「……なあ、ってアレと付き合うてんねやろ?」

 神妙な面持ちで白石が尋ねてきたのは、昼休みも終盤に差し掛かった頃だった。彼の指している『アレ』の方向を向いて、は一度だけ不思議そうに首を傾げた後、頷く。教室の後ろで、丸めたプリントをボール代わりにしつつ簡易野球を行っている男子たちの中に、が付き合っている人間は居た。
 一際目立つ金髪に、大きな声。投げられた紙ボールを箒で打ち上げ、それはそれは楽しそうに笑っている。そんな遊びのどこに楽しさを見い出せるのかは全く理解出来ないが、彼が楽しそうなので良しとしよう。
 は白石の方へ首を戻して、「いきなりどうしたん」と問うた。と忍足が付き合い始めて、早三ヶ月が経っている。今更再確認されるような時でもないし、忍足と一番仲の良い白石ならなおのこと。付き合った当初はあんなにも盛大な祝福をしてくれたと言うのに、白石は一体どうしたのだろうか。
 怪訝そうに眉をひそめているに気付き、白石は苦笑しつつも空いていた前の席に腰を下ろした。

 「この前な、練習終わった後に部活の連中と恋バナしたんや」
 「ふうん。それで?」
 「今んトコ、俺らん中で彼女持ちは謙也だけでな。勿論、話は謙也との話になるわけやろ」

 その言葉に、は頭の中でテニス部のメンバーを思い浮かべる。確かに、考えてみればそうかもしれない。白石は部活に専念したいからと言う理由で告白を断るし、千歳は束縛を酷く嫌がる。一氏と金色のカップルは言わずもがな、だ。小石川や石田は未だ恋愛事に興味が無いようだし、財前に関しては「面倒くさい」の一言で一蹴してしまっている。遠山も現在はテニス以外に関心が向かないようで、昼休みなどの長時間休憩に入るとラケットを片手にテニスコートへ飛び出してしまうらしい。
 別にテニス部のマネージャーを務めているわけでもないが彼らについてこんなにも詳しいのは、忍足と付き合い始めたことが一番の原因である。彼らの中で忍足がどういう格付けなのかは知らないが、何かあるたびに顔を覗かせるのだ。
 そんな彼らの顔を一通り思い浮かべた後、は続きを促すようにもう一度首を傾げる。

 「もう三ヶ月やで? 三ヶ月。それなのに、手も繋いだ事無いっちゅーのはどういう事やねん」
 「それは、謙也がチャリ通だからやろ? 一緒に帰る時は家まで送ってくれるで」
 「はそれでええんか? それじゃあ友達と変わらないやん。キスだってまだなんやろ?」
 「……謙也、どこまで話してんねん。もう諦めてる所もあるんよ。ヘタレやし」

 そう、そこなのだ。二人で帰ったことも、出掛けたことも、三ヶ月も付き合っていれば勿論ある。けれど、恋人らしい雰囲気にはどうやったってなれないのだ。まるで男友達と遊んでいるような感覚に陥ってしまうことだって少なくはない。
 この前も、久しぶりのオフだからと一緒に出掛けたは良いのだけれど、忍足は行きつけのゲームセンターで新記録を出すことに一番集中していた。最早それが当たり前になっている所為か、も文句ひとつ言わずそれを眺めていた。時折、気になっていたキャッチャーゲームに行くことはあったけれど。
 そんな甘い空気の欠片も無いデートの話を、忍足はケロッとした顔で白石たちに話していたらしい。その後、忍足の居ない所で全員が口を揃えて「が不憫すぎる」と言い出したと聞いた時には、流石のも驚いた。
 今の関係に満足しているのかと問われれば、すぐにイエスと答えることは出来ない。自身、忍足が初めて付き合った相手であるが故に、どうすれば良いのか解らない節もある。

 「でもなあ白石、考えてみい。あの謙也やで? 今の関係で充分なんやろ」
 「そんな事あらへん。度胸無いだけで、謙也は先進みたいて思っとるで」
 「……それ、私が聞いてええのん?」

