丸井と付き合いだして、早二週間。前でのツンとした態度からは百八十度逆転したものであって欲しいとは勿論言わないけれど、そこそこ変化はあったんじゃないだろうか。
 それが、良い意味でなのか悪い意味でなのかは全く解らないのだけれど。
 付き合い始めてから三日、すぐに席替えが行われ、丸井とは当然の如く席が離れた。が中央列の前から三番目。丸井はその隣の列の一番後ろだ。通る列は同じであるため、朝が登校してきた時はそこを通るものの、朝練のある丸井より遅く登校することは一度も無い為、通りすがりに挨拶をすることも出来ずにいる。
 それでも、後ろにあるロッカーに荷物を取りに行こうとする時に話しかけようとは思うのだけれど、そのたびに丸井は示し合わせたように居なくなってしまうのである。
 (酷い事は言わなくなったけど、それ以上に会話すら成立しない……)
 丸井があからさまにを避けているのは、誰が見ても明確だった。後ろの友人と話そうとして振り向いた時ですら、丸井はびくりと肩を震わせて明後日の方向を向いてしまう。これじゃあまるで、二週間前ののようではないか。
 不自然に逸らされた横顔をぼんやりと眺めながら、は小さくため息を落とした。
 付き合った当初にアドレスは交換しており、メールはしている。その時の態度は普通だからこそ、直接顔を合わせた時の変容振りが気に掛かってしまうのだ。
 じっと眺めていても仕方がないので、は上半身を反転させて前に向きなおした。話しかけるタイミングすら見つからない。自然と眉をひそめて唸っていたのか、隣の席で机に伏せていた仁王が緩く顔をあげ、こちらを向いた。

 「……ブン太がああも恥ずかしがりだとは思いもせんかったぜよ」
 「うーん、私も思わなかったよ。付き合ってから、直接話したこと殆ど無いんだよ?」

 同じクラスなのにね。そう言って、は困惑したように息をつく。すると仁王は寝起きでぼうっとした顔のまま、「その内、自覚しよる時が来るけん。気長に待ちんしゃい」とあくび混じりに言うと、そのままもう一度伏してしまった。
 自覚って、とは苦笑した。何のことだかさっぱりわからない、と言いたい所だけれど、該当する事項が一つだけある。
 それは、一週間ほど前から執拗にメールを送ってくる男子生徒のことだった。彼はかなり離れたクラスに属しており、丸井と全く喋らない所為か付き合っている事を知らないようで、にその気があるメールを何通も送ってくる。
 委員会が同じである為、連絡を取れるようにと容易にアドレスを交換したのが悪かったらしい。
 最初はも律儀に返していたが、最近は時間帯も構わず送ってくるため三回に一回、酷いと五回に一回程度の割合でしか返していない。授業中でさえ、暇だとそれだけが綴られた短いメールが送られてくるのだ。
 委員会は月に一度しかない所為か、アドレスを交換してからは顔を合わせてはいない。それに、もし仮に彼がのクラスに来たとすれば、丸井が黙っちゃいないだろう。と言うより、そうであってほしいと言ったところが本音である。
 そうこうしている内にも、ブレザーの中で携帯が震動し始めた。最初は放っておいたのだが、震動時間が長いのに気がついて、慌てて携帯を取り出す。やはり、着信だった。電話番号が表示されているのを見て反射的に通話ボタンを押してしまった為、誰であるか確認するのを忘れてしまった。
 もしもし、と恐る恐る問いかけて返ってきた声色に、はどくんと心臓が嫌な音を立てるのを感じた。ぼんやりとしか思い出せないけれど、例の男子生徒の声に酷似している。
 携帯電話から耳を離し、ディスプレイを覗きこむ。しかし、登録のされていない番号だ。ふと、が赤外線でアドレスを送信したのを思い出した。その時は時間がなく彼からは教えてもらわなかった所為で、の携帯には登録されていないのだろう。

 『もしもし? ちゃん? 古谷だけど』
 「えっ、あ……何?」
 『あのさー、英語の辞書持ってる?』
 「英語の辞書?」
 『そ。4限の英語必要なんだよ。使わないんだったら貸してほしいんだけど』

