リビングの扉を開けるなり漂ってきた甘い香りに、仁王は鼻を覆った。入って真正面にあるオープンキッチンで、母親の百合子が機嫌良く鼻歌を歌っているのが見える。自分の部屋に行く前に喉を潤したいとリビングに寄ってみたは良いものの、この甘い香りに微かな不快感を覚えてしまい、仁王は内心溜め息をついた。
 百合子がこうしてお菓子を作ることは良くある事だけれど、毎回無意味に作っているわけじゃあなかった。何か祝い事があった時、こうやって腕を奮って作るのである。仁王の姉が内定を貰った時には大きなホールケーキを焼いていたし、仁王が全国大会を優勝すれば、余り甘いものが好きではない仁王の為にゼリーを作ったりもした。
 けれど、今回仁王には特に心当たりがなかった。社会人になると同時に家を出て行った姉から朗報は届いていないし、父親や弟に何かがあっても、仁王と同じく甘いものが好きではないので、こういった甘い匂いはしない筈。首を傾げつつキッチンのすぐ入口にある冷蔵庫まで向かうと、百合子は今気が付いたとばかりに仁王の方を見やった。
 その口元には少しだけ厭な笑みが浮かんでいて、冷蔵庫内からスポーツドリンクを取り出した仁王は、頬を引きつらせながらもキャップを開けようとした、その時だった。

 「ちょうど良かったわ。もうちょっとでクッキーが焼けるから、さん家に持って行ってちょうだい」
 「……はあ? 向かいの?」

 キャップに込めた力を緩めて、仁王は眉をひそめる。仁王家の真向かいに建っている、赤い屋根の家。仁王が小学四年生の頃ここに引っ越してきた時から近所付き合いのある、言わば家族ぐるみで仲の良かった家である。そこには仁王より五つ年上の女の子が居て、昔は良く世話になったものだ。名前はと言って、仁王の初恋の人でもあった。
 は高校生まであの家に居たものの、大学生になって一人暮らしを始めたらしく、彼女が愛用していたバイクと共に居なくなってしまっていた。とは言っても、仁王が中学に入ってテニスに集中し始めると共に、彼女の家との交流は一気に少なくなっていて、とは彼是三年は会っていない。彼女も大学受験があり、あまり暇が無かったのだ。
 記憶が正しければ、彼女は今大学二年生になっている筈。冷えたスポーツドリンクに口をつけた仁王に、百合子は嬉しそうに笑って頷いた。

 「ちゃん、今帰ってきてるのよ」
 「ちゃんが?」
 「去年は忙しくて帰って来れなかったみたいなんだけど、今年は夏休みいっぱい実家に居るんだって」

 だからクッキー焼いたのよ、と百合子は笑う。確かに記憶にあるは甘いものが好きだし、百合子の作るお菓子を大層好んでいた。ふと、最後に見たと思わしきの姿を思い返す。
 あれは、仁王が中学に入る前だっただろうか。駅前で見かけた彼女は、高校のものと思わしき制服を着ていて、隣にいた男と楽しそうに談笑していた。が満面の笑みを浮かべているのを見て、酷い悲しみを覚えた記憶がある。幼いながらに失恋を確信して、仁王は中学に入ると同時に髪の毛を銀色に染めたのである。あんな男ではなく、仁王自身に目を向けて貰おうと、あの時は幼いながらに必死だったのだ。結局、三年生だった彼女は受験に忙しく、一回も会う事はなかったのだけれど。
 懐かしい思い出に、仁王は知らずと口元が緩んでいたらしい。百合子は声に出してからからと笑うと、焼けたばかりのクッキーが入ったバケットを仁王に手渡した。

 「はい、行ってきてね」
 「……今から?」
 「当たり前よ。美和子ちゃんに雅治が行くこと伝えたら雅治の分も晩ご飯も作っておくって言ってたから、久しぶりにご馳走になってきなさい」
 「何年振りに会うと思っとるん? 普通に考えて気まずいじゃろ」
 「アンタも気まずいなんて思うの? 良いからさっさと行きなさい」

