葬儀後の独特な空気に耐えられず、白石は一人斎場を離れていた。両親には先にホテルへ帰るとメールしておいたし、亡くなった親戚ともそこまで面識が無かったのだから、先に抜け出した白石を咎める人間は誰もいないだろう。
 すっかり日の落ちた道を歩き、首元を締め付ける窮屈なネクタイを緩めて、必要最低限の荷物を抱えて駅へと向かう。こうやって東京に出てくるのは、もしかすると数年前の全国大会以来かもしれなかった。
 全国大会から数年が経ち、白石は現在20歳である。地元とは言わずとも、大阪の大学に通っている立派な大学生だ。中学の頃から仲の良かったテニス部の連中とは、腐れ縁と言うべきか未だに連絡を取り合っている。忍足に至っては、大学まで同じだ。学部は違うものの、キャンパス内では頻繁に顔を合わせている。
 東京に行く事を言えば、忍足は懐かしい少女の名前を出してくれた。
 。中学校三年間、白石たちの傍でマネージャーを務めていた女子生徒である。本来ならば白石と同じ高校に進むはずだったのだが、両親の急な転勤で卒業時に東京へと引っ越してしまっている。
 最初のうちは連絡を取り合っていたのだが、彼女は向こうで携帯を無くしてしまったようで、一気に全員との連絡が途絶えた。それきり電話やメール、手紙ですらやり取りする事がなく、現在まで過ごしてきたのだ。
 確かに彼女は東京に引っ越したけれど、今も住んでいるとは限らない。
 (謙也のヤツ、変なとこだけ鋭いんやもんなあ)
 ホテル最寄り駅の切符を購入しつつ、白石は薄ら苦笑した。白石が密かにの事を好いていたのは、白石と親しかったレギュラー陣全員が把握していた。寧ろ、知らないのはだけだっただろう。
 鈍感と言うよりもそんな気がさらさらなかったように見えるを落とすのは幾らなんでも時間が掛かったようで、結局彼女が引っ越すまでに思いを伝えられなかったのだ。
 それを忍足に知られた時は、「ヘタレ野郎」だの「聖書失格」だの好き放題言われた覚えがある。そういう忍足も恋愛に関してはスロースターターであるため、高校の時は逆に白石からきつい一言をもらったのだけれど。

 ホームにいる人は疎らだった。都心方面だからか、この時間帯だと少ないのだろう。
 ちょうど空いていたベンチに腰を下ろし、ずっと電源を切りっぱなしだった携帯を開く。電源を入れると同時に数通のメールが届き、それを読み流している時、女性特有の柔らかい声が耳に入った。

 「はいはい。侑士がくれたものなら何でも嬉しいよ。好みは把握してるじゃないの」
 「もっと自信持ちなよ。ちゃんと侑士のこと好きだし、侑士もそうでしょ?」

 少し呆れ混じりの声色と、見知った名前に、白石は携帯のディスプレイから顔を上げた。声の主を探すように目線を動かすと、それは隣のベンチに座る女性のものらしかった。彼女は大きなショッピング袋を二つ傍らに、白い携帯を耳に当てて電話をしている。
 その横顔に何となく見覚えがあって、白石は目を凝らして見つめた。胸元まで伸びている茶色の巻き髪に、綺麗に施されたメイク。それらが、白石の記憶を著しく邪魔している。彼女は白石に気付くことなく、空いた方の手で爪を弾いた。

 「……っ、?」

 殆ど無意識だった。ただ癖のように爪を弾くその姿が、数年前のにそっくりだったのだ。小さい声だったにも関わらず、女性は俯きがちだった顔をあげてこちらを向いた。そうして、大きな瞳を更に丸く見開く。
 薄ら開いたグロスの塗られた唇が、微かに「くらのすけ」と動くのを見て、白石は漸く確信した。けれど、目の前にいる彼女は、記憶の中のと余りにも違いすぎる。
 化粧っ気がなく、炎天下を走り回っていた所為で少しばかり焼けた肌に、無邪気な笑顔。ショートとは言わずとも短く切られた髪は、今じゃ胸のすぐ下でふわりと揺れている。肌も驚くほど白いし、少しだけ濃いメイクは大人びた顔立ちを更に引き立てていた。
 は電話先の相手と一言二言会話を交わすと、すぐに電話を切った。そして、柔らかい笑顔を浮かべる。

 「久しぶり。中学卒業以来だね」
 「せ、せやなあ。元気しとった?」
 「勿論よ。それにしても、何で東京に居るの?」
 「親戚の葬式があってん」
 「そうだったんだ。はー、それにしても蔵ノ介、大人っぽくなったねえ」

