いくら友人であっても滅多に話しかけてくる事のない仁王がの席にやってきたのは、昼休み終了五分前のことだった。
 空になった弁当箱を片づけているの上に人影ができ、は何の気なしにその影の主を見上げる。両手をズボンのポケットに差し込んだままを見下ろしていたのは、クラスでたった一人しかいない銀色の髪を持つ仁王だった。
 お互いあまり会話を交わさない所為か、こうして仁王がの元に来るのも実は数回あるかないかだったりする。
 きょとんとした表情を隠さずに仁王を見上げるに、彼はほんのりと口元を引き締めた。

 「赤也、今日は休みなんじゃ。風邪引いたんじゃと」
 「そうなの? 知らなかった」
 「それにな、親と姉貴は法事で親戚ん所行ってて明日まで帰って来んのじゃよ」
 「じゃあ、赤也くん一人なの? 熱出してるのに?」
 「ほうなんよ。アイツ、熱出すと滅法弱るけん。、行ってくれん?」
 「……赤也くんの家に?」
 「赤也には見舞いに行くって言ってあるけん、鍵は開いちょる。勝手に入って良いって言うとったぜよ」
 「それは、仁王くんたちに対してであって私にじゃないと思うけど……」
 「ええのええの。俺らの代理で来たって言えばよか。午後は自習だけじゃけ、さっさと行きんしゃい」
 「は、はあ……」

 仁王はそれだけ言うとすぐに去ってしまった。教室から出ていくのを見る限り、自習に出席する気は無いらしい。揺れる銀色の尻尾を眼で追いつつ、は小さく息をついた。
 切原の家に行ったことはあるし、家族とも面識はある。特に切原の姉とはメールをするまでの仲になったし、つい最近も好きなアーティストの話で盛り上がったばかりだ。
 とりあえず仁王たちでなくが行くことを知らせようと携帯を開くと、一通のメールが届いていることに気がついた。基本的に携帯とは離れた生活を送っているは、こうやって新着メールにすぐ気付かなかったりする。
 定期的に光るランプも広告メールやマガジンと言った振り分けのされていないフォルダのものではなかったから、慌てて開く。送信主は、切原の姉、茜だった。

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 10/△/■ 10:33
 茜さん
 Sub:やっほー
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 突然こんな事頼んでごめんね!
 今日赤也の馬鹿が熱出してて、
 学校休んでるのは知ってる?
 アタシと親は親戚の法事で
 赤也の面倒見られないんだ。
 放課後でいいから、暇だったら
 赤也のお見舞い行ってあげて!
 ごめんね〜><
 あ、鍵は一応開いてるから!
       --END--
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 いよいよ、これは本格的に行かざるを得なくなってしまった。勿論行くのが嫌なわけではないけれど、勝手に上がりこむような真似をするのは気が引けるのである。
 は暫く考え込むように携帯を見つめた後、立ち上がって帰り支度を始めた。


 * * *


 念のため切原の携帯にメールを入れておき、は学校を抜けて切原宅へやってきていた。下校時刻とは違い、住宅街には独特の静けさが漂っている。
 学校から切原の家までの間、結局彼からの返信はなかった。勿論、風邪をひいている相手からの返信は特に期待していなかったので、は赤い屋根の綺麗な家の前に、インターフォンを押そうと手を伸ばす。カチ、とボタンを押した音は聞こえたけれど、家の者に知らせる筈のチャイムの音は一向に聞こえてこなかった。
 (……あれ?)
 首を傾げ、もう一度押す。やはり、音は鳴らない。どうやら、壊れてしまっているらしい。
 は一旦躊躇するようにその場に立ち竦んだが、ここまで来たら何も言わずに帰る事は出来なかった。
 茜の言うとおり、家の鍵は開いていた。しかし今のご時世、危険だという意識はないのだろうか。玄関の扉を開けると、中もシンと静まり返っている。お邪魔します、と言ってはみたものの、恐らく二階に居るであろう切原には届いていないだろう。
 切原の部屋がどこにあるのかは知っているので、は余計な散策はせず、すぐに上へあがった。階段を上った先、右手すぐに見える某アーティストのステッカーの貼られた扉が彼の部屋である。
 中からは物音ひとつしない。ノックを二回して、そっと扉を開いた。
 (今まで、頑張ってくれてたんだ……)
 が切原の部屋を訪ねた時は、綺麗とは言わずともある程度は整理整頓されていたし、気になるほどではなかった。しかし、今日は違う。あちらこちらに服が散乱し、テレビ下のボードにしまってある筈のゲームも出しっぱなしの状態である。
 恐らく、今までが訪問する時には前もって片づけてくれていたのだろう。そんな些細な気遣いが、には妙に可愛らしく感じられた。
 切原は、部屋の奥にあるベッドに横になっていた。布団を鼻のあたりまで被っている為全貌は解らないが、彼特有の黒い癖っ毛が見え隠れをしており、それを見たは頬を緩めつつそっと近づく。
 近くで見る切原の額には汗の粒が浮かんでおり、前髪が微かに濡れている。繰り返される呼吸は心成しか荒く、眉は薄らとひそめられていた。
 辺りを見回すが、近くには水分補給用の水もないし、汗を拭うタオルだってない。勝手に人の家を漁ることは戸惑われたが、は茜にメールをすると、すぐに一階へ向かった。
 リビングの机の上には、茜が出しておいてくれたのだろうか、救急箱が無造作に置かれている。その中から風邪薬と冷えぴたを取り出し、冷蔵庫から五百ミリリットルのペットボトルに入ったミネラルウォーターを抜き取り、洗面所からタオルを取って切原の元へ戻った。
 額に浮かんだ汗をタオルで拭っていると、その感触で起きたのだろう、切原がまぶたを震わせて、ゆっくりと目を開いた。微かに動く唇から出てきた声は、酷く掠れている。

