ポーカーフェイス 普段は、どんなに遅刻しようとも急いで講義室に入ってくるなんて事は絶対にない友人が、バタバタと忙しない音を立てて入ってきたものだから、その友人の席を用意してのんびりと読書に耽っていたは、驚いたように目を丸くして顔を上げた。腕時計に目を落とせば、講義開始まで後五分以上も時間がある。 けれど友人は、そんな事を気にした様子は微塵もなく、ファンデーションの塗られた顔を少しだけ青ざめさせて、息を乱しながら荒々しく隣の席に腰を下ろした。 そんな彼女にレモンティの入ったペットボトルを差し出せば、残り半分程だったそれを一気に飲み干して、空になったペットボトルを机に叩きつけるように置いた。その音に反応して講義室にいた数人がこちらを見たが、そんな事はお構いなしと言わんばかりに、何時になく真剣な面持ちで、友人はちらりとを見た。 どうやらに伝えたい事があるものの、言っていいのか否か解らないらしい。は黙って開いていた本を閉じると、友人に向けて首を傾げてみせた。どうしたの、と声に出さない問いを投げつけると、友人はキョロキョロと目線を彷徨わせてから、風の唸るような低く、小さな声で漸く口を開いた。 「の彼氏って、銀髪で、髪が長くて、長身だったよね?」 「うん、そうだけど……それがどうかした?」 友人は、どうやらが高校時代から付き合っている彼氏を目撃したらしかった。自慢ではないが、襟足の伸びた銀髪を一つに結っている男は、生きてきた中で一人しか見たことがない。友人に写真を見せたことはないが、彼女の言葉からして恐らく間違いは無いだろう。 高校を卒業すると同時に別の大学へ進学した達は、高校時代よりも極端に会う頻度が減っていた。お互いの大学が近隣にあるわけではないし、住んでいる場所だってそこそこ離れている。とは言っても週末にはどちらかが家を訪ねたり、近場に遊びに行ったりとある程度安定した付き合いが続いている為、は友人がそこまで口を噤む理由を察することが出来なかった。 「近くにさ、ショッピングモール出来たじゃない? 二限続いて空きコマだったから行ってきたんだけど……見ちゃった」 「雅治を?」 「うん。でも、彼……女の子と一緒に居たんだよね」 「女の子? どういう子?」 「結構小柄で、髪の毛は明るい茶のショートカット」 ふうん、と曖昧に返事をしながら、は瞬時に思考を巡らせた。友人が見かけたと言う女の子の特徴からして、仁王の姉で無い事は確定する。仁王の姉は、家系からかすらりとした長身だし、今は社会人だから髪も黒く、長い筈なのだ。もし仮に茶髪のショートカットになっているとしても、体格から言って有り得なかった。 仁王の周りに従姉弟などの存在は聞いていないし、女の友人と遊びに行く時には必ずの元へ連絡が来る。お互いにそう決めたのだ。束縛を酷く嫌う仁王は、女友達と遊んだりすることもしょっちゅうある。も男友達が居ないわけではないし、成人した今は高校の友人や大学の友人たちと居酒屋で飲んだりすることだってあった。 そういう時、無理に隠すことはせずお互い連絡だけはしよう、と言う話になったのだ。仁王もそこまで頻繁に女友達とは遊んでいないから、も了承していたのだけれど。 講義が始まるまで机の上に出されていた携帯は、先程確認したばかり。勿論、仁王からのメールは来ていなかった。となると、だ。仁王から連絡は無く、なおかつ女友達と遊んでいる、という事になる。口に出したくはないが、の頭の中ではすでに結論と思わしき単語が導き出されていた。 「浮気、かな」 「ず、随分とさっぱりしてるんだね……もっと、驚いたりするかと思ってた」 「昔っから雅治は女遊びが激しかったし、浮気に関しての驚きはない」 けど、と言いかけて、は言葉を飲み込んだ。