 百合子は有無を言わさない態度で仁王の肩からテニスバッグを下ろすと、そのまま玄関に向けて背中を押した。こうなったらきっと百合子は引き下がらないだろうし、家が仁王の分の晩ご飯を作っていると聞いた彼女の事だから、きっと仁王家では用意されないだろう。背に腹は変えられない。練習後で空腹なのは事実なのだ。
 最後の抵抗として大きな溜め息を落としてみても、キッチンに戻っていた百合子は肩を竦めるだけだった。たった今通ったばかりの廊下を進んで、適当に脱いだローファーに足を突っ込む。玄関を出れば、もう目の前に赤い屋根が見える。可愛らしい装飾のされた表札も、手入れの行き届いているガーデニングも、昔と何ひとつ変わっていない。
 毎日ここを通っている筈なのに、知らずと視界に入れていなかったらしく、妙な新鮮味を感じる。表札のすぐ下にあるインターフォンを押すと、の母親である美和子の穏やかな声と共に、ワン、と聞き慣れない鳴き声が聞こえた。
 (……犬?)
 犬なんて飼っていただろうか、と考える間もなく玄関の扉が開けられ、昔よりも少しだけ年を取ったように見える美和子が顔を出した。

 「あらー雅治くん久しぶりね! さ、上がってちょうだい!」
 「お久しぶりです。お邪魔します」

 懐かしい家の匂い。玄関を入ってすぐにある階段の位置や、リビングの透かしガラスから見えるソファ。本当に久しぶりに来たのだけれど、この家の中は忘れていなかったらしい。美和子がリビングの扉を開けるなり飛び出すように出てきたのは、可愛らしいミニチュアダックスだった。鈴のついた赤い首輪が、クリーム色の毛に良く似合っている。
 美和子は膝にじゃれついてくるその犬を抱き上げると、仁王の方へ振り返った。

 「一人暮らしする時にね、お父さんが寂しくないようにって、が買ってきたの」
 「この犬を?」
 「そう。高校はバイト漬けだったのは、この為らしくってね」

 笑っちゃうでしょう、と美和子は眉尻を下げて微笑んだ。東京の大学に行ったらしいからここからそう遠くはないし、まして結婚したわけではないのに、こうして身代わりを置いていかれると言うのは何とも寂しい気持ちなのだと、美和子は付け加える。
 仁王は曖昧に笑うしかなかった。仁王も今、美和子と似た気持ちを抱いていた。まるでこの犬の代わりにが遠くへ行ってしまうような、そんな気がしたのだ。
 そんな気持ちを振り切るように、仁王は手にしていたバケットを美和子に差し出した。彼女は目を丸くした後嬉しそうに笑って、犬を抱き上げたまま二階を指差した。

 「直接の所へ持って行ってくれる? 多分、あの子ベランダに居ると思うから」
 「ベランダ、ですか」
 「あの子もそういう年になったのよ」

 美和子はひらひらと手を振ると、そのままリビングに消えてしまった。その場に取り残された仁王は、階段の下から上を見上げた。物音はしない。美和子はベランダに居ると言っていたけれど、仁王にはさっぱり見当が付かなかった。ベランダがあるのはの使っていた部屋ではないし、特別景色が綺麗なわけでもなかったからだ。
 余り足音を立てないようにそろそろと階段を上って、仁王が記憶しているベランダのある部屋の扉を開けると、右側にあるベランダの奥で、影が動いた。両親の部屋として使われているらしいこの部屋には誰もおらず、窓も閉め切られている。恐る恐る閉められたレースのカーテンを開くと、一枚のガラス越しに、驚いた顔をして振り向いたと目が合った。
 室内の光に照らされたの髪は焦げ茶色で、最後に見た時よりも酷く大人っぽくなっていた。彼女の横には父親のものと思わしき灰皿が置かれていて、彼女自身も火のついた煙草を手にしている。美和子が言っていたのはこの事だったのか、と仁王は漸く納得した。
 は茫然と目を見開いたまま微動だにしなかったが、不意に仁王とを隔てていたガラス窓をガラリと開いた。そして仁王の顔をまじまじと見るなり、口元を押さえる。

 「ちょっ、ちょっと待って、銀色……?」
 「え? あ、ああ」

 バケットを持っていない手で、己の髪に触れる。何度も何度も脱色を繰り返して傷んだ髪。それでも仁王の姉が口うるさく美容に関して言ってくるお陰で、本来の傷みよりは随分とマシなものである。中学に入ってからずっとこの髪色を維持してきたからか、仁王にはの反応が新鮮でならなかった。今の知り合いは皆、この髪色が当たり前だと思っているのだから。
 は怖いものでも見るかのように仁王の髪を眺めていたが、不意にふっと頬を緩めると、柔らかく笑った。

