「ねえ、ブン太」 二人きりの屋上。地平線の果てまで真っ青な空。長い黒髪を風になびかせて俺の名前を呼んだ彼女の声は、涙で滲んでいた。すぐ真下のグラウンドでサッカーをしているひとつ下の後輩から目を逸らし、俺は隣に座るの方を向いた。 彼女は俺の方を向いてはいなかった。同じようにグラウンドを走り回る後輩を目で追っている。けれど、その瞳には薄い涙の膜が張っている。 「私、仁王が解らないよ」 何ヶ月前の事だっただろう。二年の頃からと同じクラスだった俺の部活仲間、仁王雅治の事が好きだと打ち明けられたのは。まだひまわりが咲く前だったから、半年以上前の事だったかもしれない。 は可愛らしい外見に似合わずさっぱりとした付き合いを好んでいて、興味のあるもの以外無頓着であるところが仁王と似ているのだろう。それに、仁王に並ぶほど頭も切れる。仁王のように実践するわけではないが、恐らく同様にペテンを掛けること位出来るだろう。二人は、誰が見ても気の合う親友同士に見えた。 けれど、それが崩れたのはつい最近だ。二ヶ月前、仁王に彼女が出来たのである。高校から立海に入ってきた所謂外部生で、仁王が過去に酷い女遊びをしていた事を知らない、大人しく、内気そうな女子だ。一度も染めたことがないであろう真っ黒い髪とインドアを思わせる白い肌は、仁王の横に立つと、仁王とを知っている人は、必ずこう思うのだ。 後ろ姿が、に酷似していると。髪の長さや色。体型。真正面こそ違うものの、後ろ姿はそっくりだ。特に、仁王と一緒に居る時は。二年の頃から一緒にいる事が多かった所為か、仁王の横にいると、時々だと錯覚してしまうこともある。 「好きでいても無駄だって解ってるけど……でも、駄目なの」 「……ああ」 俺は一度、期待を持ったことがある。仁王もまたを好いていて、それを気付かせる為に、わざと似た背格好の女と付き合い始めたんじゃないだろうかと。しかし、それはただの妄想に過ぎなかった。 付き合い始めて二ヶ月。に元気がないのを、一番近い位置にいた仁王ならすぐに気付いた筈だ。そしてその原因も解っているだろう。なのにも関わらず、仁王は気付かぬふりをして交際を続けている。も勘が悪いわけじゃない。寧ろ良い方だ。だから、仁王が全て気付いていて尚、そういう行動に出ている事を知っていた。 はぼんやりとグラウンドを眺めていた。聞き覚えのあるうるさい騒ぎ声が、時折屋上まで届くと、口元を緩めて小さく笑う。俺はそんな彼女の姿を見て、同じように笑ってみせる。 「なあ、」 「んー?」 「俺じゃあ、駄目なのかよ」 勢い良く、彼女は振り返る。目の下の薄ら赤い跡が痛々しいけれど、は目を大きく見開いて俺を見つめていた。俺が何も言わずにを見ていると、彼女は不意に目を伏せて、ぎこちなく、唇を歪ませた。 「そ、っか。今まで、ごめん。辛かったよね。私、何も知らずに相談ばかり……」 「気にすんなよ、俺が好きでやってんだからさ。ま、望みはほぼ無いって解ってるし、聞き流してくれ」 「ブン太……」 今にも泣きそうな顔で、は俺を見る。そんな表情を見て、俺も泣きそうになってしまった。鼻の奥がツンと痺れる感覚と共に、視界がじわりと滲む。けれどその姿を彼女に見せないように、俺はもう一度グラウンドを見下ろした。 * * * 「仁王。お前、解ってるならいい加減にしろよ」 部活帰り。突然真剣な表情で話を切り出した丸井に、仁王は何の事だか解らないと言わんばかりにすっとぼけた表情で、隣を歩く丸井を見た。 「何のことかのう」 「だよ。アイツがお前の事好きなの、どうせ知ってんだろい。なのに何で、わざわざ似たような女と付き合うんだよ」 「はあ? 俺の彼女にケチつけるんか」 「そういう問題じゃねえ」 丸井の目は、真剣そのものだった。普段のどこか抜けた、ゆるい雰囲気を持つ丸井の姿はどこにもない。仁王は、冷めた表情を浮かべて溜め息を落とした。 「ほお、ブンちゃんが騙されんなんて久しぶりじゃの」 「目的は何だ? お前、今付き合ってる女の事好きじゃねーだろい」 「そこまで解っとうなら、話は早い。俺がほんまに好いとる女は、別におる」 「……は?」 突然のカミングアウトに、丸井は目を剥いた。現在の恋人を好きでないのは薄々気づいていたが、まさか他に好きな人がいるだなんて思いもしなかったからだ。 仁王はくつりと厭な笑みを浮かべて、切れ長の瞳を細めた。 「俺が彼女と喋っとる時、がどんな顔しちょるか、知ってるか?」 「……」 「ただぼんやり、俺と喋っとる彼女の後ろ姿を眺めとるんじゃ」 理由は聞かなくても解る。その後ろ姿が、自分だと錯覚してしまう程そっくりで、そしてまた、自分がその場所にいたら良いのに、という切なる願いから来ているものだからだ。 「は興味が向かんモンには無頓着じゃけん。俺にずうっと興味を向かせておかんと、いつ他の男のモンになるか解らんけんの」 「お前……もしかして、」 「そうじゃ。