仁王の女遊びに関しては、中学の頃からもはや日常的に繰り返されていた事だから、いくら当事者が自分であろうと、それが当たり前の様な気がして、妙に冷静でいられたのだ。しかし、問題は場所である。友人が仁王を見たと言うショッピングモールは、の通う大学から二駅程しか離れていない。 今回は友人だったから良いものの、だってそのショッピングモールには何度か世話になっているし、行く回数だって少なくはない。そうなると、もしかすればはち合わせになってしまう可能性だってある。そうなる事で、仁王にはメリットどころか、デメリットしかないのだ。 中学時代は仲の良い友人として親しかったからこそ、仁王はの性格を良く理解している。浮気はバレなければ良い、と仁王の前で言った事だってある。恋愛には無頓着だけれど、自分の気に入ったものに関しては独占欲が強いが、他の女に彼氏を取られて黙っていられるわけがないと、彼は知っているのだ。 「雅治が何考えてるのか、良く解んない」 「一度、話し合ってみたら?」 「うーん……予定が合えば、だけどね」 が苦笑しながらそう返した時だった。まるで二人の会話を聞いていたかのように、の携帯が振動を始めた。サブディスプレイに光る、『仁王雅治』の文字。と友人の目が同時にサブディスプレイに向けられ、そしてまた戻った。先程まで困惑した表情を浮かべていた友人は、どうしていいのか解らない様子でを見やったが、はすぐに携帯を開いた。 定期的にランプが点灯しているのを確認しつつ、グループごとに振り分けられたフォルダを開けて、メールを見る。普段通り、以外の女の影なんぞ一ミリの見せた様子無く、『今日家行って良い?』と書かれていた。仁王がこうやって切り出す時は、に話がある時か、次の日が休日の時に限られてくる。けれど今日は水曜。が把握してる中では、木曜は一限から入っている筈。 ――別れ話だろうか。 一瞬頭を過ぎったそれを追いかけることなく、は小さな溜め息と共に返事を返す。メールのやり取りがあまり好きではないが、肯定の意を示す時に使う、手のひらの絵文字だけを送信して、携帯を閉じた。 不安そうな表情を浮かべた友人の、大丈夫なの、と言う問いには、曖昧な笑顔を返すことしか出来なかった。 * * * 帰宅して、一時間ほどした時だろうか。軽快なインターフォンが鳴り響いて、テレビを見ていたは、電源を切って玄関へ向かった。 玄関を開けると、ラフな格好をした仁王が手にショッピング袋を持って立っていた。普段と何ら変わらぬ無表情の仁王に、いらっしゃいとだけ声を掛けて、はそのままリビングへ引っ込む。後ろで、仁王が靴を脱いで上がってくる気配がした。 物で溢れる事を嫌うの部屋は、シンプルに纏められていた。大きめの本棚とオーディオラックに置かれたテレビ、ガラステーブル、そしてベッドのみ。仁王の定位置は、テレビが一番良く見えるベッドだった。とは言ってもベッドを背もたれにして座っているだけなので、だけがベッドの上にあがる状態になるのだけれど。 この部屋に来る度仁王が愛用しているクッションは、定位置に置きっ放しになっている。飲み物でも出そうかと冷蔵庫へ向かうと、普段は何も言わない仁王が「いや、今はいい」とをリビングへ促した。 明らかに、普段とは違う空気が流れていた。は素直に冷蔵庫に掛けた手を離し、ベッドの上に座り込む。仁王はに背を向ける形でベッドの縁に寄りかかったまま、小さく口を開いた。 「ここん近くに、ショッピングモールがあるじゃろ」 「うん、あるね」 「今日そこで、の友達に会った」 想定外の告白に、は目を見開いた。友人は仁王の姿こそ見ていたものの、『会った』とは言っていなかったからだ。だから、友人が一方的に仁王を見かけたものだと思っていた。それがまさか、仁王の方も気付いていたなんて想像もしていなかった。それに、仁王に友人を紹介した覚えはない。 