もしも魔法が使えたら 目が覚めた時の異常な気だるさに、俺は深々と溜め息をついた。月に一度や二度、こうした気だるさに見舞われるのである。何もしたくない。朝練に出るどころか、ベッドすら出たくない。自分の体温で十分に暖まった布団の中から手を伸ばして、枕元にある携帯を開く。 五時五十分。後十分後には、毎日セットされたアラームが鳴り響くだろう。 (あー……だる……朝練休みにならんかのう) 眉をしかめて携帯の待ち受け画面を眺めていると、不意にそれがメール受信画面へと切り替わった。それは数秒も経たないうちに一通のメールを受信する。差出人の名前は――柳蓮二。 毎朝五時には起きているらしいから、まあこの時間に起きていても疑問はない。しかし、非常識を酷く嫌う参謀が、何故この時間帯に? ぶるぶると音を立てて震える携帯を操作してメール画面を開き、俺は目を見開いた。 _______________ 10/△/■ 05:51 柳蓮二 Sub:朝練 ――――――――――――――― 本日は早朝から業者整備が入る為 朝練と午後練共に休みとする。 各自、筋トレは怠らない様に。 --END--  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ こんな事、三年間で一度あるかないかだ。我が目を疑うような内容だが、いくら見つめていても画面の文字が変わることはない。参謀は冗談でこんなメールを送ってくる筈がないし、これは事実なのだ。 (へえ……偶然ってのも凄いモンじゃ) 朝練が無しになればいいのに、なんて考えた矢先の出来事で、俺は柄にもなく気分が高揚するのが解った。 さて二度寝でもしようかと考えてはみたが、突然の朗報のお陰で、目はすっかり冷めてしまっている。一度目が冴えてしまうと次になかなか寝付けないタイプの俺は、携帯を閉じて、ごろりと上を向いた。真っ白い天井。暗闇の中、薄ら青白い光が透けて差しこんでいるカーテン。ひんやりとした空気。 朝練のお陰でこの時間に目覚めることは何度もあった筈なのに、早朝独特の空気を感じることはあまりない。 「暇じゃのう……」 ふと、クラスメイトのを思い出した。彼女もまた、愛犬の散歩をする為に朝早く起きると、昔聞いたことがあったからだ。でも、ただ朝が早いと言っていただけで、具体的に何時頃に起きているとは聞いていない。 (起きとるんじゃろうか) 基本的に人に無関心である俺が、何で昔に聞いたクラスメイト、しかも女子の話を覚えているかと聞かれれば、答えは明確だ。俺が、を好いているからである。いつ好きになったのか、正直覚えていない。 しかし三年に上がってから同じクラスになって、そこからは気の合う友人として今まで付き合ってきている。 何となく携帯を開いて、アドレス帳から彼女の名前を探す。。赤外線で交換したから、俺のアドレス帳にはの電話番号も一緒に登録されている。今通話ボタンを押せば、彼女に通じるだろう。 (アイツからもし電話がかかってきよったら、どうなるんじゃろうか) 今日は朝から運が良かったから、もしかしたら――なんて思ってみるが、所詮ただタイミングが合っただけだ。電話をしたことは今まで一度か二度しかないし、アイツからかかってきた事は一度だってない。 小さく溜め息を落として電源ボタンを押し、アドレス帳を閉じる――と同時に、今の今まで眺めていた、の電話番号が表示された。 「……は?」 たった今、アドレス帳を閉じて。そこには携帯に初期から入っている適当な待ち受け画面が表示される筈だ。なのに、何故彼女の名前が表示されて、ランプが点滅している? (冗談じゃろ?) 手のひらを通じてバイブを認識するまで、酷く時間がかかったように思えた。バイブに気付くと同時に、慌てて通話ボタンを押す。 「もしもし?」 『あ、もしもし? ごめんね、もしかしてまだ寝てた?』 「いや。もう起きとったよ」 『良かったー。テニス部ならもう起きてるかなって思ってさ』 「いきなりどうしたんじゃ?」 『ほら、昔私犬の散歩する為に朝早く起きてるって話したの、覚えてる? 流石に覚えてないかな』 「覚えとるぜよ。確か、ポメラニアンだったかの?」 『うん、そう。今も散歩中なんだけど、ウォークマン忘れちゃって。何となく寂しかったから電話してみたんだけど……こんな時間にごめんね。考えて見れば超非常識だよね、私』 「いや。俺も今日急に朝練なくなって、暇しとったけん。逆に暇が潰れて助かった」 『そうだったの? 良かった。ナイスタイミングだね』 電話の向こう側で、が笑う。俺はまだ信じられなかった。が起きていたか否かは別として、まさか電話相手に俺を選択するなんて有り得ないと思ったからだ。 もし面と向かって話していたら、俺は相当間抜けな顔をしていたに違いない。じんわりと熱くなっていく顔を冷ます為に、すぐ傍にあった窓を開けようとして、更に驚いた。アパートの下にある道を、電話片手にラフな格好をしたが、今まさに通り過ぎようとしていたからだ。 「、ちょっ、止まりんしゃい!」 『え? 何?』 アパートを一メートルほど通り過ぎたところで、は俺の言葉に従って歩みを止める。電話越しの筈なのに、彼女は不思議そうに首を傾けていた。 (……振り向くか?) 一種の賭けだった。ここまできたら、この強運に頼るしかない。