「はよー」なんて気の抜けた声で挨拶を交わすその声色を聞いて、は自然と肩が強張っていた。無意識のうちに、その声が聞こえてくる方向を見ないよう、窓の方を向く。
 窓の下には誰も居ない大きなグラウンドが広がっており、サッカー部が朝練後に蜻蛉を掛けた跡だけが微かに残っていた。天気は今日も良好で、綺麗な青空が遠くのほうまで広がっている。
 なるべく存在感を薄くしようと、口元を引き締めて呼吸を浅くする。けれどそんな努力も報われず、とうとう隣の席までやってきたその男は、普段通りニヤリと笑って見せた。

 「よお、。今日も可愛くねーな」
 「余計なお世話。放っておいてよ」

 喉を鳴らして笑う男――丸井ブン太に、は冷めた瞳を向ける。大きなテニスバッグを机の横に下ろして、真横の席に腰を下ろす丸井から眼を逸らすと、それを見逃すことなく丸井は楽しそうにを貶してくる。
 「可愛くない」「髪型が変」「化粧が似合ってない」など、言い出したらキリがない。
 最初は毎回言われるたびに傷ついていたのだけれど、今では相手にするのも面倒になっていた。だからこそ、隣から畳み掛けるように乗せられるそれらの言葉に反応する事なく、だんまりを続けるのだ。
 ふと気を緩めば、反抗の言葉が出てしまう。しかし、それは売り言葉に買い言葉。ここぞとばかりに丸井は笑みを深め、更なる仕打ちが待っている。一度だけとは言わず、数度それを経験してしまったからすれば、絶対に避けたい事態なのである。
 丸井は全く反応を見せずに黙り込んでしまったを見て、つまらなそうに唇を尖らせる。

 「あーあ、お前に好かれる奴が可哀想だわ」

 だったら可哀想なのは君だよ、丸井くん。心の中でそう転がして、は目を伏せる。
 二年の頃から同じクラスだった丸井に、は好意を寄せていた。誰とでも仲良く出来る社交的な性格。ムードメイカーでもあり、時には頼られる兄的存在。下に弟が居ることは有名で、その所為で世話焼きな部分だってある。
 その上で端麗な容姿、綺麗に染められた目立つ赤い髪。学校一有名なテニス部のレギュラーだと言うのだから、人気は絶大なものである。
 しかしは表面上だけでなく、さり気無くクラスメイトを助けてやることの出来るその性格が好きだった。けれど、それはの前だけでのみ叶わない。優しくされたことなんて一度だって無いし、寧ろ友好的な言葉を掛けて貰った事だってない。
 (何で、私だけ……?)
 彼は、誰にでも分け目無く平等に接する。けれど、に対してだけはずっとこの態度が続いていた。と言っても二年の頃は喋ったことなど全く無かったし、三年に上がって隣の席になり、初めて丸井に認識されてからの話だ。
 丸井は二年の頃もと同じクラスだったと言う事を覚えていない位、に対しての認識は薄かった。なのに、何故突然。がそう思うのも、仕方の無いことだろう。

 「あ、ねえ。そう言えば、木下くんオッケーだって!」
 「えっ本当に?!」
 「うんうん! だったら全然良いって言ってたよ!」

 前の席に座っている仲の良い友人の知らせに、は目を輝かせた。
 彼女はずっと丸井に弄られているを不憫に思い、他校ではあるが良い人を紹介しようか、と持ち掛けてきてくれたのである。
 最初は遠慮していたが、友人の熱烈な誘いに折れてしまった。最初はメールだけでも、とアドレスを聞いてみたのだが、友人曰く喜んで了承してくれたらしい。顔はお互い友人の携帯によって見ているのだけれど、やはり会うのにはまだ抵抗があるのだ。それでもの好みの顔立ちをしていたし、それは相手も同じようだった。
 先ほどとは打って変わって楽しそうな表情を見せて携帯を取り出すに、隣から野次が飛ぶ。

 「は? その男、頭オカシイぜい。コイツを好きになるとか無いだろい、普通。どうせ、相手も不細工なんじゃねーの」
 「別に、丸井くんには関係ないじゃない」
 「そうだよ! 丸井もさ、いじめんのいい加減やめたら? 迷惑してるから」
 「うるせーな! 俺だってこんなブスの相手なんてしたくねーよ! 寧ろ俺の前から消えて欲しい位だし!」