 「……え? 、先輩……?」
 「うん。気分はどう? 薬、ちゃんと飲んだ?」
 「いや……飲んでない、ッス」
 「駄目だよ、飲まなきゃ。とりあえず、水飲まなきゃね。起きられる?」

 切原は暫くぼんやりと雅を見ていたが、ゆっくりと動き出して起き上がった。その背中に手を差し入れて支えると、ミネラルウォーターを手渡す。受け取る切原の手と一瞬触れ合ったが、普段からほんのり暖かいその手は更に熱くなっていた。
 水を飲む際に上下する白い喉仏を何の気なしに眺めていると、冷たい水で漸く意識が覚醒したらしい切原が驚いたように声を張り上げた。

 「ええ?! 先輩、何でここにいるんスか?! ッ、ゲホッ」
 「あー、急に大声出すから。仁王くんと茜さんにね、熱出してるって聞いたの」
 「そうッスか……って、部屋片付けてな……!」
 「ちょっ、いきなり動かないの! 大丈夫だよ、私には構わないで」
 「で、でも」
 「ほら、横になって。ご飯は?」

 部屋を片付けていないことに気がついた切原が慌ててベッドから抜け出そうとするのを、は苦笑しつつ止める。横になった切原の前髪をかき揚げ冷えぴたを貼ると、は首を傾げて問うた。
 その問いに切原は小さく唸った後、ゆるゆると横に首を振る。そして、やんわりと苦笑した。

 「食欲ないッス……」
 「少しだけでも食べなきゃ、薬飲めないよ。何だったら食べられる?」
 「うー……軽いモンだったら、多分……」
 「それじゃあ、台所借りるね。何か作ってくるから」
 「え、あ……ちょっと待って……先輩、もうちょっと、ここ居てください」

 立ち上がろうとしたを引き留めるように、布団の中から手が伸びる。熱く少しだけ湿ったその手は、の冷えた手首をいとも簡単に捕まえた。は驚いたように目を見開き、立ち上がりかけの体勢のまま切原を見下ろす。
 こちらを見上げてくる切原の顔は何だか必死のように思えて、は瞬きを数回繰り返すと、素直に頷いて腰を戻した。
 一つ下である彼の手はよりもふたまわり以上大きく、表面は肉刺の所為でごつごつとしている。手首を掴んでいた指先にそっと自分のそれを絡めて、は柔らかく笑った。

 「熱を出すと滅法弱るけん、って仁王くんが言ってたの、本当だったんだ」
 「う、うるさいッスよ。俺だって人恋しくなる時、ありますもん」
 「あまり風邪をひかないから余計に、ね」

