君色デイズ 最後のテストをさっさと済ませ、テスト開始後三十分過ぎに退出すると、は大きく背伸びをした。腕時計に目を落として、頬を緩める。今から買い物して帰れば、八時前には家に着くだろう。そう思って肩に掛かったバッグから携帯を取り出そうとして、止めた。恐らく電話をしたところで、彼は出てくれない。 連日徹夜しているとメールで言っていたし、テストが終わった今は家のベッドで夢の中に違いない。その深い眠りをわざわざ遮るような事はしたくなかった。 (晩御飯は何にしようかな) 最近はテスト漬けで料理を作るのすら億劫だったから、冷蔵庫の中には殆ど物が入っていない。ずっとコンビニ弁当に頼りっぱなしだったのだ。睡眠時間も充分に取っていない所為で、心なしか肌の調子だって悪い。ファンデーションの塗られた頬を触りながら、足早に校門を目指した。 の住むマンションは、大学の最寄駅から七つ行った駅の近くにある。近くには常に安値を維持するスーパーだってあるし、デパートやコンビニもある、利便性が高い場所だ。頻繁に利用している駅からすぐのスーパーに立ち寄って、晩御飯のメニューを思案しながら野菜を見ていく。 人参と玉ねぎが安かったから、今日のメニューはビーフシチューで決まりだ。家に帰れば、腹を空かした子犬が一匹、の帰りを今か今かと待ち侘びているだろう。その姿が容易に想像出来て、は口元がにやけるのを抑えることが出来なかった。 会計を済ませて、だいぶ下まで落ちた夕焼けに照らされる駅前に出る。ここから歩いて十分。見えてきたマンションの明るい窓を見やると、の住んでいる部屋は煌々と光っていた。のんびり歩いていた足を少しだけ早めて、マンションのメインフロアに入り、すぐ近くのポストを確認してから、部屋のある三階を目指す。定期入れから鍵を取り出して、解錠する。 ガチャ、と音を立てて開くドアに反応するかのように、部屋の奥に置かれたソファから見える金髪が、ちらりと動いた。くるりと首を動かしてこちらを見たかと思うと、一年前から同棲を始めた忍足謙也は嬉しそうに笑ってみせた。 「おかえり。えらい久しぶりやなあ」 「ただいまー。久しぶりだねえ、かれこれ二週間位会ってなかったもんね」 「おん。テストどうやった?」 「まあまあ、かな。一応フル単取れるとは思うけど」 忍足の通っている大学へもここから八駅程離れた場所にある所為で、彼はテスト期間中、大学のすぐ近くに住んでいる友人の家へ泊まり込む。最後のテストを終えるまで、友人の家で半ば徹夜しながら過ごすのだ。は変わらずこの家でテスト期間を過ごしていたけれど、その期間が終わった今、忍足と会うのはほぼ二週間振りなのである。 買い物袋をガサガサ言わせながらリビングへ入ると、既に部屋着に着替えていた忍足がソファから立ち上がり、こちらへやってきた。狭くはないキッチンだけれど、こうして二人並ぶとどこか窮屈なようにも思える。買ってきたものを冷蔵庫にしまいながら、晩御飯に使う材料だけを取り出していく。 「そういや、夏休みは何か予定入ってるん?」 「ちょこちょこ入ってるよ。でも、一回大阪戻りたいなあ。テニス部で同窓会やるでしょ?」 「お、よう解ったな。一昨日位に白石からメール来ててん。一度集まろーっちゅーて」 「流石白石。上京したのって、結局私たちだけだったもんね」 中学高校と青春時代を共にした戦友達の中で上京したのは、大学は違えど、と忍足のみ。残りのメンバーは大阪ではなくとも関西の大学に進んでおり、二人共上京してからは彼らと一度も会っていなかった。長期休暇に実家へ帰る位はしていたものの、課題が溜まっていたり大学の友人との予定が入っていたりとで、長居出来なかったのだ。 それに、忍足が所属する医学部が予想以上に忙しく、空いた日は慣れない身体を休めるのに精一杯なのである。 もう丸一年会っていない彼らの顔を思い浮かべながら、は野菜を一口大に刻んでいく。その隣では、最初は戸惑っていたものの、今ではすっかり慣れてしまった手つきで米を磨ぐ忍足の姿。ここ二週間、彼の姿を見ていなかった所為か、妙に新鮮さを感じる。 「ねー謙也」 「ん?」 「私ね、今凄い幸せ」 「何や急に。どないしたん」 「別にー?」 隣に愛する人がいる幸せ。不意に、それを今実感したのだ。不思議そうな表情で覗き込んでくる忍足に、は緩んだ頬を隠さぬまま首を横に振った。彼は何やねん、と眉をひそめていたけれど、その顔が笑っているのをは知っている。彼は解らないふりをしているだけなのだ。が何故唐突にそんなことを言いだしたのか、長年付き合っている彼はすぐに解る筈だから。 今にも鼻歌が聞こえてきそうな程上機嫌で米を磨ぐ忍足の横で、は彼にバレないよう、そっと笑みを深めた。 * * * 髪を乾かし終えると同時に、脱衣所へ繋がる引き戸が開いた。高校の頃のハーフパンツにタンクトップと言ったラフな格好で、タオルを頭に掛けた忍足の姿を見て、は思わず眉を顰める。基本的に髪を乾かすのを面倒臭がる忍足の首筋は、充分水分の拭きとれていない髪からぽたりと流れ落ちる雫で濡れていた。 二週間と一緒に居なかったから、恐らく昔の癖が出てしまったのだろう。のそんな目線にも気付かず、忍足はソファに腰掛けてテレビを点ける。 「謙也、髪ちゃんと拭いてってば」 「すまんすまん。