「もうさあ、いっその事付き合っちゃいなよ」

 目の前でカフェオレを啜る友人から飛び出した言葉に、はたった今口に入れたばかりのスコーンを喉に詰まらせた。慌てて傍らのアイスティに口をつけ、味わう間も無くスコーンを胃へ流し込む。何度か咳を零した後、は深く眉間に皺を刻んで、ケロッとした表情の友人を見やる。

 「とんでもない爆弾発言をありがとう。あのねえ、付き合うったってアレは普通の男じゃないんだよ?」
 「そう? の前じゃただの男だと思うけどなあ、私は」

 はもう一度スコーンをフォークで割りながら、話題に上る彼を思い出した。高校生である現在でも健在している銀髪。ほんのりと幼さが残っていた顔はすっかり大人びて、今では同い年や年下相手ではなく社会人や大学生相手にその甘いマスクを活用していると噂で耳にしたことがある。
 そんな仁王雅治と、は親しい仲だった。と言っても恋人のような甘い関係では無く、高校一年から三年である現在まで同じクラスと言う驚異的な腐れ縁の所為なのだけれど。男所帯で育ってきた所為かさっぱりした性格のと仁王は相性が良く、友人として二人で出掛けた事も少なくはない。
 この前の週末も気になる映画があるとかで、二人でアクションものの映画を見に行った。その話をひょんな切欠で友人に話した所、返ってきたのは冒頭の台詞である。

 「私の前じゃ? そりゃそうだよ。私の事を男友達としてしか見てないんだから」

 恋愛対象として見る人間の前じゃ、甘い顔で詐欺しまくってるけどね。そう付け加えて、割ったスコーンをもう一度口に運ぶ。今度はほのかな甘みとドライフルーツの酸味を味わうことが出来た。口の中でサクサクと砕けるスコーンを楽しみつつ、もう一度アイスティに手を伸ばそうとした所で、ポケットに入っている携帯が微かな音を立てて震動し始めた。
 だらりと伸びたストラップを引っ張って携帯を引きずり出し、チカチカと点滅しているランプを見てから、小さく首を傾げる。
 深い青色に光るランプ。これは、仁王専用のランプだった。基本的に携帯に無頓着なは、メールも電話も気がつかない事が多い。教室以外の場所に居ることが多い仁王は、サボりの誘いに良くメールを送ってくるのだけれど、が何時間も気付かずにいた事に呆れ、自分のメールはすぐに気付くようにとランプと着信メロディを変更させたのだ。
 とは言っても、この時間帯にメールを送ってくる事自体珍しかった。今は確か部活動の時間だし、送るならいつも九時過ぎ辺りである。

 「ごめん、ちょっとメール返信して良い?」
 「いーよ。どうせ仁王でしょ?」
 「はは……まあね」

 こうやって友人と遊んでいる時、は幾らメールに気付いても返信はしない。けれど、仁王だけは違う。どんなメールの内容でも、何故だかキチンと返すように習慣づいてしまったのだ。鋭い指摘に乾いた笑いを返しつつ、キーを操作してメールを開く。
 『コート整備で部活終わった。今暇?』
 簡潔な内容に、は一言『友達と遊んでる』とだけ返信した。仁王とのメールには、絵文字も何も必要ないのだ。女友達とのメールであれば必然的に使う絵文字も顔文字も、彼とのメールには一切出てこない。最近では句読点すら省いてしまう始末。
 携帯を閉じると、それを見計らって友人が尋ねてきた。

 「何だって?」
 「コート整備があるからって、部活早く終わったらしいよ。で、今暇? って」
 「全力で暇じゃないの」
 「え? ちょっと待って、今私たち何してる? 遊んでるよね?」
 「暇と言う名の語らいでしょ?」