 「久しぶり。元気にしてた?」
 「おう。ちゃんも、元気そうじゃね」
 「もちろん。あ、ねえ、ちょっと私の部屋来て」

 彼女はまだ長い煙草を灰皿に押しつけると、それを手に室内へ戻ってきた。ふんわりと香るシトラスと、それに微かに混じった紫煙の匂い。仁王の姉もまた吸っていたけれど、またそれとは違う香りが、を包んでいる。は仁王の横を通り過ぎると、灰皿をサイドテーブルに置いて、こちらを振り向いた。大人びているのに、身長は縮んだような気がする。とは言ってもきっと、仁王の身長が伸びただけなのだろう。
 の部屋は、彼女がこの家を出た時のままらしかった。本棚には彼女が好んで読んでいる推理小説の他に、受験勉強に使ったと思われる赤本や参考書がたくさん詰まっている。それでもコンポなんかは持って行ったらしく、昔よりは少しばかり物が少ないようにも感じられる。部屋の入り口にはキャリーケースが置かれていて、つい最近帰ってきたばかりなのだと知った。
 は部屋に入るなり、赤い光沢のあるキャリーケースを開けると、何やら探し始めた。それはすぐに見つかったらしい。彼女が取り出したのは、小さな箱だった。

 「あったあった。これね、雅治に似合うと思って買っておいたの。帰ってきた時に渡そうと思って」

 それはネックレスだった。真ん中に透き通ったシアンの石が埋め込まれ、周りをシルバーで装飾されたシンプルなもの。けれど一目見るだけで、そこらの雑貨屋に売っているようなものではないと解った。入れられているケースだってそうだし、装飾も酷く凝っている。
 はい、と差し出してくるを、仁王は戸惑った表情で見返した。果たしてこれを受け取って良いのかどうか解らなかったのだ。はきょとんとした顔で瞬きをひとつふたつすると、納得したように声をあげてから、可笑しそうに笑う。

 「昔は何でも喜んで受け取ってたのにな」
 「俺も成長しとるけん。こんな高価なモン、ほいほい受け取れるわけなかろ」
 「って言われても、雅治が貰ってくれなかったら、他に渡せる人居ないのに」
 「……ちゃん、彼氏は?」
 「いないよ。あ、でも雅治こそ、彼女さんとか居るよね? そうしたら誤解されちゃうかもしれないし、まずいかな」

 もう中三だしね、と引っ込めようとしたその手を掴む。彼女はいないし、にそう誤解されるのも嫌だった。「おらんから、貰う」と半ば強引にその箱を彼女の手から取ると、は目を丸くした後、薄ら微笑んだ。それを見て、仁王は謀られたのだと気付いた。彼女は計算高く、何だって思い通りに遂行するのだ。仁王の詐欺も、ここに起因している。
 涼しい顔で何でもこなしてみせるに憧れを抱いていたのもあるし、いつだっての駒のように動かされていた仁王が、逆に彼女を動かしてみたいと思っていた。けれど、どうやらはいつでも一枚上手らしい。どこで知ったのかは解らないが、きっと仁王に彼女が居ないのも知っていたのだろう。それに、仁王が身内に話を誤解されるのが嫌いだと言う事だって、昔からの付き合いであるなら良く知っている。

 「相変わらず、やのう」
 「そう? でも気付くようになっただけ、雅治も成長したんじゃない?」
 「いんや、まだまだじゃけん」
 「将来が楽しみだね。雅治、後ろ向いて。ネックレスつけてあげる」

 開きっ放しの箱からネックレスを取って、仁王の身体を反転させる。首筋にチェーンのひんやりとした感触が伝わると同時に、首元に微かな重量感。手先が器用なのは昔から変わらないようで、は仁王の前にやってきたかと思うと、首元を見て嬉しそうに口角を釣り上げた。

 「うん、やっぱり似合ってる」
 「ほんま? ありがとさん」
 「いえいえ」
 「あ、そう言えばこれ……ウチの母さんが作ったクッキー。ちゃん好きじゃろ?」
 「百合子さんが? 嬉しい。百合子さんお菓子作り上手いから、凄く美味しいんだよね」

 ほのかに甘い香りの漂うバケットを仁王から受け取って、は傍らのベッドに腰を下ろした。編まれたバケットの蓋を開き、中から一枚クッキーを取り出すと、一口サイズの小さなそれを口に放り込む。さく、とクッキーが砕ける心地良い食感と共に、雅の好きなシナモンの香りが一気に鼻を抜けていった。
 彼女は満足そうにもう二つ程クッキーを食べると、バケットを閉じる。