だってメンドイねんもん、やってや」 「そうやってまた人に頼むんだから」 仕方ないなあ、なんて口ぶりで言ってはみるけれど、はこうして忍足の髪を乾かすのが好きだった。見かけによらず柔らかい髪質だったり、定期的に染められている所為か地毛の色が全く出ていない金色の髪は、昔から変わっていない。立ち上がって忍足の後ろへ回ると、少しだけ癖の入った髪をタオルで拭いていく。 「そういや、新しいバイト決めたん?」 「うん。夏休みの間だけだけど、塾講をね」 「大阪帰る時間、ないんとちゃう?」 「大丈夫だよ。一週間程度は空けてあるし、久しぶりに皆とも会いたいしね」 「相変わらず忙しい生活しとんなあ。医学部の俺より忙しそうや」 「謙也が何するにも速いから、そう思うだけじゃない? この前、レポート一時間で終わらせたでしょ」 「あーいうのは適当でええんやって。受講人数多いし、センセも深く読んでへんやろ」 ドライヤーのスイッチを入れて、短い髪に満遍なく温風を当てる。 忍足は何をするにも仕事が早いから、周りの生徒よりも一見すると忙しそうには見えないのだ。テスト期間に入ると課せられる数々のレポートも、ものの数時間で仕上げてしまう。その代わり仕上げる時間帯を気にしないので、深夜に徹夜で行う事もあった。その所為で、最近はパソコンに向かう度、軽い度の入った眼鏡を掛けている。 最初その姿を見た時は酷く驚いたものだ。あんなにも視力が良いことを自慢していた忍足が、まさか度入りの眼鏡を掛ける日が来るなんて思わなかったからである。 「せや、明日買い物付き合ってくれへん? 買いたいモンがあんねん」 「……? 珍しいね。謙也が買い物付き合え、なんて」 比較的のんびりと買い物をすると、いくら自分の買い物でもさっさと済ませてしまう忍足とでは、買い物に要する時間に酷い差があるのだ。だから、お互い日用品や洋服を買う事があっても、一緒に買い物に行くことは少ない。もし行くならスーパー程度で、それに忍足から誘ってくる事は滅多に無かった。 買い物している所を見られるのに、妙な恥ずかしさがあるらしい。としては彼の好みを確認するいい機会だとは思うのだけれど、忍足があんまりにも浮かない顔をするので、最近では一緒に買い物をすることなんて殆ど無くなっていた。 少しだけ驚いたように言うの方へ、忍足はくるりと振りかえる。意外にもその表情は険しく、は更に驚くことになった。 「まさか、忘れたーなんて言わんやろな?」 「え……嘘、なんかあったっけ?」 「ホンマに言うとるん? 明後日、の誕生日やろ。せやから、プレゼント買いに行くんや」 「明後日……そうだっけ……うわー、すっかり忘れてた」 「そんな事やろうと思ったわ。自分の誕生日忘れるとか、も老けたんとちゃう?」 「失礼な! テストが忙しくて、日付感覚無かっただけよ。でも、やっぱり珍しい。謙也だったら、さっさと買ってきちゃう人でしょ」 「がおらんと意味ないねん」 「私がいないと……? あー、何、ご飯でも奢ってくれるの?」 大して考えもせずに言うと、ドライヤーの音に混じって忍足が大げさに溜め息を吐いたのが聞こえた。こいつホンマのアホや、なんて内心の声が聞こえてくるようで、は拗ねた振りをするように唇を尖らせて見せた。考え直してみても、他にはこれと言ったものが出てこないのだ。 すっかり乾いた金髪が指からするりと逃げていくのを確認してから、はドライヤーのスイッチを切った。忍足が振り向く。 「さ、明日は早いで。今日は疲れとるやろうし、さっさと寝ようや」 「え、教えてくれないの?」 「プレゼントやで? 事前に教えたら楽しみがなくなるやろ」 「それもそっか。じゃ、先行ってて。私ドライヤー片付けてから行くから」 「おん」 忍足がベッドルームに向かうのを横目に、はドライヤーのコードを本体へくるくる巻きつけて、洗面所へ向かった。三面鏡の裏にドライヤーをしまうと、戸締りを確認してから、忍足のいるベッドルームへ足を向ける。六畳の部屋に、ダブルベッドがひとつ。他に大きい家具は置いていないけれど、ベッドサイドにごちゃごちゃと小物が置かれている。 寝る前にが読んでいる本だとか、寝れない時に忍足が聞いているアイポッドだとか、寝る前の娯楽用品が置きっ放しにされているのだ。 忍足はベッドに転がったまま、携帯をいじっていた。もうエアコンを入れているらしく、風が送られてくる微かな音が響いている。は彼の隣に腰を下ろして、ベッドサイドのリモコンを手に取った。 「もう消す?」 「ん、ええよ」 部屋の明かりを深いオレンジ色に設定すると、そのまま薄いタオルケットにもぐりこんだ。忍足も携帯を閉じ、に向かって手を伸ばす。 「抱きまくら」 「暑い」 「クーラーつけたやろ」 「はいはい」 暗闇の中、忍足の腕の中に自分を押しこんで、は目を閉じた。同じシャンプーの香りと、いつでも安心させてくれる厚い胸板が、いとも簡単に眠りの世界へとを誘っていく。忍足の腕が背中に回されて、軽く力を込められる。その胸元に顔を埋めると、の意識はだんだん奥深くへと落ちて行った。 「おやすみ、」 聞き慣れた少し低い声が、遠くの方に聞こえた気がした。 * * * 次の日、の指のサイズを知らなかった忍足とペアリングを購入したのは、また別の話。 100819 雅
よねだ様へ |