 何とも複雑な気分だった。ちらり、ともう一度後ろを振り向く。相も変わらず箒を振り回して馬鹿笑いをしている忍足の姿をぼんやりと眺めてから、は小さく息を吐いた。白石が言うことが本当なのであれば、さっさと行動に移して欲しいと思うのが正直なところである。

 「今日、テニス部オフやねん。せやから、一緒に帰りいや」
 「そうするわあ……」

 肩を竦めてみせるに、白石は緩く微笑んだ。そして、包帯の巻かれていない方の手をの頭へ伸ばし、頭をやんわりと叩いた。華奢な癖に大きな手のひらは、不思議との心を落ち着かせてくれる。本来、これは彼氏である忍足の役目だと思うのだけれど、今回ばかりは仕方がない。
 黙ってされるがままになっていると、不意に目の前にいる白石の目が見開かれ、頭にあった手のひらの感触が遠のいていくのが解った。不審に思って白石の見ている方向を振り返ると、そこには瞳を細めた忍足の姿。彼は、白石の手首を掴んだまま口を開いた。

 「俺の彼女に何してんねん。白石でもこれはアカンで」
 「お、おー。スマンな。悪気は無いんや、この通り」
 「ったく、次やったら承知せんからな。、お前もちょっとは抵抗しいや」
 「……あっ、ご、ごめん……」

 目の前の光景が信じられぬまま、はぽつりと呟く。こうやって、堂々と嫉妬するような彼を、は知らない。見たことすらない。
 先ほどまで離れたところで簡易野球をしながら笑っていた忍足の影は、どこにもなかった。茫然と見上げるを余所に、忍足は大きく溜息を落として白石の手を離した。そして、今度は自分自身の手をの頭の上へ置く。何度か手を動かして撫でると、何時ものように笑って見せた。

 「しゃあないから、消毒したる」
 「は……え……? ちょ、何、熱に浮かされてん? どないしたん謙也!」
 「はあ? 失礼なやっちゃな。何言うてるん」
 「こういう切欠がないとアカンか……つーか謙也、俺の手を何だと思ってんねん」
 「毒手やろ」
 「アホ、反対の手やボケ」

 白石と忍足のやり取りは耳に入らない。今だ頭の上に置かれっぱなしの手のひらから、じんわりと熱が伝わってくる様な気さえしてくる。それに意識を集中させていると、白石と会話をしていた忍足がその軌道をへ向けた。

 「そうそう、今日テニス部オフやし、一緒に帰ろうや」
 「ええ、けど」
 「いつものゲーセンコースや! 今日こそ新記録出したるでー!」

 楽しそうな声色に、は思わず肩を落とした。忍足謙也は、やはり忍足謙也なのだ。ちらりと白石に目を向ければ、彼はご愁傷様と言わんばかりに同情するような苦笑を浮かべている。そのままアイコンタクトを交わしているとまた忍足に何か言われそうなので、は黙ったまま目を逸らすしかなかった。


 * * *


 放課後、忍足と昇降口にやってきたは、自転車置き場の方向ではなく真っ直ぐ校門の方へ向かおうとする忍足に驚いて足を止めた。彼はそれにすぐ気が付き、肩越しにの方を振り返ってキュッと眉を寄せる。

 「どうしたん?」
 「え、謙也、自転車、は?」
 「あー、今朝パンクしててん。時間無かったし、今日は歩きやで」

 珍しいやろ、と笑ってみせる忍足に、普段通りの笑顔を返せたかどうかは解らない。ただの頭には、昼休みに白石と交わした会話ばかりがぐるぐると回っていた。
 『度胸無いだけで、謙也は先進みたいて思っとるで』
 今日に限って自転車じゃないなんて、もしかして図られたのではないかとさえ思えてくる。今までは自転車の後ろに乗せてもらっていたから何ひとつ疑問に思わなかったけれど、考えてみればこうやって徒歩で下校した事なんて一度もない。

