テニスコートを駆け回る銀髪を見下ろして、は小さくため息を吐いた。放課後の屋上には人が来ない上、テニスコートが一望出来る。と言っても人物自体は小指の先よりも小さいから、熱狂的にテニス部を好いている女子生徒たちからは評判が悪い。だからこそはこうして放課後に一人、屋上でコートを眺めていられるのだ。見下ろした先に居るのは、つい一週間ほど前まで付き合っていた仁王雅治。別れを切り出したのはだ。理由はただ単に、耐えられなかったから。彼と付き合ってきた歴代の彼女たちと、一寸変わらぬ理由で別れた。仁王の人気はそこらの芸能人を凌ぐもので、中には刺激的なファンも居る。そんな彼のファンは、自分が付き合えない代わりに仁王の彼女を全力で潰しにかかる。皮肉なことに、彼女たちは馬鹿じゃない。仁王の行動も何となくではあるが把握しているわけで、仁王に見つからずに危害を加えることは酷く簡単であった。もそんなファンたちに押し潰されてしまったのだ。  久しぶりに袖を通したブレザーを見下ろしながら、ぼんやりと考える。冬場は厚着をするから、暴行は効きにくい。女が加える暴力なら尚更のこと。だから彼女たちは、を呼び出す際にのブレザーや防寒具を毎回隠していた。そうすると、当然の事ながらはセーターのみとなる。けれど、蹴られたりすればすぐに汚れてしまう。きっと彼女たちのことだから、汚れたセーターで校内を歩き、惨めな思いをするを見てせせら笑うのだろう。そんなことは断固お断りだったは、呼び出しをされた時にはワイシャツ一枚で行くようにしていた。まさかその帰りに、仁王と遭遇してしまうとは思いもしなかったのだが。彼は柳生に変装していたが、話していてすぐに分かった。完全に柳生になり切ることなど無理だと分かっていたし、ずっと仁王を思い続けていたからすれば、ふとした仕草だけで仁王だと分かる。――――だからと言って、別れを突きつける原因にはならなかったのだけれど。
 (もう、仁王は彼氏じゃない)
 その証拠に、あれ程しつこくを潰しにかかっていたファンたちからは何の音沙汰もなくなっていた。常にブレザーやセーターを着ていられるし、腹部に出来た痣や絶えずに貼っていた絆創膏も徐々にではあるが無くなってきている。けれど、嫌いになったわけじゃない。仁王と付き合うと言うことは、それなりのリスクを伴うことだと理解していた。彼らテニス部が知らないだけで、仁王たちの熱狂的なファンクラブがしてきた行為は、殆どの生徒が知っている。ただ、黙認しているだけ。言わば暗黙のルールだ。立海を裏で取り仕切っているのは、仁王の個人的なファンクラブの人間だと言われている。だからこそ、逆らったら何をされるか分からない。仁王の彼女よりも自分の身の方が大切なのは当たり前のことで、誰も彼らに知らせようとはしなかった。
 (仁王には、傷ついてほしくないもんね)
 もし彼が本当に好きになれた人間と出会うことが出来たなら。暗黙のルールにより傷つけられる彼女に気付くことが出来なかったと、仁王は自分を責めるだろう。そして、彼女以上に精神的に傷ついてしまう。それだけは絶対に避けたかった。好きな人間が傷つくところは見たくない。それはの本心だ。偽善者のように思われるかもしれないが、だってそれなりに勇気を出して伝えたのだ。誰も破ったことのなかったそのルールを破って、本人に伝えてしまったのだから。もしこれが彼女たちにバレたなら、はただじゃ済まないだろう。全学年から村八分のような扱いを受けるかもしれない。でも、卒業まで残り三ヶ月を切っている。ほんの少し耐えれば良いだけなのだ。