 怒鳴り声にも近い声量に、は肩を震わせた。SHR前の賑やかな教室が、一気に静まり返る。誰もが、たちのやり取りに注目していた。
 けれど、はそれ所じゃなかった。好意を寄せている相手から、まさか「消えて欲しい」と言われるまで嫌われているとは思わなかったし、好きなわけではないけれど、木下を侮辱されたことだって悲しくて仕方が無かった。
 開きかけた携帯を閉じる手が、悲しさと羞恥で震える。震えが手を伝って、今にも全身が震えだしてしまいそうだった。心臓が、嫌なほど激しく波打っている。頭がくらくらと揺れて、今にも倒れて気を失いたかった。全てが夢であって欲しかった。
 ぎゅうと携帯を握り締め、は俯いたまま立ち上がる。きっと、顔は真っ赤だ。視界は既に滲み、瞬きをするとぽたりぽたり、と両目から一滴ずつ涙が零れ落ちる。余りにも下を向きすぎていたからか、それは頬を伝うことなく足元に染みを作った。

 「、」
 「いい加減にしてよ。私が丸井くんに何をしたの? 嫌われるような事した?」
 「違――っ」
 「今までずっと我慢してきたけど、もう限界だよ。平気な顔してても、傷ついてないわけ、ないじゃん……っ!」

 痛いほどの静寂が苦しかった。その時、SHRが始まることを告げるチャイムが鳴り響く。それを切欠に、は教室を飛び出した。後ろから、彼を紹介してくれた友人の引き止める声が聞こえた。しかし、止まって教室に戻る気なんぞ一ミリも沸いて来なかった。
 暫く震える足を必死に動かして走っていたけれど、俯いていたには前方から来る人影に気が付かなかった。
 鈍い衝撃と共に小さな声が聞こえて、慌てて顔を上げる。そこには、完全に遅刻だと言うのにのんびりと欠伸をしながらこちらを見下ろす仁王の姿。肩にテニスバッグを背負っている所からして、今から教室へ向かうところらしい。
 仁王は突然の衝撃に眉をひそめてを見たが、その表情はの目から零れ落ちる涙を見るなり驚きに変化した。
 は見られてしまった事への恥ずかしさから慌てて頭を下げ、横をすり抜ける。が、携帯を掴んでいない手を仁王に掴まれ、足が止まってしまった。

 「こっち来んしゃい」
 「えっ? ちょっ、仁王くん?!」
 「ええから。教師に見つかったら厄介じゃろ」

 仁王に腕を引っ張られるがまま連れてこられた先は、人気のない空き教室だった。立海に入学して三年になったけれど、一度も来たことのない場所。
 自分たちの教室のようにびっしりとは言わずとも、横五列縦四列程度の机が揃って並んでおり、仁王はそのうちのひとつに腰を下ろした。も釣られるようにしてその隣の椅子を引き、すとんと座り込む。力が抜けてしまったようで、足は相変わらずがたがたと震えていた。
 はどうしていいのか解らなかった。仁王とは殆ど話したこともなく友人とは言えない関係であり、丸井と酷く仲が良い。だからこそ丸井に関して言うのには躊躇するし、と言って黙り込んで困らせるのも戸惑われた。
 暫く仁王は頬杖を突きながら黙っていたが、の嗚咽が止まる頃にゆっくりと口を開いた。

 「丸井じゃな?」
 「……」
 「アイツはほんまにガキじゃけん。よりによって、さんを泣かせよって」
 「……よりによって、って?」
 「ん? あー、まだ言っとらんかったか。いや、気にせんといて」
 「う、うん。でも、もう良いの。嫌われてるのは解ったし、席替えも来週する筈だから」

 充血して真っ赤に染まった瞳を細め、は苦笑する。自分が相手を好いていても、どうにもならない事がある。それを実感した。
 それを見た仁王は何かを言おうと口を開きかけたが、目線をふよふよ漂わせて、結局閉じてしまった。はすん、と鼻を啜って頬に残る涙の跡をミニタオルで拭い、ふうと息を吐く。
 何とも言えない沈黙が下りてきた。そう思った直後、それを切り裂くように仁王の携帯が鳴り響いた。鳴り止まないところからして、電話のようである。
 仁王は面倒臭そうな表情で携帯を取り出すと、サブディスプレイを見やってから大きく溜め息を吐いた。