 「何や、どないしたん?」
 「……へ? いや、何も無いよ。ただな、謙也が歩くん速かったらどないしよ思てただけ」
 「アホ、の歩幅に合わせて歩くに決まっとるやろ」
 「そ、そうやんな」

 はは、と乾いた笑いを浮かべるとは裏腹に、忍足は普段と何ら変わらない様子で隣を歩いている。確かに、キチンとの歩幅に合わせて歩いてくれているようだった。その肩には大きなテニスバッグが背負われている。午後の練習はオフでも、朝はしっかり練習しているらしい。
 丁度側の手には何も握られていないし、もスクールバッグを持っている手とは反対である為手を繋ぐことは可能だ。けれど、そこまで意識したくはない。思わず忍足の手に目が行ってしまいそうになるのを必死で抑えて、ふるふると首を振った。

 「、何か可笑しいで?」
 「えっ? な、何もあらへんよ! ほら、ゲーセン行くんやろ?」

 自分の中で、何かが吹っ切れた。気にしていても仕方がない。忍足がすぐに行動に移すとは思えないし、期待するだけ無駄だと考えたのだ。先ほどとは打って変わって無邪気な笑顔を浮かべ、は少し足早に歩き始めた。
 すぐに忍足が追いかけてくる足音と気配を感じて、は無意識のうちに張っていた緊張の糸をゆるゆると解いて行った。

 「そういや、さっき白石と何話してたん?」
 「他愛のない話やで。テニス部の話、聞いてただけ」
 「……テニス部の話?」
 「うん。部活の終わりに、おやつ食べるんやって?」
 「あ、ああ。何やそっちの話か。せやでー、羨ましいやろ」

 一瞬、忍足の顔に動揺が走ったのをは見逃さなかった。けれど、それに気付かぬ振りをして笑顔を崩さないまま頷く。するとその時、後方から物凄い勢いで自転車がやってくるのが見えた。それはの横すれすれを走っていくかと思われたが、瞬時に反応した忍足に手首を掴まれ緩く引っ張られた。
 忍足の肩にとん、とこめかみが当たる。自転車はベルを二度鳴らして通り過ぎて行ったが、明らかに歩道を走っている自転車の方に過失がある。
 が顔をあげると、忍足は険しい顔で自転車の行った方向を眺めていた。後ろ姿だけでは誰かわからないけれど、あの制服は間違いなく四天宝寺のものだ。忍足はいつになく鋭い目線ですっかり見えなくなった自転車の後を見つめる。

 「何やあれ。一言もナシっちゅーのは流石に無いわ。大丈夫か?」
 「う、うん……」
 「アイツ、次会ったらただじゃおかんで」

 も驚いたように茫然としていたが、次の瞬間更なる驚きに肩を跳ねさせることになった。
 手首を掴んでいた忍足の指先がするりと滑り、の指先を絡めとった。大きな手のひらと、少しだけ熱い体温が手のひらを通してに伝わってくる。きゅ、と少しだけ力が込められたその手を、は見ることが出来なかった。
 かといって忍足の顔を見ることも出来ず、黙って指先を忍足のそれに絡ませる。妙な沈黙が、今は酷く愛おしかった。利き手だからか、手のひらには潰れた肉刺の感触。表面も厚く、の手とは大違いだ。
 くん、と小さな力で引っ張られ、は顔を上げた。二歩ほど先に進んでいた忍足が、少し頬を染めて恥ずかしさと達成感の入り混じった複雑な表情を浮かべながらこちらを見ている。