がその疑問を口に出す間もなく、仁王はすぐに続けた。 「携帯の裏に、その友達とのプリクラ貼っちょるの見たことあるけん」 「そ、そう……」 「だから、も知っとるんじゃろ?」 「雅治が、女の子と一緒に居た、ってこと?」 「平たく言えば、まあそうじゃな」 くるり、と仁王が振り返った。切れ長の、何を考えているか解らない瞳と目が合う。はただ黙って、その瞳をじっと見返した。笑いかける事も、怒り出す事も、悲しみを露にする事もなく、仁王の色素の薄い瞳から、彼の考えを覗こうと、食い入るように見つめる。けれど、その反面仁王の表情はだんだんと曇っていった。 「何とも、思わんの?」 「女遊びが激しい雅治を見慣れてたから、黙って女の子と居たって言うのは、正直仕方ないって思ってる。でも、わざわざ私に見つかりやすい所に来た理由が解らない」 どうしてわざわざ、見つかる危険があると言うリスクを冒してまで、の通う大学付近に来たのかが解らなかった。仁王と二人でショッピングモールに訪れた事だってあるし、がモール内にある店をいくつか気に入っているのも知っているのにも関わらず、敢えてそんな真似をしたのか。 仁王は一瞬だけ目を伏せたかと思うと、一メートルも満たない範囲に居たですら聞き取るのが困難な、本当に小さな小さな声で、ぽつりと呟いた。 「……仕返し」 「はあ? し、仕返し?」 思わず身を乗り出してしまう程、は驚いていた。一体、何の仕返しだと言うのだろうか。呆気に取られるを他所に、仁王はふう、と溜め息を落とす。 「先週の金曜、池袋」 ああ、とは頷いた。先週の金曜日と言えば、高校時代に仲の良かった男女グループで集まり、池袋で飲み会をした日だった。次の日が休日だからと、本当に終点間際まで飲み明かしていた気がする。それでも程良く酔いが回った達は呆気なく終電を逃してしまい、その日は家が近い者同士でタクシーを捕まえて帰宅したのだ。 勿論、その集まりに関しても仁王にはメールをしているし、返事も貰っている。朝帰りだけはするな、なんて言いつけをしっかり守って、二時前には帰宅した。だから泊まる所がなくてラブホテルで一夜を明かした、だとか彼氏に顔向けできない事は一切していないと断言出来る。 意味が全く解らないまま、は困惑して首を傾げた。仁王はそんなの表情を見て、やわやわと眉をひそめる。 「ホンマに、覚えがないんか?」 「ご、ごめん……雅治に顔向けできない事は、何もしてないつもりだったから」 「男と腕組んで歩いとったのも?」 「腕、組んで? ……私が悪酔いしたから、タクシーまで腕を掴ませて貰ってただけだと思う、けど」 「何で俺を呼ばなかったんじゃ。池袋なら、ウチ泊まった方が近いじゃろ」 「え、だって、雅治金曜、深夜のバイト……」 「それは今週の話。先週は十時上がりじゃけん、迎えに行けたぜよ」 あれ、そうだったっけ、とが思考を巡らせている前で、仁王は大きく息を吐き出したかと思うと、目にかかった前髪をくしゃりと掴んで、喉の奥を震わせて笑う。考え事をしていたが、空中から仁王へ目を戻した頃には、ベッドの上にあがってきていた仁王によって抱き寄せられていた。 普段よりも少し強い力で抱きしめられて、は状況把握が出来ぬまま彼の背中に手を回す。 「すまん、俺の勘違いじゃ。が浮気しよったと思って、今日女友達付き合わせてわざわざあそこまで出向いた」 「それで仕返し、ね。でも、私こそごめんね。私がちゃんとしてれば良かっただけの話だし」 「次は、しゃんと俺を頼ってくれればそれで良か。ほんでな、今日はに渡したいもんがあるんじゃ」 「渡したいもの……? 何、それ」 仁王は一度から離れると、ベッド下に置いてあったショッピング袋を取り出した。先程は気付かなかったが、それはが気に入っているアクセサリーショップのものだった。