 立海は校内も広く、たとえ同じ学年だとしてもクラスが離れていればその分の距離がある。辞書や教科書の貸し借りをする際は、前もって携帯に連絡を入れて持っているか否かを確認しなければ、行き来だけでだいぶ時間を食ってしまうのだ。
 は頭をフル回転させて、断る理由を探した。丸井が居る手前、男子生徒には貸したくない。仲の良い友達ならまだしも、自身良く思っていない相手にはなおさらだ。
 けれど、英語の辞書は普段からロッカーに常備しているのが普通。長期休暇明けならばまだしも、こんな中途半端な時期に分厚い英語辞書を忘れることなんて滅多にない筈。もしかして、なんて勘ぐってしまう自分が嫌になって、は無意識のうちにため息をついた。

 『え、何。どうしたの? 何かあった?』
 「ううん、何でもないよ」
 『それでさ、英語の辞書。持ってる? 弟に貸しちゃってんだよ』
 「あ、うん……持ってるけど」
 『マジ? 助かった! じゃ、4限の前に借りに行くわ! じゃ、また後で』

 電話は一方的に切れ、は数秒前の自分を激しく呪いたくなった。何を簡単に頷いてしまっているのだろうか。拒否したい心とは裏腹に、了承の言葉を並べてしまった。
 自己嫌悪しつつ机に伏せると、隣で仁王が立ち上がる気配がした。授業開始には後五分あるから、恐らくトイレだろう。いや、サボり魔として有名な仁王のことだから、世界史なんて屋上で睡眠授業として受けるのかもしれない。
 どっちにしろには関係のないことである。こんなにも4限が来るのを嫌がった日はない。待ち受けが表示された携帯をじっと見つめていると、不意に肩を叩かれた。反射的に振り向くと、そこには英語の辞書を片手に不機嫌そうな表情を浮かべて突っ立っている丸井の姿。
 突然話しかけてきた事に対しての驚きと、もしかして聞いていたのかもしれない、という不安が入り混じった妙な表情を浮かべて、丸井を出迎えることになってしまった。

 「ど、どうしたの」
 「コレ。どの男に貸すんだか知らねーけど、お前の貸す位なら俺の渡せよ」
 「なっ何でそれ知って……」
 「仁王に聞いた。マジ何なんだよお前、何で男に目ェつけられてんの」

 丸井はその場に力なくしゃがみ込んだかと思うと、まるで捨てられた子犬のような瞳でを見やった。完全に自信を無くしてしまったらしい。けれどにはその男子生徒になびく気なんぞさらさら無い訳で、丸井が自信を落とす必要も無いのだ。

 「あの、ありがとう。私には丸井くんが居るし、困ってたんだ」
 「ちょっ……! お前、恥ずかしいこと言うなよ……」
 「は? 恥ずかしい、って」

 は特別恥ずかしい事を言った記憶がなく、きょとんと首を傾げた。恐らく丸井は「私には丸井くんが居る」発言の事を指しているのだろうが、恥ずかしいとは思わない。
 けれど丸井はカアッと頬をピンクに染めて、そっぽを向いてしまった。
 その表情が妙に可愛らしくて、も小さく笑う。こうやって休み時間に他愛のない話をするのすら、には楽しくて仕方がなかった。

 「とりあえず! お前のじゃなくて、俺のやつ渡せよ?」
 「うん。でも、本当に丸井くんの使って良いの?」
 「当たり前だろい。つーか、そいつ来るの何時?」
 「えーとね、4限に使うって言ってたから、多分その前」
 「次の休み時間か……」
 「それがどうかした?」
 「いや、何でもねーよ。じゃあな」
 「あ……うん」

 丸井はすぐに立ち上がったかと思うと、さっさと自分の席へ戻ってしまった。けれどは引きとめる術を持っておらず、ただその後ろ姿を見送るだけに留まった。日常的な話をすれば良い話なのかもしれないけれど、丸井を前にすると何故だか意味ある話題でなければいけないような気がしてくるのだ。
 くだらない話をして、丸井がつまらなそうな表情を浮かべているのを見るのが怖い。
 丸井に渡された辞書を見下ろすと、丁度辞書のパッケージの裏側に名前が書かれているのを見つけた。少しばかり歪な文字で書かれたフルネームを、愛しいと思う。辞書のケースは頻繁に落とすのか角が潰れており、少し捲れている。
 の辞書とは大違いだった。それでも、そんな違いでさえ嬉しく思えてくるのだから、自分は末期なのではないかと思ってしまう。