 「すまん、電話出るぜよ」
 「ど、どうぞ」

 ピ、と電子音が鳴ると同時に、仁王が携帯を耳に当てる。音量は低く設定されているのか、には相手の声が全く聞こえなかった。

 「あー、もしもし? 随分と阿呆な事しよったのう」 『どどどどどうしよう仁王! えっ?! 何で知ってんの?!』
 「落ち着け。何時までもぐずぐずしよるからそうなるんじゃ」 『なあ、どうしたらいい? 一緒に居るんだろい? 何処だよ』
 「そら、一つしか無かろうよ。おお、いつものとこ」 『解った。すぐそっち行くから!』
 「貸しイチ、な。学食のスペシャルランチで妥協しちゃるけん、砕けろ」 『砕けろって……振られること前提かよ……』
 「はあ? あんな事しといて、砕けないわけがなかろうが」 『だ、だって俺どうやって接して良いのか解んなくて!』
 「ハイハイ。解ったけん、もう切るぜ?」 『あ、ああ。すぐそっち行くからな! 待ってろい!』

 話を聞くつもりは全く無かったので、仁王が電話を切ったと同時に「ほんまに阿呆やのう」と呟いたその言葉に、首を捻る。
 しかしそれを気安く尋ねられる関係でも無かったので、は持ち運びの出来る小さな手鏡を取り出して覗き込んだ。腫れてはいないけれど、充血した瞳。目の下は赤く、いかにも泣いた後の顔をしている。
 保健室で氷を貰って冷やすべきだろうか、と考えながら鏡をしまおうとしたその時、仁王が「来るぜよ」と扉に向かってぽつりと囁いた。
 何が、と問う時間もなく、物凄い勢いで後ろの扉が開いた。俯いているため顔は解らないが、最早トレードマークでもある赤い髪が見えた途端、は途端に心臓の鼓動が早くなっていくのを感じた。
 目を見開いて、その姿を凝視する。しかし、仁王が席を立った事によってそれは途切れた。この空間に、二人きりにして欲しくない。のその願いは叶う筈もなく、仁王は丸井と入れ違いになるように教室から出て行ってしまった。

 「
 「な、に。何で来たの?」

 次は、何を言われるんだろう。そう身構えるの前までやってくると、丸井は勢いよく頭を下げた。綺麗に染められた赤い後頭部を見下ろして、はぽかんと口を開ける。

 「ごめん!」
 「……え? ちょっ、何」
 「何から言っていいのか、解んねえけど。俺、お前のことが好きなんだよ」
 「は?」

 衝撃的な発言に、は理解するまでかなりの時間を要した。まじまじと見つめるに、丸井は居心地が悪そうに眼を逸らし、頭を掻く。その頬に朱が差しているのに気が付いて、は漸くその意味を理解した。
 けれど何と返事をしていいのか解らず、は困惑したように眉尻を下げて丸井を見やった。

 「お前に、酷いことしたって思ってる。けど、その、俺、どうしていいか解んなくて」
 「ええ……」
 「三年の初めも、席、隣だったろ? そん時、一目惚れしたんだよ。に」

 ぎょっと目を見開くに、丸井は苦笑して「信じられないかもしんねーけど」と付け加えた。
 三年の四月。席が隣同士だと判明した初日、隣に座った丸井と初めて挨拶を交わした。その時は既にも好意を寄せていたから、挨拶ひとつでも胸を高鳴らせていたのを鮮明に覚えている。
 その時は普通だった丸井の態度が、次の日から一変したのもちゃんと脳裏に刻み付けられていた。

 「俺、マジで惚れた事とかなくて……どうやって接したらいいのか、さっぱりで」
 「そう、だったの……」
 「本当にごめん! 好きとか言っちまったけど、返事とか良いから。俺に好かれても、嬉しくないだろい」
 「そんな事、無いよ。私、二年の頃から丸井くんの事好きだったんだから」

 今度は、丸井が目を見開く番だった。元々大きな瞳が更に大きくなり、顔が徐々に真っ赤になってゆく。それを見ていると、にも恥ずかしさが湧き上がってきた。
 同じように顔が赤くなっているだろうを暫し呆然と見つめてから、丸井は目を伏せて、小さく呟く。

 「えーっと、じゃあ、改めて言う」
 「……? 何を」
 「ずっとが好きだった。俺でよかったら、付き合って欲しい」
 「え、あ、わ、わたしで、よければ……お願いします」

 ぺこりと緩く頭を下げたところで、急に腕を掴まれて座っていた椅子から立たされた。驚いた声を上げる間もなく、ふんわりとした甘い匂いと人肌の体温に包まれる。背中に回された腕と、すぐ近くにある首筋に、は慌てたように肩を揺らす。
 けれど何も言わずに力を込め、抱きしめてくる丸井に、もゆっくりと手を回した。


 * * *


 その後教室へ帰ると、仁王やの友人を筆頭とした全クラスメイトに祝福され、と丸井は仰天することとなる。
 どうやら、丸井の「好きな子は虐めたくなる」行動は、以外の全員が気が付いていたらしかった。





子供な僕、大人な君

100409 雅