 マスカラの塗られた長い睫毛をふるりと震わせて、は瞬きを繰り返した。穏やかに笑うその姿は、白石たちと離れていた五年間をそのまま反映させるようだった。
 少女特有の高い声や関西弁はすっかり姿を消し、少しばかり大人びた声色と標準語に違和感を覚える。

 「皆元気にしてる? 謙也と同じ大学なんでしょ? 相変わらずだよね」
 「え……何で知っとん」
 「侑士から、謙也について色々聞くのよ。さっき電話してた相手も侑士」

 その言葉に、心臓が嫌な音を立てるのが解った。電話口で喋っていた内容が、まるで恋人同士のようだったのを思い出したからだ。無意識のうちにしかめられた顔を見られないように目を逸らすと、携帯を手にしている右手が視界に映り込む。
 真っ白く細長い指。その薬指に、可愛らしいピンクゴールドの宝石が散りばめられた細い指輪がはめられていた。まるで身体の一部のように違和感なく納まっているそれに、最初は見逃してしまいそうになった程だ。
 思わず大きく目を見開く。けれど、はそれに気づくことなく電車の電光掲示板へ目を向けている。

 「なあ、
 「うん?」
 「東京来て、結構経つやろ。どうや、彼氏の一人でも出来たか?」

 自分で墓穴を掘っているのは解っていた。しかし、止まらない。
 そして、口に出してから気がついた。が東京に来てから五年が経過している。白石たちと過ごした時間は、たった三年しかなかった。大阪に居た期間は東京よりも勿論長いのだけれど、白石たちと一緒にいた時間は、ここに来てからよりも二年も少ないのである。
 は唐突な質問にも関わらず、白石に目を戻してあっけらかんと笑ってみせた。

 「そりゃねー、五年もあれば彼氏の一人や二人、出来るわよ」
 「そ、そやな。、えらい可愛くなったもんなあ」
 「なあに? お世辞なんて要らないってば。蔵ノ介こそ、格段に磨きをかけたじゃないの」
 「お世辞なんか言わんって。今更お世辞並べる仲でもないやろ」
 「蔵ノ介は? 彼女、いるの?」
 「いや。案外出来ひんもんやで。今は勉強で手一杯や」
 「はは、よく言うよ。けどその通りかもね。大学入って付き合った人と、長続きしなかったもの」

 困ったように眉尻を下げて、は小さく苦笑する。白石もつられて苦笑いすると、不意にの手に納まっていた携帯が震動し始めた。閉じられたサブディスプレイに目を映せば、見慣れたフルネームが点滅している。
 『忍足謙也』。珍しい苗字だからこそ、該当する人間は一人しかいない。しかし、現在と連絡を取っているメンバーは誰一人としていなかった筈だ。
 愕然とする白石を余所に、は不思議そうに首を傾げて電話に出た。

 「もしもし? どうしたの?」『いや、白石に会えたかなー思て電話してん』
 「会えたよ。ありがとね謙也」『……今、隣におるやろ』
 「あれ、何でわかったの?」『俺、フルボッコ決定やん……! まだ白石に言うとらんねん!』
 「えー?! 馬鹿、黙ってたら逆効果……!」。大阪人に馬鹿は禁句や。お前もとうとう東京人になってんな……』
 「今それどころじゃないでしょうが! 話ずれてる!」『お、おん。すまん』

 忍足の声は無駄に大きいからか、白石の耳にもそれは良く届いた。聞こえてくる会話の中で生まれてくるのは、に対しての疑問と忍足に対しての怒りだ。
 は何故、白石が東京に来ているのを知っているのだろうか。会話を聞く限り、は忍足に白石の事を聞いていたようだ。けれど、何故なのかは解らない。それに、忍足はどうして雅と連絡を取っていた事を白石に言わなかったのだろう。
 白石がを好いていたのは百も承知だろうに、何故ひた隠しにしてきたのだろうか。
 彼女はまだ、電話相手である忍足と会話を続けている。

 「戻ったら謝った方が良いよ」『覚悟しとくわ……』
 「私からも説明しておくから。それに、そんな気ないみたいだし」『いや、そんな事あらへんってホンマに』
 「良いって。そろそろきっぱり諦めた方が良いって思ってるから」『……伝えるだけ伝えとけよ』
 「はいはい。わかった。じゃ、そろそろ切るよ」『また連絡するわ。ほなな』