 「髪も、黒に戻しちゃったし」

 胸元を軽く過ぎる真っ黒い髪を一房持ち上げて、は呟いた。ムラ無く綺麗に染められていた金色の髪は、仁王と少しでも何かを共有したかったと言う陳腐な理由で染めたものだった。銀といえば金。そんな安直な考えだったけれど、自分は満足していた。友人達はみんな似合うと言ってくれたし、自身も気に入っていた。しかし、もう金色を維持する理由はなくなってしまったのだ。そして、自身仁王を思わせるものは全て消してしまいたかった。だから別れたその日に黒染めを買って、髪を黒色に戻した。斜めに分けていた前髪も下ろして眼の上で切り揃えて、大分印象も変わったと思う。伸ばした髪を切るのはもったいなくて、代わりにストレートだった髪にパーマを掛けてみた。緩めにかけたソレは案外友人に人気で、正直なところこの髪型にしてから数人に告白されたのも事実だった。勿論、仁王を忘れられない今は断るしか道は無かった。
 (別れるんだったら、もうちょっと傍に居ればよかったな)
 意図的に仁王から離れて生活していた。もし恋人らしく健気に会いに行っていたら、ファンクラブが黙っちゃいない。それに、仁王もを好きなわけじゃないのだから、結局のところは傍に居ても満たされない。だから避けるようにして過ごしていたし、仁王がの行動を把握出来ないように不規則に動いていたつもりだ。結果、行動パターンが掴めないと言っていたのだから成功したのだと思う。関係上は付き合っていたけれど、恋人らしいことは何ひとつしていない。仁王が恋人にどんな話をするのか。どんな顔で笑うのか。どうやって手を繋ぎ、抱き締め、キスをするのか。どれも想像すら出来なかった。

 「あーあ、こうなるなら記念に何か残しておけば良かったかな?」

 仁王を忘れたいという思いと、二ヶ月だけれど確かに付き合っていたという証を残しておきたい思い。その二つが入り混じって、の中でぐちゃぐちゃに絡まっていく。大きくため息を吐いて、もう一度テニスコートを見下ろした。先程までテニスコートを駆け回っていた部員たちの姿は無く、傍らに置かれたベンチで休憩を取っている様子が伺える。引退した後だと言うのに、三年の部員は多く部活に顔を出しているらしい。ベンチで休憩する部員の中には、自然と目で追ってしまう対象である仁王も居る。どんな表情をしているのかまでは流石に分からないけれど、隣に座っているパートナーと話をしていることだけは何となく分かった。付き合っていた時も、別れた今も、大して変わらない距離。ああやって柳生のように、彼と親しくなることも出来なかった。風に靡いている銀色の髪を眺めていると、不意に仁王が顔を上げた。ここからだと遠すぎて分からないが、何となく此方を見ているようにも見える。――いや、見ている。視力が良い方ではないが、眼が合っていることだけは分かるのだ。思いもよらぬ出来事に思わず身体を硬直させてしまったものの、すぐに肩の力を抜いた。仁王に、今のの姿が分かるはずがない。もし今のが金髪であればバレていたかもしれないが、今は黒なのだ。髪を黒く染めなおしてから、仁王とは一度も会っていない。擦れ違うこともなかったし、が仁王を見つけることもなかった。だから、分かるはずがない。そう考えて、自然に見えるようゆっくりと目線を外した。フェンスにもたれ掛かって、携帯を開く。すると、友人達から二通ほどメールが着ていた。雅が屋上に居ることは伝えていないが、何か用事なのだろうか。昼休みからずっとサボってここに居るから、何かしら連絡が有ったのかもしれない。そう思って、メールを開く。
 _______________
 09/△/■ 14:33
 ○○××
 Sub:大変!
 ―――――――――――――――
 五時間目の休み時間に
 仁王くんがウチのクラス来た!
 を探してるっぽいよ!
 何処に居るのか知らないけど
 戻ってこーい!!
       --END--
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 (…………は?)
 ザッと流し読みしただけでは、どうやら脳は理解してくれなかったらしい。もう一度注意深く読み直してから、首を傾げた。心臓が厭なほど激しく動き出す。怖い。ただそれだけだ。何の用事があるのかはしらないが、今更何の用だろうと思う。もしかしたらいちゃもんをつけに来たのかもしれないし、もうファンクラブの人間に知られたのかもしれない。仮説は幾らだって立てられる。携帯を持つ指先が小さく震えて、爪がカツンと音を鳴らした。

