シャープペンが、紙を叩くように文字を書いていく音だけが響いていた。その音を聞きながら、仁王は窓際の席で外を眺める。
 青空。放課後の少しだけオレンジ色に染まった空が、遠くのほうに見えている。下に広がるグラウンドでは陸上部がトラックを走り、彼らに囲まれるように野球部がキャッチボールをしていた。
 仁王の所属するテニス部は、今いる場所からは見えない。ただ、コートをぐるりと囲む緑色のフェンスだけが、木々の間からちらりと見えているだけだった。
 大して代わり映えのしない風景を特に何も考えることなく目に収めてから、仁王のすぐ後ろの席で日誌を書いていたクラスメイトの女子生徒を見下ろす。
 少し開いた窓から流れ込む風が、彼女の黒い髪をふわりと揺らしている。放課後になるまで日誌には手をつけていなかったようで、今は五時間目の世界史について丁寧に書き込んでいるようだった。
 右から左へ何度も往復する右手を見つめていると、見られていることに気がついたらしく、は動かしていた手を止めた。

 「後はこの日誌書いて終わりだから、部活行っていいよ?」
 「いや、ええよ。どうせ今は外周じゃけん」

 そう言って首を振る仁王をじっと見つめてから、はふうん、と興味の欠片も持たずに日誌に目を戻す。
 随分と素っ気無い対応だった。彼女はそれ以上口を開かない。ピンク色に色づいた唇はきゅっと閉じられ、開く意思は無いのだと言っているようだった。大きく垂れ目がちの瞳は可愛らしいと思うけれど、仁王はその瞳の中にある本質を知っている。
 気を許した人間以外の前では、その瞳は鋭く釣り上がる。それはまるで自分のテリトリーに入ることを牽制しているような、そんな意味合いを持っていた。
 今もそうだ。ちらりと仁王に向けられた瞳は、見知らぬ人間を見る目と全く同じものだった。
 そんな彼女を例えるなら、プライドの高い孤高の黒猫。

 「なあ、さん」
 「何?」
 「懐かせたい猫がおるんじゃけど、どうやったら懐いてくれると思う?」
 「さあ……エサでもやれば良いんじゃない?」
 「んなら、そうするわ」

 はい、と差し出された小さなパッケージのお菓子を見下ろしてから、は怪訝そうに眉をひそめて仁王を見やった。
 コンビニで売っているであろう可愛らしいイラストの描かれた箱。わかり易く「季節限定」と書かれた苺味。仁王の手に握られているのは、そんなお菓子だった。
 仁王は日誌の上にそれを置くと、そのまま手を引っ込める。
 ぽつんと鎮座しているお菓子のパッケージを、彼女はそっと手を伸ばして掴む。ふんわりと、甘い香りが微かに鼻腔をつついた。
 明らかに女の子受けしそうなそれを片手に、は小首を傾げる。大きな瞳は更に丸まって、今にも零れ落ちそうだった。

 「何で、私に渡すの?」
 「意味はそのまんまじゃけど」

 頬杖を突いたままニヒルに笑ってみせれば、彼女は想像通り眉を寄せた。

 「残念ながら、私はこのエサじゃ懐かないよ」
 「それも想定の上。ただ、認識して貰いたかっただけじゃけん、気にせんでよか」
 「認識?」
 「そ。ここに、お前さんを懐かせたいと思っちょる男が居るっつーことをな」

 彼女は数回瞬きした後、はあ、と間の抜けた声で頷いた。仁王が何を言いたいのかは理解したらしいが、すぐに懐く姿勢は見せないようだった。
 お菓子を机の隅に寄せたかと思うと、またもや書きかけの日誌に文字を連ね始める。
 ここまでしても、は仁王に興味を示さなかった。振り出しに戻ったかのように、ただ黙々と日誌を書き続けている。
 しかし、最後に「」「仁王」と書き加えた後、伏せていた瞳をゆるゆると上げた。

 「変な口説き方するんだね。そんなんじゃ女の子靡かないと思うけど」
 「………は?」

 が言わんとしていることが理解出来ず、仁王はしばし目を見張って考えた。
 勿論、他人にこの口説き方をするつもりはない。と言うより、ほかの女子生徒を口説こうだなんてただの一度だって思ったことがないと言うのに、彼女は何を言っているのだろうか。
 日誌をパタンと閉じて、シンプルなペンケースにシャープペンを入れる動作をたっぷりと見てから、仁王は漸く口を開いた。

 「こんなんやっちょるん、お前さんにだけじゃけど」
 「そうなの? 何かの実験かと思ってた。女の子を猫呼ばわりするし」
 「さんが猫みたいなのはマジ。自分で思わん?」
 「……別に、思わないけど」

 ペンケースを、机にかけてあったスクールバッグへ入れてチャックを閉める。すぐ真横の窓を閉めながら、ぐるりと教室内を見回した。
 黒板は綺麗になっているし、日直の名前も書き換えてある。簡易掃除もしたし、窓も戸締りをし終えた。
 そこまで確認してから、はガタンと音を立てて立ち上がった。スクールバッグを手にしている所からして、もう帰るらしい。

 「仁王くんも、早く部活行った方が良いと思うよ」

 教室の電気、よろしくね。そう言い加えて、彼女はそのまま教室の出入り口まで向かって行った。
 その後姿に呼びかけると、は首だけ後ろに向けようとして、慌ててバッグを持っていない手を前に出す。パコン、と小さな音。中身が揺れたようだった。
 キャッチしたのは、例のお菓子の箱。どうやら反射神経は悪くないらしい。
 綺麗に受け止めたのを確認してから、仁王は口端を釣り上げて笑う。

 「忘れもの。人から貰ったもんは大事にせんとな」
 「……それじゃ、有難く貰っておく」
 「あ、ちょい待ち。それ賞味期限今日までじゃけん、さっさと食べんしゃい」

 バッグにしまおうとした時に止められ、そのままくるりと箱をひっくり返す。しかし、賞味期限が記載されている部分は何故か黒く塗りつぶされており見ることは出来ない。
 それを見て疑い深そうな瞳を向けられたが、仁王は笑ったまま何も言わなかった。


 * * *


 帰宅後、年の離れた弟に言われるまではお菓子の存在をすっかり忘れていた。
 勝手にバッグの中を漁ったようで、弟はきらきらした瞳でお菓子を片手に首を傾げる。「これ、食べても良い?」と強請るような声色で言われ、はお菓子を一瞥してから頷いた。
 夕食が食べられる程度にしか食べちゃだめだからね、と念押しすると、弟は威勢の良い返事を返してパッケージを開ける。そして、中に入っている銀色の袋を取り出した。
 それを視界の隅に入れつつ携帯をいじっていると、不意に弟が声を上げる。

 「お姉ちゃん、お菓子の底に何か書いてあるよ?」
 「書いてある……? 何が?」
 「えーっと、何とか、き。漢字読めないからわかんない!」
 「貸してごらん」

 弟からパッケージを受け取り、可愛らしいキャラクターが書かれた底を見る。そこには、太い黒のマジックで書かれた「好き」の文字。
 大きく目を見開くの反応を見たのか、弟はしきりに「なんて書いてあるの?」と聞いてくる。
 はゆるゆると首を横に振って、気にしないで、と笑った。

 「こんなんやっちょるん、お前さんにだけじゃけど」
 「……詐欺師」

 あのフレーズがリフレインする。ニヒルに笑うあの顔が鮮明に思い出されて、はぽつりと呟いた。



詐欺師と黒猫

100316 雅  「私の彼は左きき!」企画サイト様へ参加させて頂きました。