 が仁王の所行ったら、私も彼氏に会えるんだけどな。そう言って、友人はニヒルな笑みを浮かべた。何を隠そう、彼女は立海男子テニス部部長、幸村精市と付き合っている。部活が早く終わったイコール、彼女もまた愛しい恋人と会うことが出来るのだ。
 丁度、も最後の一口となったスコーンを口に入れた所。アイスティだって残り三センチ程度しか残っていないし、友人のカフェオレは数分前から既に空だ。が引き攣った笑いを送ると、友人もまた満面の笑みを返してきた。

 「今すぐ訂正メール送ってみよう。『私も暇なの! 仁王に会いたいな!』って」
 「……性格、幸村くんに似てきたんじゃないの」

 げんなりした様子で、は閉じたばかりの携帯を開いた。まだ仁王からの返信は無かったので、急いで新規メールを作成する。彼女の言った言葉をそのまま使用するつもりはないけれど、『友達も彼氏に会いに行くって言うから暇になった』と打ち込み、送信ボタンを押した。
 しかし、強豪と言うだけあってテニス部のオフ日は一ヶ月に二回しかない上、平日の練習も閉門ぎりぎりまでやっているおかげで、彼らと恋人関係にある女子生徒達は大層不憫な思いをしているのだ。も目の前に居る友人から話を聞いているからこそ、彼女の申し出もすんなり受け入れたのである。
 アイスティを飲み干してから、トレイをゴミ箱へ持っていく為席を立つ。友人と肩を並べて店の入り口を出たところで、見知った影が二つ見えるのに気が付いた。

 「の居る場所はお見通しってか」
 「それを言うならあーちゃんもでしょ? 思考は同じだったみたいね」

 学校の最寄り駅中にあるカフェに居たのだから予測するのは安易なものなのだけれど、まさか仁王と幸村が二人で来るとは思わなかったのだ。カフェに来てから友人が携帯を弄ったことはなかったし、幸村自身も友人に部活が早く終わった旨を伝えていない筈。
 それでもこうして仁王と一緒に来ると言うことは、と一緒にこのカフェに居ると推測したからなのである。
 達が彼らの存在に気付いたと同時に、向こうも気が付いたらしい。肩に背負われた大きなバッグと目立つ髪色を引っ下げて、仁王は緩慢な動作で片手をあげて見せた。

 「随分早いね。結構前に終わってたの?」
 「急遽コート整備が入ったけん、終わったっちゅーより部活自体無かった」
 「え、でもそれにしちゃあ遅くない?」

 はくっと眉をひそめて、腕時計に目線を落とした。五時半。部活開始時刻である四時から、一時間半も経過している。にとってこれは素朴な疑問だったのだけれど、何故だか仁王は苦虫を噛み潰したように渋い表情を浮かべ、隣で話を聞いていた幸村は清々しい笑みを浮かべた。
 全く対照的な表情の二人には首を捻ったが、すぐに口を閉じる。仁王がこういった表情を見せる時は、立ち入って欲しくない領域であることを物語っているからだ。素直に話題を変えようとするに、幸村はくつくつと喉を鳴らして笑った。

 「彩華に聞いた通りだね」
 「でしょ? 私たちもさっきまでその話してたんだよ」
 「……何の話?」
 「えーから行くぜよ。別でええじゃろ? カップルに水差したくないしのう」
 「あ、うん。じゃあ又明日ね、あーちゃん、幸村くん」