 「
 「っ?!」

 心臓が飛び出るかと思ったのは、これが初めてかもしれない。メールに集中し過ぎて、屋上に人が入ってきたことに気がつかなかった。勢いよく携帯を閉めて握り締めると、そのままゆっくりと顔を上げた。少し汚れた運動靴。白い足。ラインの入った白の短パン。辛子のような濃いオレンジ色のジャージ。銀色の尻尾。仁王雅治。顔を認識し終えるなり、は大きく目を見開いた。それとは裏腹に、仁王は少しだけ眉尻を下げて此方を見ている。少しだけ頼りなく見えるその表情は、今まで見たことのないものだった。携帯を握り締める手が白くなってゆくのにも構わず、はただ黙って仁王を凝視する。言葉が出ない。何と言えば良いのか、何から尋ねればいいのか分からない。そんなの心情を知ってか知らずか、仁王はゆっくりと近付いてきたかと思うと、の目の前に腰を下ろした。そして、相変わらずの鋭い瞳での髪の毛を眺めている。

 「な、何……何の用事? クラス来たんでしょ……?」
 「ああ、そう。話がしたくてのう」
 「話って、何。簡潔に済ませてもらえるとありがたいんだけど」

 ああ、駄目だ。声が震えてしまう。自分でも、今どういった気持ちなのかまだ掴みきれていない。じっと目を見てくる仁王から逃れるように目線をコンクリートの床へ落とし、引きつった口元を何とか歪ませて笑顔を作る。鏡を見たわけではないけれど、酷く滑稽な顔をしていると思う。仁王は暫く黙り込むと、ゆっくり口を開いた。

 「が言ってたじゃろ。本当に好きな女が出来たら、傷つくのは俺だって」
 「それが、どうしたの」
 「正解じゃった。俺、超傷ついたぜよ」
 「……報告、しに来ただけ? だったら早く、部活戻った方が良いんじゃないの」

 別れてから一週間も経っていないけれど、彼は本当に好きな女と出会えたらしかった。しかし、は今そんな報告を心穏やかに聞いていられる状態ではない。はただ忠告しただけなのだから、報告まで聞いてやる義理はないのだ。それに、今でもまだ引き摺っているのだから聞いていて嬉しくなるようなものでもない。だから、さっさと部活に戻って欲しかった。休憩時間だとは言え、部活を抜け出してきているのだから。けれど仁王はやんわりと首を横に振って、続きを話し始める。

 「誰だと思う?」
 「…………え? 何、が」
 「俺を傷つけた女。俺が本気で好きになった女」
 「私が知ってたら、逆に凄いと思う、けど」
 「。馬鹿じゃろ? 失くしてから気付くなんて、アホにも程がある」

 勢いよく開いた口からは、何の言葉も出て来なかった。突然の告白に、何と返せばいいのか分からない。まだ、を欺こうとしているのだろうか。真意が全く読み取れず、は困惑したまま黙り込むしかなかった。ここはとりあえず、仁王の出方を伺うしかない。こういう時にあっさり切り返せる程、まだ場数は経験していないのだ。

 「信じられん?」
 「あ……いや、そういう訳じゃないけど……」
 「今までの彼女を傷つけてた奴らには、ちゃんと制裁したけえ大丈夫じゃ」

 何時もは少しも持ち上がらない口元が、穏やかに緩められている。彼の言ったことが俄かには信じられず、はただ呆然と目を見張るばかりだった。そんな簡単に抑えつけられる程、彼女たちは甘くない。確かに仁王に対しては盲目的な部分もあるが、常人以上の冷静さは持ち合わせている筈だから。
 相変わらず黙ったまま口を開こうとしないに痺れを切らしてか、仁王はそっとの方に手を伸ばした。自然と強張る肩に気付いた仁王は、少しだけ眉をひそめる。そして肩に向けて伸ばした手を止め、の黒い髪をそっと手に取った。付き合っていた頃とは全く違う色。何となく見られてしまった気まずさがこみ上げてきて、は仁王に向けていた目線を外した。

 「仁王、は。本当に私が好きなの?」
 「そうじゃなかったら、あいつらに制裁は下さん。俺は非道な人間じゃから、何とも思ってない奴は放置させて貰うぜよ」
 「仮に付き合って、また放置状態になるのは嫌だよ……」
 「ならんよ。がどっか行っても、俺が追いかけるから」

 まるで夢を見ているようだった。こみ上げてくる涙を堪えようと下を向くと、ツンと鼻が痺れる。涙の膜が張ってぼやけた視界を戻そうと一度だけ瞬きすると、ぽたりと一滴しずくが落ちてスカートに小さな染みを作った。ソレは落ちた瞬間を見ていなければ分からないようなものだったのにも関わらず、目の前の仁王が慌てるような気配を感じる。