はい、と差し出されて、は一瞬受け取るのに躊躇したが、礼を述べて小さなそれを受け取る。仁王がじっとその袋を見ているところからして、今開けるべきものらしい。 銀色の店名が書かれたテープを剥がして中を覗くと、ブルーのリボンが掛かった小箱が入っていた。見た目通り軽いそれを持ち上げて、綺麗な光沢のあるリボンをするりと解く。パコ、と小さな音を立てて、つるりとした白い箱を開けると、中にはゴールドピンクで装飾されたシンプルなリングピアスが二つ鎮座していた。これは、が少し前から気になっていたピアスだった。 「……え? ちょ、ちょっと待って。ど、どうしたのこれ? って言うか、なんで知って、」 勿論、安い品物ではない。大慌てで顔を上げると、まだ喋っている途中だったにも関わらず、呆気なく仁王の唇で塞がれてしまった。一度離れ、ぽかんとした表情で仁王を見上げるに、彼は薄らと笑ってみせると、もう一度だけその唇にキスを落として、箱の隙間にはめこまれたピアスを摘まみ、の横髪を耳に掛けた。 クーラーの所為でひんやりとした外気に触れた耳たぶに、仁王はそっとピアスを通す。もう片方も通して、カチ、と音を立ててロックすると、仁王は少し顔を後ろに下げて、まるで観賞するようにを見た。 「似合っちょるの」 「待って雅治、なんでこれ……」 「何となく、じゃいけんかの? ショッピングモール行ったついでに、買うただけじゃ」 「でも、私雅治に何も買ってないよ」 「そんなん気にしてなか。それよりも、喜んでくれた方が、俺も嬉しい」 の耳元に手を伸ばしてやんわりと笑う仁王に、もまた戸惑った表情を消して笑顔を浮かべた。 「すっごく嬉しい。ありがとう」 「おう。ああ、それと、の友達に礼言っといてくれんか?」 「……わたしの?」 「の友達が、に俺の浮気現場を見たって言ったのは、俺が頼んだからじゃけん」 「は? 何、どういう事?」 仁王の話はこうだった。 自分の居ないところ、なおかつ仁王の大学から近い場所で男と二人腕を組んで歩いていたの姿を見て、仁王は指摘するのではなく全く同じ事を返してやろうと思案した。 前々から女友達とショッピングモールに訪ねて内緒での気に入っていたピアスを購入しようとしていたので、敢えてに連絡をせずに実行。その後、の携帯に貼ってあったプリクラに写っている友人と遭遇、その友人にも同じように事情を説明した。 そして彼女がこの後と講義を受けると言うので、仁王と見知らぬ女を見たと言ってもらいたい、と頼んだのだと言う。 だからの家にやってきた時、が何も知らないような表情を浮かべて迎え入れるものだから、仁王もまた不安になって口数を減らしていたらしい。 は黙って事の始終を聞いていたが、驚きを隠せなかった。他人の浮気現場を見ても関心のひとつも持たない友人が、大学で一番仲の良い位置にいるの彼氏についてとやかく言う事自体も疑問に思っていたし、があっけらかんと返した時の驚いた反応もまた、辻褄が合う。 「ひとつ勘違いしてるけど、私すっごく不安だったんだからね?」 「え?」 「中学の頃からお互いを知ってるんだから、私が独占欲強いって知ってるでしょ? まあ、最近は環境も変わったし、そんな感情を易々と表に出すことはしなかったけどさ」 「そこじゃよ。は口で伝えることもせんし、表情にだって出さん」 俺以上に表情に出さんを見てると、不安になる。そう言って、仁王はもう一度を抱き寄せた。自身はポーカーフェイスを気取っているわけではないのだけれど、仁王には常にそう見えていたらしい。年齢が上がっていくにつれて、徐々に子供っぽいところが露になる仁王の姿を見て、は彼から自分の表情が見えない事を良い事に、ひっそりと笑った。 そして普段は恥ずかしがって滅多に言わない、愛してる、の言葉を吐息に乗せて、彼の耳元でそっとささやいた。 |