 「古谷が気づいたら、ちゃんと彼氏のだって言うべきじゃ」
 「に、仁王くん……でも、良いのかなあ? 勝手にそんなこと言うと、丸井くんが怒りそうな気が……」
 「あほ。カップルの癖に何怖気ついちょる。自信持ちんしゃい」
 「はーい。あ、それと、ありがとう仁王くん。丸井くんに教えてくれたんでしょ?」

 いつの間にか席に戻ってきていた仁王に礼を言うと、彼はふるふると首を横に振って薄ら笑みを浮かべた。どうやら、丸井は世話の掛かる弟的存在らしい。


 * * *


 授業が終わって数分が経った頃、教室の前の入り口から「ちゃん」とを呼ぶ声がした。びくり、と肩を震わせて相手を確認する。とは言え、判り切っている事なのだけれど。
 古谷は楽しそうに口端をあげて、がこちらに来るのを待っている。一瞬どうしようか迷ったが、今丸井は一足先に購買へ行ってしまっている。仁王もそれに付き合っているようで、の事情を知っている者は誰一人として残っていないのだ。
 仕方なく、は前もって机の上に出しておいた丸井の辞書を片手に、彼のもとへ駆け寄った。

 「はい、コレ」
 「おう! サンキュ」

 表を上にして渡したにも関わらず、古谷は受け取った直後に引っ繰り返して恐らく誰もが名前を書くだろう場所に目を落とした。そして、怪訝そうに眉をひそめる。その反応は明らかに期待していたものではなかった、と言っているようなもので、は自然と目を伏せていた。
 古谷は辞書を片手に、少しばかり強い口調でに問う。

 「何で丸井のなわけ? ちゃん、持ってるって言ってなかったっけ?」
 「えーと、それは……」
 「そんなん決まってんだろい。俺がこいつの彼氏だからだよ」

 突然真後ろから声が聞こえて、は古谷以上に驚くことになった。丸井の表情を見なくても解る、低く不機嫌そうな声色。
 あろうことか丸井はの肩に手を回し、普段の可愛らしい顔とは打って変わった鋭い目つきで古谷を睨んでいる。は古谷の反応を見るのが怖くて、無意識のうちに俯いていた。俯いた視界に映るのは、古谷と丸井の上履きのみ。二人がどんな顔をしているかなんて、判るはずもない。
 暫くそうしていると、今まで黙りこんでいた古谷がそっと口を開いた。

 「……ちゃん、それ本当?」
 「えっ? あ、うん。私の彼氏、です」

 反射的に顔をあげると、あからさまに眉を寄せた古谷と目が合った。ぴく、と思わず頬が引き攣ってしまったが、は何とか肯定の意を示す。

 「……そっか。解った。他のやつに借りるわ、コレ返す」
 「おー、そうした方が自分の為だぜい」

 古谷は半ば投げつけるように丸井に辞書を渡すと、そのまま踵を返して去っていってしまった。突然の変貌ぶりにはぽかんと口を開けていたが、慌てて丸井を見やる。

 「次、サボんぞ」
 「どっどこで?!」
 「そんなん決まってんだろい、あの場所だよ」

 一瞬解らずに顔をしかめたが、すぐに頷いた。丸井が指している場所は、彼がに告白してくれたあの場所だ。行き方をすっかり忘れてしまって以来行っていないのだけれど、どうやら丸井は頻繁に出入りしているらしい。
 丸井は手にしていた辞書を仁王に向かって放り投げ、きちんと受け取ったかすら確認せずに教室を出た。

 「ほら、行くぜい。……………
 「え……?」
 「んだよ、文句あんのかよ」
 「な、ないです!」

 真っ赤な顔で睨まれて、は笑いを堪えつつも首を横に振った。

 「行こう、ブン太!」
 「……おう」

 授業開始のベルが鳴るまで、残り一分。教室に向かってくる教師とはち合わせない為にも、丸井はの手を掴んで走り始める。真っ赤な髪からちらちらと覗く耳もピンク色に染まっているのを見つけて、は頬を緩めて微笑んだ。
 すぐ斜め前を走る、男にしては華奢な背中を眺めて、は小さく「大好き」と呟いた。




どこまでも赤

100512 雅