「なあ、。アレ貸してや」
 「良いよ、はい」

 白石の手に渡った黒のマジックペンを見やりながら、忍足は「へええ」と感心したように唸った。
 それを聞いてか、携帯を弄っていたはきょとんとした表情で顔を上げる。その向こう側で机に向かっていた白石も、マジックペンのキャップを外しながら忍足を見た。

 「どうしたの、謙也」
 「いや……お前ら、熟年の夫婦かと思うたわ」
 「はあ?」

 頬杖を突きながら言う忍足に、白石は整った眉を微かに持ち上げて顔を歪めた。も意味が分かっていないようで、怪訝そうに忍足を見つめて首を傾げている。
 似たような反応に苦笑しながら、忍足は「それの事や」と言いつつ白石の手に収まったマジックペンを指差した。
 はちらりとマジックペンを見てから、漸く納得したように声を上げる。しかし白石には伝わらなかったらしく、「何やねん」と眉をひそめた。

 「私が何で、蔵ノ介の欲しい物が解ったかって事でしょ?」
 「せや。だって白石、『アレ』としか言わんかったんやで」
 「見れば解るじゃん。新品のノート持ってるし」
 「俺ら以心伝心しとるんやで? 解らん方がオカシイやろ」

 の言うことに頷きかけたところで、忍足はあからさまに肩を竦めて白石を見た。
 当の本人は、ケロッとした様子で新しいノートに名前を書いている。彼は今、何と言ったのだろうか。「以心伝心」。も苦笑している所を見ると、恐らく白石の一方通行な「以心伝心」のようだった。
 白石の無意識な惚気は、これが初めてではない。
 最初のうちは驚いて恥ずかしそうにしていたも今はすっかり慣れてしまったらしく、極力口を挟まないようにしてスルーしてしまうようになっている。

 「何やホンマ、ごちそーさんって感じやわ」
 「ご、ごめん謙也……」
 「いや、は悪ないよ。謝らんでええ」
 「そ、謝らんでええよ。事実を言って何が悪いんや。謙也は羨ましゅうて仕方ないんやろ?」

 こちらに身体を向けて小さく謝ってくるの後ろから、包帯の巻かれた左手が伸びた。それはの鎖骨辺りに絡みつき、後ろから抱きすくめるような形になっている。
 これには流石にも驚いたようで、大きく肩を震わせてから頬をピンク色に染めて俯いてしまった。その後ろから、瞳を細めた白石が顔を出す。

 「アホか。白石みたいな奴に、は勿体無いっちゅー話や」
 「はっ! もしかしてお前、のこと狙ってるんちゃうやろな?!」
 「人の女には手ェ出さんっちゅーねん」

 うんざりだ、と言った様子で溜め息を吐く忍足に、は申し訳なさそうな目を向ける。
 それに気が付いて、薄く笑みを浮かべて首を横に振った。安堵したようにホッと息を吐いて頬を緩める彼女の姿は確かに可愛いとは思うが、それは別に恋愛感情ではない。
 二人の仲を引き裂くつもりも勿論ないし、寧ろそっとしておいてやるから好き勝手してくれ、と言った心情である。
 しかしそれが白石に伝わる筈も無く、に回された手は一向に緩められる気配は無い。彼女はすでに諦めたようで、その腕を振り解こうとはしなかった。

 「白石、ホンマにべた惚れやもんなあ」
 「けっ謙也?! 何言ってんの!」
 「当たり前やん。えー、に伝わってなかったん?」
 「い、いや、そんな事は無いけど」
 「せやろ。はどうや? 俺のこと、どん位好き?」

 「ええー……」と明らかに困った様子で眉尻を下げているのに、白石はにこりと笑ったまま首を傾げている。
 そんな白石の目線から逃れるようにちらりと忍足を見たが、忍足はさりげなく眼を逸らしてやることしか出来なかった。こういう時、下手に邪魔をすると白石に何をされるか解ったものじゃない。
 は暫く戸惑った様に何度か唸りつつあちこちに目線を泳がせていたが、最終的には腹を括ったのか小さく溜め息を吐いた。
 そして白石の方に向き直ると、小さく、蚊の鳴くような声でぽつりと呟く。

 「えー、と。蔵ノ介以外、見えてない……です」
 「!」

 途端に目の色を変えた白石を見て、忍足は額に手を当てた。
 俺もここに居るやろ、とか、もそこそこ惚気るやん、なんて突っ込みたいところはたくさんあったが、今はそれどころではない。
 彼女も白石の異変に気が付いたらしく、今度こそぐるりと振り向いて忍足を青ざめた目で見つめてきたが、忍足には勿論どうすることも出来なかった。典型的な降参のポーズを取るかのように両手を肩の辺りまで上げて、否定するように首を振る。

 「アカン」
 「……え?」
 「完っ全に、スイッチ入ってもうたわ」

 忍足が台詞を言い切るのと、が勢い良く引き寄せられるのはほぼ同時だった。彼女の小さい悲鳴に被せるように、「俺以外見んといてや」と言う白石の低い声が響く。
 その声を聞くなり、少しだけ抵抗するように動いていたの身体がぴたりと止まった。

 「……部活までには終わらしといてや」

 金ちゃん来るの速いで。そう言い残して、忍足は席を立った。後ろから聞こえてくる白石が忍足に礼を述べる声を背負いつつ、忍足はそのまま部室を出る。
 弁当箱を置いてきてしまったが、結局は部活のときに来るので問題ないだろう。
 スイッチの入ってしまった白石を落ち着かせられるのは彼女だけだ。こういう時は誰も二人に近づかないと、最早テニス部の暗黙のルールになってしまっている。
 しかし二人は私有混同することは無いので部活自体には支障が無いし、だからこそ誰もが温かく見守っているのだろう。勿論、言わずもがな忍足もその一人だ。

 「ちょっ! あ……っ、ストップ蔵ノ介……! ここ部室! 今昼休み! は、話聞い――」

 部室から漏れてくる声に、忍足は苦笑する他なかった。

 「ご愁傷さん、。大人しく食われといた方が身の為や」

 小さく呟いた言葉は、誰に聞かれるでもなく風に乗って消えていった。





100323 雅