 「ほら、行くで。ゲーセンはナシや。そこら辺ぶらつこ」
 「え、でも、謙也……」
 「ゲーセン行ったら、ゲームに夢中になってまうやろ。今はとおりたい」

 そう言った刹那、忍足はくるりと進行方向へ向き直ってしまった。手を引かれるがまま、も歩みを進めていく。普段なら絶対に有り得ない静寂。どんな日でも楽しそうに話題を出してくる忍足も、今日ばかりはだんまりを続けている。
 運が良いのか悪いのか、四天宝寺の生徒とは一度も出会うことなく、近所の公園までやってきた。普通の四倍以上はあるであろう大きな公園で、ジョギングコースやドッグランも取り入れており、緑も多い場所である。
 忍足はそんな公園の中にあるベンチの一つに腰を下ろすと、漸くの手を離した。知らぬ間に汗ばんでいた手のひらは、久しぶりの外気でひんやりと冷やされていく。
 ベンチに座っても沈黙は変わらず、はぼんやりと近くでボール遊びをしている小学校低学年位の子供たちを眺めていた。すると、たちの方に居た小さな男の子がボールを取り落とし、赤く小さなゴムボールが、ころころと転がっての足下へやってきた。
 それを手にとって、こちらに走ってくる男の子に向かって差し出す。

 「はい、どうぞ」
 「おねえちゃん、ありがとう!」
 「どう致しまして」

 にっこりと笑って、男の子は輪の方へ駆けてゆく。ただボールを投げてそれをキャッチするだけの簡単な遊びだが、子供たちにはそれだけでも十分楽しいらしい。子供特有の高い声色で、絶え間なく笑い声が上がっている。
 暫くすると、子供の母親らしき人たちが名前を呼び、子供たちは一斉に公園の入り口の方へと走って行った。時刻は四時過ぎだけれど、やはり子供は帰る時間が早い。
 それを見送っていると、今まで黙っていた忍足が小さくを呼んだ。反射的に振り向くと、真剣な表情でを見つめている忍足と目が合い、は驚いたように目を見張る。

 「……え、謙也、なに」
 「シッ。もう黙りいや」

 その言葉に大人しく口を閉じてしまう。色素の薄い、切れ長の瞳が真っ直ぐを見据えている。側にあった忍足の手がそっと伸ばされ、横髪をかきあげるように後頭部へ差し込まれた。く、と柔らかく上を向かされて、は何も言わずに目を瞑った。
 目を閉じていても、夕日のオレンジ色が目の淵に色づいている。目の前の空気が動き、忍足の使っている制汗剤の匂いがふんわりと鼻をつつくと同時に、そっと唇に彼のそれが押し当てられたのが解った。柔らかく、少しだけ熱い感触。
 小さな好奇心で、そっと目を開く。閉じられた瞼を縁取る、細い睫毛が見えた。綺麗に染められた金髪が、の前髪と柔らかく絡んでいる。ぼうっとそれを見つめていると、不意に忍足が目を開き、少し離れた。至近距離で合う目線に戸惑ってが目を逸らす前に、そのまま後頭部を引き寄せられた。
 ワイシャツの襟から見える鎖骨に鼻が当たり、忍足の匂いと制汗剤が入り混じった柔らかい匂いがいっぱいに広がってゆく。

 「何で目ェ開けてんねん。恥ずかしいやろ」
 「ご、ごめん」
 「まあええわ。可愛え顔見れたし、許したる」
 「なっ……!?」

 反射的に離れようと身を引くを押さえつけるように、忍足は力を込めた。そして、の肩口に顔を埋める。くすぐったい、と身を捩りそうになるのを堪えて、は忍足の背中にそっと手を回した。普段感じられない、ワイシャツ越しの厚い身体。

 「ホンマ、今日どないしたん……いつもこんなんじゃないやろ」
 「昨日な、白石と話してん。このまんまじゃ、は離れてくでーって言われたわ」
 「……そうなんや」
 「でも俺はと離れたないし、何時までも友達みたいな感じやったらアカンって思ってたけど、なかなか行動に移せなかってん」
 「けど、今日頑張ってくれたやん」
 「めちゃめちゃ精一杯やで、コレ。死ぬほど緊張したっちゅー話や」

 微かに彼の声が震えているのは、指摘しないでおこう。からすれば、今日一日の忍足は誰よりも格好よく見えたのだから。

 「でも、俺はホンマにが好きやから。これからも傍におってくれる、よな?」
 「ははっ、何聞いてんのん。当たり前やろ」

 私だって謙也が好きやもん。そう言っては、彼の首元で頬を緩めて見せた。




100704 雅