窓から見えるの後ろ姿。ひんやりと冷たい風に揺られる髪がふわりと舞い上がって、彼女は振り向き、まるで俺がこの窓から見ているのを知っていたかのように真っ直ぐ、こちらを見上げた。 『……仁王?』 心底驚いているの声。そして、数メートル先に見える表情。の足元で、茶色い毛をしたポメラニアンが、大人しく座ったまま飼い主を見上げている。 『おっどろいた。このアパートに住んでるんだね』 「ああ……お前さんもこん近くなんか?」 『うーんとね、駅の方面に行くとファミマあるでしょ? あそこの辺りだよ。ここから十分位かな』 「へえ、ほんじゃ案外近いんじゃな……今、時間あるか? ちょっと待っててくれたら、そっち行くけん」 『え? でも悪いよ。外寒いし、折角朝練無いんだったら部屋でのんびりした方が良いんじゃない?』 「気にせんでよか。身体鈍らせとくと、参謀に何言われるか解らんしのう。お前さんの時間が平気ならじゃが」 『私は大丈夫だけど……』 の言葉を聞くなり俺は携帯を切り、窓から顔を引っ込めた。顔を洗ってから私服の入っているクローゼットを開けようとして、思い止まる。たかが朝に少し会う為だけに、気合いを入れるなんてどう考えても可笑しい。 少し悩んだ末、適当に合わせてコートを羽織った。玄関に放られたスニーカーに足を突っ込み、キチンと履く前に部屋を出る。冷たい風が頬を滑って、ぴきりと突っ張る感覚がした。 アパートの下に降りるとは、ブロック塀に寄りかかるようにしてしゃがみ込み、愛犬と戯れていた。 「待たせてすまんの」 「いやいや……え、何、たった五分でそこまで完成形に近いの?」 「は? 何がじゃ」 「イケメンは違うねえ。その髪、まだワックスつけてないんでしょ?」 彼女は納得するように頷きながら、笑顔を浮かべて俺の髪に触れた。ワックスどころか、結んですらいない。俺がそれを思い出したと同時にも気付いたのか、物珍しそうに髪を眺め始めた。 「仁王が髪結んでないの初めて見た。ふうん、そこそこ長いんだね。これ二つ結び出来る長さじゃない?」 「……先に言っとくが、やらせんぜよ」 「ははっ、言うと思った」 唇の端をつり上げて笑ったかと思うと、は俺の髪に触れていた手を離した。そして、短めに持っていたらしいリードを一気に緩める。ポメラニアンが元気に走り出したと共に、もゆっくりと歩き始めた。俺もその隣に並ぶようにして、彼女に歩幅を合わせる。 (……さて、に好きな奴はおるんか……いけるかのう) 根拠は全くないが、の方から話を振ってきても、今までの流れからすれば可笑しくはない。超能力やら魔法なんて言葉は俺には全く似合わない。しかし、今までの出来事を形容するのであれば、しっくり当てはまるような気がした。 ちらり、との横顔を見る。彼女は俺が見ている事に気付いた様子もなく、真正面を見据えたまま口を開いた。 「そう言えばさ、仁王って好きな子いるの?」 「…………俺?」 「うん。ほら、最近丸井がE組の子と付き合い始めたじゃない? 仁王は最近彼女作ってないしさ、好きな子位いないのかなって思って」 「んー、どうかのう。そういうはおるんか?」 「私かー。いるって言えばいるし、いないって言えばいないかな。なーんか、微妙なところなんだよね。まだ好きだってはっきり思った事もないし。気になる程度? って、私の事は良いんだって。仁王は実際のところ、どうなの?」 「ん? おるよ」 の目が見開かれる。 (そのままこっち向いて、向かい合って) 面白いほど、彼女は俺の考えることに従って動いてくれる。まるで魔法使いの気分だ。俺とは、早朝の住宅街の道路ど真ん中で向かい合う。少し悩むような面持ちのまま、は目線を伏せて動かない。 (俺が今告白したら、どうなるんじゃろうか) 彼女は喜ぶのだろうか。の気になっているやつがもし俺じゃないのなら、ただの迷惑になるだけだ。 もし、俺が今、を操作したら。は、自分の意思とは裏腹に、好きでもない俺に告白しなければならなくなるのか。俺もまた、彼女を見つめたまま黙り込む。 先に口を開いたのは、の方だった。 「今日、偶然が重なって、仁王にこうして会えたから……言うよ。もしかしたら気付いてたかもしれないけど、私、仁王の事が――」 ほんのりピンク色に染まった彼女の顔が、徐々にぼやけていく。声も遠くなっていく。代わりに聞こえてくる、携帯の着信音。突然金縛りにあったかのように、俺は携帯を取り出そうにも、全く動けないでいる。突然の事態に混乱していると、不意に目の前が暗転し、ぐんっと強い力で引っ張られる感覚がした。 は、っと目を開ける。 そこには見慣れた白い天井があった。傍らの窓からは、薄暗い室内向かって青白い光が差し込んでいる。すぐ耳元でうるさく震動する携帯電話が切れると同時に、俺は状況を把握した。 (夢……?) これ程夢を惜しんだことはないだろう。考えてみれば、自分の夢だったのだから、他人の行動を操作できて当たり前だ。一気にテンションが下がる。大きな溜め息を吐いて、メール着信のランプが光る携帯を開いた。 受信メール一件。差出人は、柳蓮二。先程見たばかりの内容が、そっくりそのまま、白く光るディスプレイに浮き上がっていた。 110110 雅
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