 「うん、凄く美味しかった。百合子さんにもお礼言っておいて?」
 「もう食わんの?」
 「夕飯が食べれなくなっちゃうからね」

 少し困った風に眉の尻を下げて、は閉じたバケットを近くのローテーブルへ置いた。そんな彼女の隣に仁王が腰を下ろすと、はいぶがしげに眉をひそめてこちらを見やる。

 「それにしても、いつ髪の毛なんて染めたの?」
 「んー……中学入る前かのう」
 「何かあったの?」
 「ちょっとした失恋。もう過去の話じゃけん、そん時の気分はよう覚えてなかと」
 「失恋? ああ、雅治は私立に行ったもんね。告白でもしたの?」
 「いや。いつだったか正確には覚えちょらんけど、好きな女が彼氏連れて歩いとるのを見たけん」

 まさかそれが自分の事だとはひとつも思っていないだろう。はふうん、と相槌を打つだけで、特別表情を変えたりすることはなかった。けれど、視界の隅で彼女の動きが微かに止まったのを、仁王は見逃さなかった。仁王よりも十数センチ低いの顔を見下ろせば、彼女は何やら考え込むように目をフローリングへ落としている。
 どう見ても、それが負の感情であるようには思えない。と言う事はイコール、は仁王に何の気も持っていなかった、と言う事である。彼女は少しの間黙っていたが、不意に仁王の方に顔を向けたかと思うと、読めない笑みを口元に浮かべた。

 「それ、本当に失恋?」
 「……え?」
 「勘違い、じゃなくて? 本人には確認したの?」

 可愛らしく小首を傾げてはいるものの、その瞳は何故だか笑っていない。それでも口元だけは普段と変わらぬ微笑を携えていて、仁王は少なからず動揺していた。彼女がこんなにもあからさまに感情を表に出すことは、滅多にない。傍から見れば、失恋したその相手がであると言う事は彼女に知られていないのだから、がこういう態度を取るのはあまりにも理不尽だ。
 けれど、仁王はすぐに理解した。も仁王と同様、身内にほんの少しでも誤解をされる事が嫌いなのだ。
 関係の薄い友人や遠巻きの人間にはどう思われようと全く気にしていないだけれど、心を許した数少ない友人や家族、そして仁王達にはいつだって真実を伝え、誤解はさせない。それはすなわち、仁王が経験した「失恋」は全くの誤解だと言う事を意味しているのである。

 「なんで……解ったん?」
 「何年見てきたと思ってるの? それに、雅治は解っていないようだけど、私はずっと待ってたのよ」
 「何、を」
 「雅治が高校生になるのを。でも、その必要はなかったみたいね。雅治は失恋しちゃったんだもの。私が雅治だけにお土産を買ってきた理由だって、きっと解らなかったでしょ」

 いくら詐欺師と言う二つ名を持ち頭の回転が速かろうと、余りにも遠回りに伝えてくる彼女の言葉を、仁王は瞬時に理解することが出来なかった。はにっこり笑って立ち上がる。

 「さて、晩ご飯もそろそろ出来たんじゃないかな? 食べに行こっか」
 「ちょ、ちょお待ち! それ、って」
 「さあ? まずは再加熱させなきゃいけないから、覚悟が必要かもね」

 それ位は、やっておいても良いんじゃない? は唇をつり上げて、仁王へ顔を近づける。驚いて目を瞑る仁王の頬に、柔らかな感触が走った。すぐに目を開けた筈なのに、彼女は先程と全く変わらぬ様子で仁王を見下ろし、微笑んでいるだけ。

 「下に行ってるから、雅治も降りてきてね」

 彼女はそう言うと、部屋を出て行ってしまった。鏡を見なくたって解る。今、自分の顔はきっと、誰にも見せられない位真っ赤に染まっているだろう。すっかり熱が冷めてしまった筈の感情に再び火が点いてしまったのを、仁王は認めざるを得なかった。
 くしゃりと前髪を掴んで、誰も居ないと解っているけれど、顔を隠すように俯く。彼女の前じゃあ、自慢の詐欺だって通りやしない。小さく落とした溜め息に混じって、が機嫌良く階段を下りていく足音が、静かに響いていた。




100819 雅

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