俺が好きなんはよ。でもな、俺はと付き合うて終わりを迎えるんが怖い。俺がを好きなように、アイツにもずっと俺を好いていてほしい。ただの怖がりでビビりな男じゃけんのう、俺は」 純粋に、異常だと思った。常人の考える事じゃない。いや、考えはするかもしれないけれど、はっきりと行動に移せる人間などそうそう居ないだろう。 言葉で言うのではなく、行動で彼女を束縛する。辛そうに、悲しそうに仁王を眺め、そして笑顔を繕うの表情が思い出されて、頭の中がまるで沸騰しているかと思うほど熱くなっていくのが解った。 「の気持ちは無視かよ! アイツはお前の所為でずっと苦しんでんだぞ?! いい加減解放してやってくれよ!」 「でも、付き合えばいつかはも俺の気持ちを無視して別れを切り出す時がくるかもしれん。お互い様じゃろ」 「お、互い様って……お前、仮定の話を持ち込むんじゃねえよ!」 仁王には、何を言っても通じなかった。丸井の言葉は、仁王には全く届いていない。荒くなった息を整えるよう丸井は大きく息を吐き出すと、低く、唸るような声で呟いた。 「お前に、はやれない。アイツがずっとお前を好きでいるから、俺は潔く諦めようと思ってたよ。でも、無理だ」 「そんなん、無理に決まっとるじゃろ」 「確かに今はお前を盲目的に好きだけど、アイツはそんなに馬鹿じゃない。時期に諦める時がくるんだよ」 身体を巡る激情を必死に抑え込み、丸井は仁王を睨みつける。仁王は無表情で丸井を見ているが、その内側に熱いものが込み上げているだろうと言うことは、長年付き合ってきた丸井にはすぐに解ることだった。 シン、と静まり返った住宅街。丸井の荒い息遣いだけが響く。と、突如丸井はズボンのポケットから震動を感じた。メールなら五秒で途切れる筈のバイブは、なかなか途切れない。電話は長い間震動し続けたが、やがて大人しくなった。かと思いきや、五秒も経たずにまた存在を主張し始める。丸井はしかめっ面のまま、ポケットに手を突っ込むと、ディスプレイに映る名前を確認して、息を呑んだ。 『』 頭が働く前に、指が通話ボタンを押していた。目の前の仁王が興味を失ったように目を逸らすのを確認して、恐る恐る携帯を耳に当てる。 「……もしもし」 『あ、ブン太? 突然電話ごめん』 「いや……平気だけど、どうしたんだよ」 『仁王の件で、ひとつ報告しておこうと思って』 反射的に、目の前の仁王を見る。変わった様子はない。通話の音量は最大まで下げているから、声は聞こえようとも、内容や人物までは解らないのだろう。 丸井から返事が無いのを不審に思ったのか、電話の向こうで、が丸井の名前を呼ぶ。慌てて返事をすると、はすぐに話を切り出した。 『仁王の彼女から、さっきメールが着た』 「……え?」 『仁王は私の事を好きじゃないんです、って言われた。本当に好きなのはさんなんですって』 「ど、どういう事だ?」 『私にだって解らないよ。でもね、それを聞いて決心した。私、仁王のこと、諦めるね』 「なっ……?! 何でだよ……?」 『ブン太には言えない。今まで色々迷惑掛けてきてごめんね。そこに仁王、いるんでしょう? 代わって貰っても良い?』 何故仁王がここにいるのを知っているのか、どうして突然諦めるなんて言い出したのか、丸井はさっぱり見当がつかなかった。丸井が仁王を振りかえると、仁王は訝しげな表情でこちらを見ていた。 そんな彼に携帯を差し出して、から、と伝える。仁王は普段の冷やかな表情とは打って変わって驚いた表情を見せると、携帯を受け取って電話に出た。 「もしもし? ああ、俺じゃ。どうした?」 微かに、の声が漏れる。確かにの声だと判別はできないし、内容も薄らとしか聞こえてこない。 仁王が電話している間、丸井はずっと考えていた。が、あんなにも好いていた仁王を諦めると言いだした理由を。仁王の良いところも悪いところも、平等に見てきた彼女だ。ちょっとやそっとの事では幻滅したりはしないし、ましてや仁王が自分のことを好きだと知ったら尚更気持ちが強まるものではないのだろうか。 仁王の顔を垣間見る。仁王がと話す時特有の穏やかな表情が、徐々に強張っていくのが解った。前髪の隙間から薄ら見える眉を微かに寄せて、目を伏せている。昔に仕掛けたペテンの所為で一週間丸々彼女に無視され、やらなければよかったと心底後悔した時と全く同じ表情。 ――ああ、そうだったのか。 驚くほどすんなりと、丸井は納得した。はきっと、全てを理解してしまっている。自分を好きな上で似た背格好の女と付き合った理由。好きな癖に告白してこない理由。それが、仁王が異常なほど自分に執着していることから来ているのを。 (お前の負けだぜい、仁王) 立場逆転。今度は仁王が、を追う側になるのだ。 同じ位頭が切れる彼女を甘く見て、弄んだ結果がコレである。絶望した表情で目を見開いている仁王を、丸井は冷めた目で眺めていた。 |