなその瞳には慈悲の色が満ちている。眼鏡の奥の瞳を見開いたまま動かない柳生は、そんな彼女の笑顔をただ凝視することしか出来なかった。 「仁王の彼女はね、仁王の傍に居られるから幸せなんだよ。恋人って言う関係だけでは満足しないのが普通。だから、容易に告白を受け入れたりしないで。その代わり、本当に好きになったらちゃんと守ってあげて欲しい。それ位、出来るでしょ? その人が離れていかないように、ちゃんと繋ぎ止めとくんだよ」 「、さん」 「まだ白を切るつもり? でも、これで話はお終い。私と別れよう、仁王。もう疲れちゃった。顔を合わせないようにするのって、結構大変なんだよ?」 「……」 「ま、元カノの戯言だと思っておいて。ちゃんと幸せになるんだよ。それじゃあ、さようなら。――あ。私、ちゃんと仁王の事好きだった。本当にね」 心臓が、抉られるように痛かった。彼女は何時から気付いていたのだろうか。此処に居るのが、柳生に変装した仁王雅治だと言うことに。は柳生の姿をしたままの仁王に背を向け、数分前と同じように歩いてゆく。金色が揺れるその姿は徐々に小さくなり、やがて角を曲がったのか姿は見えなくなった。ほんの少し前までは、彼女は間違いなく目の前に居た。付き合っていたというのに、こうして面と向かって会話することも殆ど無かったから、妙に新鮮な気分に駆られる。けれど、もうはここに居ないのだ。帰って来ることもない。 「アホ……お前さんが俺を傷つけてどうする……っ」 鬘と眼鏡を乱暴に外し、現れた銀髪をぐしゃりと掴む。今までどんな女と別れようと決して揺るぐことのなかった心が、今こんなにも動揺している。肩に担いだテニスバッグに押さえ込まれるかのように、その場にずるずると座り込んだ。の笑った顔がフラッシュバックするかのように、脳裏に蘇る。――――嗚呼、たった今気がついた。 「俺だって、ちゃんと好きだった……」 ただ、それを自覚するのが遅かった。がどんな目に合っているのかなんて気にもせず、どうやって自分のペースに引き込むか考えていた自分が酷く馬鹿らしく感じられた。ぬるい何かが一筋だけ頬を伝う。しかし、それには気付かぬ振りをした。 もう、彼女はここに居ない。 君の声が、閉じた瞼に沁みた もしかしたら続くかもしれない 10/02/?? 雅 |