 「ちょ、泣かんで? 俺、泣かせたいわけじゃなかったんじゃ」
 「……ごめん」

 もう片方の瞳から更に一滴だけ涙が流れて、はそっと頬を拭った。人差し指の先が少しだけ濡れて、きらりと光る。濡れて滲んだ人差し指をじっと見つめていると、不意に手首を掴まれてそっと引っ張られた。前のめりになった身体に慌てて手を付こうとすると、ジャージのひんやりとした感触に頬を押し付けられる。外気に晒されていた冷たいジャージと、どこか遠くに感じられる香水の匂い。抱き寄せられたのだと気付くまでには、十数秒の時間を要した。

 「に、仁王?」
 「信じるも信じないもお前さん次第。けど、俺は諦めが悪い。信じて貰えんなら、態度で示すしかなか」
 「態度って……」

 何時の間にか背中に回されていた腕に力が込められ、はびくりと肩を震わせた。未だ嘗て、仁王にこんな近付いたことなんて一度も無い。仁王の香水の匂いですら、今知ったばかりだと言うのに。けれど、に彼を拒否する理由なんてひとつだって有りはしないのだ。もしかしたら付き合った途端引き離されてしまうかもしれない。それでも、今目の前でこうして笑っている仁王から逃げることなんて出来なかった。

 「分かった、から。だからちょっと離して?」

 軽い力で仁王を押し返して、は困ったように笑った。案外すんなりと仁王は離れ、ほんの十五センチ程度の距離にあるの顔を見下ろす。

 「好きって言ってくれて、嬉しい。私も仁王が好きだから。けど、私は今までみたいに仁王に一切近付かないような付き合いはしてあげられないよ?」
 「ククッ、寧ろされたら俺が困る。のクラスはC組じゃろ? 俺が顔出しちゃるけえ、ちゃんと居ってな」
 「え? でっ、でも……」
 「拒否権はナシ。俺、案外独占欲が強いらしいからのう」
 「独占欲?」
 「この髪型にしてから、数人に告られたんじゃって?」

 仁王の手が髪に触れる。金髪でストレートだった時とは違う、黒くカールのかかった髪。どうしてそれを知っているの、とは何故か聞けなかった。仁王もこれを話すのは不本意だったようで、真白い肌を少しだけ赤らめている。のクラスには柳生が居たから、恐らく情報源はそこだろう。仁王は誤魔化すようにの頭を撫で、小さく笑った。

 「さて、そろそろ休憩も終わる。俺は戻るけん」
 「あ、うん。……あの、部活終わるのって何時まで?」
 「? 六時半までじゃけど」
 「後一時間ね。えーと、待ってても良い、かな?」

 一緒に帰ってみたい。小さく呟いた言葉も、すぐ近くに居る仁王は完全に聞き取ってしまったようで、切れ長の瞳を薄らと見開いた。そして、肯定の返事を返す。その声がほんのり強張っているのが分かって、は軽く噴出してしまった。勿論仁王にはバレてしまい、彼は朱が差した頬のまま鋭い目付きでを見るが、すぐに仕方ないとばかりに眉尻を下げる。無愛想だった筈の仁王はどこかに消え、年相応の反応を返してくれる中学生が顔を出したのだ。はその事実が嬉しくて、口元を綻ばせた。

 「ほんじゃ、行ってくる。外は寒いけえ、さっさと中に入りんしゃいよ」
 「うん。練習、頑張ってね」
 「おう」

 仁王はすぐに屋上から姿を消した。その後姿を見送ってから、フェンス越しにテニスコートを見下ろす。休憩が終了する時間が迫っていたのか、仁王は案外短時間でテニスコートへ戻っていた。先程とは百八十度違う気持ちで、揺れる銀髪を眺める。未だに信じられない。ドクンドクンと強く波打つ心臓に、ブレザー越しに触れてみた。少し早めに聞こえてくる鼓動。
 ふと、仁王が先程と同じように此方を見上げる。小指の先ほどの大きさだと言うのに、仁王は薄く笑ったのが分かった。胸元に当てていた手をそっと持ち上げて、緩めに振ってみる。すると仁王は一層笑みを濃くさせて、片手を挙げて答えてくれた。



拭った涙が、虹になる
やっぱり続いた  10/03/ 雅