 意味有り気に笑う二人に手を振り、は先に歩き出してしまった仁王の後ろをついていく。どこに行くのか、なんて愚問である。進んで人ごみに出たがらない彼が最も好んでいる場所、それは仁王自身の家。高校生に上がってから近くで一人暮らしをしている所為か、更に家への執着が高まったらしい。
 最初連れて来られた時は戸惑っていたも、今では下手に動くよりは仁王の部屋でのんびりしていた方が良いとさえ思っている。一見何も物が無いように想像できる彼の家だが、実は丸井や切原がゲーム機だの何だのを持ち込んでいる所為で、結構賑やかな室内になっていた。
 高校生にもなると夜遊びが激しくなるのか、丸井に至っては部活の後にそのまま仁王の家へ寄って一泊、なんて事も少なくないらしい。
 駅から十五分歩いた所にあるアパートが、仁王の家だった。学生向けのワンルームアパート。ルームキーを差し込んで扉を開け、半歩後ろに立っていたを招き入れる。仁王が好んでつけている香水の香りと洗剤の匂いが漂うこの部屋には、も数えきれない位出入りをしていた。
 の定位置であるベッドに座って壁に寄り掛かり、傍らに放置されたテニス雑誌をペラペラと捲る。仁王はテニスバッグを部屋の隅に置くと、キッチンの冷蔵庫の前でしゃがみ込んでいた。バコン、と冷蔵庫が開くと同時に、仁王がこちらに目線を寄越す。

 「何飲む?」
 「んー、今は良い。さっき飲んできたばっかりだし」
 「そおけ。そういや、が聞きたい言うとったCD、丸井に借りたぜよ」
 「ホント? どこ?」
 「ラックん中。袋に入っちょるけんすぐわかる」
 「あ、あったあった。聞いて良い?」
 「良かよ」

 部屋の中でも一際目立つオーディオラックの中から目当ての物を探し出し、隣にあったオーディオ機器にセットして再生ボタンを押すと、が前々から聞きたがっていた曲が流れ始めた。すっかりお気に入りと化した青いクッションを抱きながら、ベッドの弾力に身を委ねる。
 が目の前に居ると言うのに、仁王は気だるそうにブレザーを脱ぎ、ネクタイを緩め始めた。布擦れの音が聞こえ、ワイシャツのボタンが外されていく。けれどはそれらに目を向けることはなく、適当に開かれたテニス雑誌に目を落としながら「そう言えば」と口火を切った。

 「あーちゃんに、いっその事付き合えよってさっき言われたんだよね」
 「……へえ」

 ボタンを外す仁王の手が一瞬止まったことに、雑誌を見ていたは気がつかなかった。クッションを手にしていない方の手でページをめくりながら、なおも話を続けていく。

 「何を今更って感じ。私が仁王を好きになった時点で切り捨てられるの解ってるのに、付き合うとか無いって」
 「どういう意味じゃ?」
 「仁王って、自分を好きな女の子とは絶対に関わらないじゃない。今までも何人か仲良い女の子は居たけど、その子達に好かれてるって悟った時点で関係切ったの知ってるよ」

 過去にも、仁王と仲の良い女子生徒は何人か居た。のように仁王から何かに誘われ、こうやって家に呼ばれていたのかは知らないけれど、仁王が警戒せずに受け入れていたのはもよく知っている。けれど、彼女たちが仁王に好意を寄せた時点で、仁王はすぐさま関係を切った。
 好きになったら最後なのだ。それを目の前でまざまざと見せつけられたお陰で、の中で彼に対する恋心は全く成長しないのである。

 「仁王だって、私を恋愛対象で見てないでしょ? でもあーちゃん、それを解ってくれないんだよねえ」

 幸村くんだってあの調子だし、男女間の友情が成立しない派なのかなあ。最後の方は殆ど独り言に近かった。耳に入ってくる落ち着いた男性ヴォーカルの声と、視界いっぱいに埋め尽くすプロプレイヤーのインタビュー記事が、の思考を邪魔する。
 自身、伝えたいという意思が弱かったお陰で、この話題は尻すぼみに消えていくかと思った、その時だった。曲が間奏に入ると同時に、着替えの為開きっ放しだったクローゼットが音を立てて閉まった。普段なら気にすることのない日常音である筈なのに、は何故か反射的に振り返る。
 鋭い目つきでを見ている仁王と、目が、合った。途端、の喉の奥がひくりと痙攣したように動かなくなった。焦げ茶色のクローゼットの扉に手をかけ、ワイシャツの中に着ていたらしい黒いタンクトップのまま、仁王はじっとを見つめていた。
 あまりの居心地の悪さに、は崩していた体制を戻す。掴んでいるクッションに力を入れながら、どうにか声を絞り出した。