 は瞳を細めると、そのまま切原の髪を撫ぜる。癖の強い一房を人差し指に絡めて遊んでいると、普段なら少しばかり抵抗する切原が何も言わないことに気がついた。ふと見やれば、切れ長の大きな目は閉じられ、規則的に緩やかな寝息を立てている。
 おやすみ三秒、とはまさにこの事だと、は静かに微笑んだ。まるで、手のかかる弟が出来たみたいだ。無論、それを口にしてしまえば彼が怒ることなど目に見えているから、勿論言葉にはしないけれど。
 切原が寝ている間に軽食でも作ろうかと思い立った時、すぐ傍らに放置していた携帯がマナーモードの状態で鳴り響いた。カーペットの敷かれていないフローリングに、バイブ音は大きく響き、慌てて持ち上げると切原を見やる。けれど、その睡眠を害した様子はなかった。
 相手は茜から。先ほど、勝手に薬箱やらを使う事を報告したメールを送ったのだが、どうやらその返事が来たらしい。
 内容は、そんなことは全く気にしなくて良いこと、もし何かを作る時用にと材料や調味料の場所、彼の使っている食器などが事細かく書かれていた。いつでも用意のいい茜に、は苦笑いを浮かべつつも礼の言葉を返信した。


 * * *


 風邪の時に食べられるものと言ったらお粥や雑炊しか思い浮かばず、結局冷蔵庫にあった材料で雑炊を作った。湯気を立てつつ食欲のそそる香りを立てている鍋の中をかき混ぜながら、は食器棚を見やった。茜の言っていた切原が愛用している食器は、恐らくあの青い茶碗だろう。その横に父親のものだろうか、同じ大きさの黒い茶碗が伏せられている。
 茜や母親のものであろう暖色系の茶碗は、言わずもがな彼らの茶碗よりも一回り小さいものだった。
 鍋の火を止めて、食器棚から青い茶碗を取り出す。その時に大きなどんぶりも一緒に出すと、雑炊をどんぶりの方へ盛り付けてお盆へ乗せる。青い茶碗も伏せて乗せると、そのまま切原の部屋へと向かった。

 「先輩、遅いッス」
 「……起きてたの?」

 部屋を開けるなり、聞こえてきたのは切原の不機嫌そうな声だった。上半身を起こし、彼は恨めしそうな目でこちらを見ている。まさか起きているだなんて思ってもみなかったは、きょとんとした表情で彼の目線を受け止めるしかなかった。
 幾分か体調の戻ったらしい切原は、先ほどよりかはだいぶ元気な様子でを迎える。は切原に席を外したことを軽く謝ると、ベッドの傍らにあったサイドテーブルの上にあるものを適当にまとめて、お盆を下ろした。青い茶碗に雑炊を取り分けると、今度は切原が驚いた様子でを見る。

 「え、なんでその茶碗……」
 「茜さんが教えてくれたの。少し熱いけど、食べられる?」

 木製のスプーンと一緒に茶碗を手渡すと、切原は軽く頷いて受け取った。スプーンで掬った分に息を吹きかけ、ゆっくりと食べていくその姿をぼんやり眺めていると、口に入れたものを嚥下した切原が、薄ら笑った。

 「先輩、これ超美味い。料理、得意なんスか?」
 「まあ、一応は一人暮らししてる身だし……必要最低限は」
 「へへっ、こうしてると先輩、俺のお嫁さんみたいッスね」

 少しだけ照れくさそうに、それでも嬉しそうに笑う切原には思わず頬を染めたが、同じように笑みを浮かべる。

 「はは、お嫁さんに貰ってくれるの?」
 「勿論ッスよ。大人んなったら、俺、超カッコいいプロポーズするんで」
 「本当? じゃあ、楽しみにしておかなきゃね」
 「先輩のこと、泣かせてみせるッスよ」
 「多分、どんなプロポーズでも泣いちゃうなあ」

 想像してみようと頭を回転させるが、どうしても出てこない。彼はきっと、の想像を絶するようなプロポーズをしてしまうだろうから。
 楽しそうにあれこれと想像を膨らませるを余所に、切原は空になった茶碗をサイドテーブルへ戻す。そしてゆっくりと身を乗り出すと、全くの無抵抗だったにそっとキスを落とした。数秒の後に薄く離すと、ゆるゆると目を見開いているの大きな瞳を間近で見つめ、もう一度唇を押し当てる。
 何度か繰り返した後、切原はふと気がついたように唇を離した。

 「あ、やべ。先輩、もしかしたら風邪移るかも」
 「大丈夫。そうしたら、今度は赤也くんがお見舞いに来てくれるんでしょ?」
 「ウィッス」

 すぐ間近にあった切原の首元に腕を回すと、は彼の額と自分のそれを合わせ、ふんわりと微笑む。切原は驚いた風に顔を赤くしてから、の後頭部を引き寄せた。






100425 雅