 電話を切るなり、は小さく深呼吸をして白石を見やった。真っ直ぐな眼差しに、今まで胸に抱いていた疑問が一気に吹っ飛ぶ。

 「あのね、蔵ノ介にずっと秘密にしていたことがあるの」
 「……なん?」
 「私、大学が侑士と同じなのね。入学してからすぐ、謙也繋がりで仲良くなって、その時に謙也の連絡先聞いたの」
 「それで?」
 「その時、蔵ノ介のアドレスも聞こうと思ったんだけど……大学入ってすぐ、彼女作ったでしょ?」

 少しだけ強張った声色で、は困惑したような表情を作る。嘘をつくわけにも行かず、白石は黙って頷いた。
 大学に入学した直後、確かに彼女が出来た。そろそろのことも忘れた方が良いと、そう思い込んで無理やり作ったのだ。結局性格が合わず、一か月も経たないうちに別れてしまったのだけれど。
 そして、極力の事を思い出さないよう、彼女の話題も避けていた。忍足と話している時は必然的に出てきてしまうのだが、白石が無理やりでも話の軌道を変えていくのが続き、流石の忍足も気がついたらしく、の話題は全く出ないようになっていた。
 恐らく、それも白石と同じ大学である忍足が教えたのだろう。

 「だから聞くにも聞けなくて。それにその頃、私の話題避けてたみたいだったし」
 「……すまん」
 「あ、謝ってほしいわけじゃないの。でね、今日、蔵ノ介が東京に来ること、実は知ってたんだ」
 「謙也か?」
 「そう。斎場の最寄り駅を聞いて、会えるかなーって思ってたら本当に会えちゃった」

 はにかむように微笑んで、は続ける。

 「ずっと、言いたいことがあったの。中学を卒業する前から、ずっと言いたかった事」
 「…………え?」
 「私ね、蔵ノ介が好きだったの。あの夏を引退してから、言おう言おうと思ってたんだけど……その頃には引っ越しが決まっちゃってたし、もし仮に付き合えたとしても、すぐに遠距離になるのが解ってたから言えなくて。けど、今日は打ち明ける良いチャンスだと思ったんだ。蔵ノ介はすぐ大阪に戻るし、良い思い出になるかなって」

 ゆっくりと白石から目を逸らして、は向かい側にあるホームを見やった。スーツに身を包んだサラリーマンや大学生らしき風貌の女性、制服を着た学生が列をなしている。
 あまりの多さに、もしかするとの知り合い一人や二人程、紛れていそうだと思った。けれど、白石はそんな余裕なんてない。
 突然の暴露にただ驚くばかりで、何を言おうにも声にならなかった。酷く喜んでいる自分と、過去形になってしまっている言葉に目敏く気付いて落ち込んでいる自分と、二人が葛藤をし続けている。

 「それは、もう過去の話なん?」
 「え……あ、ううん。でも気にしないで。過去だと思ってくれて構わないし」
 「んー、それは出来ひん頼みやなあ」

 はきょとんと眼を丸くして、意味が解らないと言った風に小さく首を傾げる。白石の言わんとしていることは、どうやら伝わらなかったらしい。

 「俺もな、に言いたいことがあんねん。聞いてくれるか?」
 「うん。何?」
 「が俺を好いてくれる前から、俺はお前のこと好きやったで。せやけど、そんな気ィ更々ないっちゅー顔で毎日過ごしてんもん。お陰で想い伝えるの躊躇してしもうて、結局引っ越しやろ? 重荷になるの怖かったしな。あれから五年経ってもうてるけど、ずるずる引きずりっ放しやで、俺」
 「……それって」
 「大学入った頃にな、もうキリがええから忘れよう思ったん。でも無理やったやんか。の話題避けても彼女作っても、どうにも忘れられへんねんて」

 は黙って白石の言葉に聞き入っていた。口元をキュッと引き締めて、瞬きを数回繰り返す。それは昔から変わっていない、泣くのを我慢している時の彼女の癖だった。
 軽く俯いてしまった彼女の頭を、緩く撫でる。髪色が茶に変わっても、柔らかい毛質はそのままだ。猫っ毛特有の細い髪は相変わらず指通りが良く、白石の指の間をするすると逃げるように落ちていく。
 頬を赤く染めてされるがままになっている彼女の耳元で、白石は小さく呟いた。

 「今でも好きだってお互い暴露したところで、する事は一つやんな?」
 「くら、――」

 可愛らしいピンク色のグロスが塗られた小さな唇を、白石は自分のそれでゆっくりと塞いだ。
 向かい側のホームにいる多くの人間の目を気にしているのか、目を見開いているの視界は、すぐに大きな音を立てて入ってくる電車で掻き消された。





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