 「にお、どしたの……? か、風邪、ひくよ」
 「違う」
 「え……何、が」
 「恋愛対象で見てない? そんなん、誰が言った?」
 「ちょ、お、仁王?」

 感情のこもっていない声を聞いて、背筋に冷たいものが走った。機嫌が悪い時とはまた違う、不確かな感情。クッションを抱いたまま、は後ろへ後退ろうとした。けれど、真後ろの壁が邪魔でこれ以上後ろに行くことは出来ない。
 そんなを見下ろしたまま、仁王は右手に掴んでいたスウェットを放り投げてこちらに近づいてくる。ベッドに片足を乗り上げたところで、壁に追いやられたまま目を見開いて硬直しているの両サイドに腕を立てた。目の前に現れた仁王の顔に、は自然と胸が高鳴るのを感じた。顔立ちは、もともと好みの顔をしているのだ。
 けれど、今はそうやって呑気にしている場合では無い。頬が引き攣って、不自然な笑みを浮かべる。

 「は鈍感じゃのう? 昔俺と仲良うしとった女とお前さんとには、決定的な違いがあるんじゃが」
 「え、え……何、それ。わかん、ないよ」

 さり気無く名前を呼ばれた事に気付くことが出来ない程、は混乱していた。眉をひそめて、か細い声で問う。仁王は無表情だったその顔に薄らと笑みを浮かべた。

 「あいつ等は、同時に複数と仲良くしとった。でも、今は違う。とだけじゃ」
 「……」
 「俺からメールする事だって無かったし、誘った事も家に入れた事だって無か」
 「け、けど」
 「俺にはしか居らん。薄々気づいとったじゃろ? 幸村の彼女に気付かれる位、あからさまだったけん」

 その可能性を、考えていないわけではなかった。考えた事は少なからずあったし、彩華のように指摘してくる友人もいた。その度、持ちあがる仮説を否定していたのだけれど、心のどこかでは完全に否定していない部分もあった。仁王が、意味もなく一人の女と仲良くするなんて今まで無い事だったからだ。
 しかし、仁王は発展を望んでいたようには見えなかったし、自身も今の関係が心地よかったので何も言わずにいたのだ。

 「今日、部活無かったのに遅かったんは、幸村とその話をしてたからじゃ」
 「その話、って」
 「の話。いつまでもぬるま湯に浸かってちゃいかんけえの」

 やっと、仁王の声色が元に戻る。その事に安堵しつつ、至近距離に見える仁王の目を見た。普段あまり見ることのない、真剣な瞳。

 「が好き。他の女は考えられん位、お前さんを好いとう」

 何故だろうか。長年に蓋をして閉じ込めていた想いが爆発したのかは解らないけれど、目の前で真剣に想いを伝えてくるこの男が愛しくて仕方がないのだ。家に居る時にはくくらない無造作に流れた髪の毛も、色素の薄い金茶色の瞳も。は、無意識のままに両腕をそっと伸ばし、仁王の首に巻きつけた。
 香水の匂いが一層強くなる。彼のなめらかな肌を、擦り寄せた頬で体感した。

 「友達としてとか、恋人としてとか、よく解かんない。けど、仁王とは一緒にいたい」
 「……ほんまか?」
 「私が仁王に嘘なんてつくと思う? 見破られるの解ってるのに」

 くすくす、と音を立てて笑うと、壁から数十センチ離れたの背中に、仁王の腕が回った。恐る恐る込められた力は、まるで腫れものを扱っているかのようだった。

 「これって、仁王が私の彼氏、って事になるのかなあ」
 「気持ちが定まってからで良か。が俺をしゃんと好きって言えるようになったら、な」
 「うん」
 「でも、もうちょいこのまんまで居らせて?」
 「うん」

 男にしては白い鎖骨に頬を寄せて、は黙って目を閉じた。





100801 雅