ホットコーヒーを買って店を出ると、十一月の少し冷たい風が頬を掠め、の綺麗に巻かれた髪を揺らした。両手の指先を温めるコーヒーを右手に持ち替えて、腕時計に目を落とす。五時二十五分。後五分もすれば待ち合わせ時刻だ。すぐ前方に見える時計台の下に、待ち合わせをしている人物の姿は見えない。 と、時計台まで向かうところで、向かい側から少し小走りでやってくる見慣れた黒いもじゃもじゃ頭が見えて、はマフラーに埋めた口元を緩めた。きょろきょろと辺りを見回している限り、ちょうど直線上に立っているに気付いていないらしい。そんな切原に近づいて右手のひらを挙げると、切原は漸く気付いた様子で目を丸くして、それから薄らと眉をひそめてみせた。 「先輩すみません、待ちました?」 「大丈夫。案外終わるの早かったんだね」 切原の肩にかかった大きなテニスバッグと、普段よりも緩めに結ばれたネクタイを眺めながら、は小さく首を傾げた。いくら今日の部活がミーティングのみだとしても、まさか一時間半程度で終わるとは思っていなかったからだ。それでも月に二度しかないオフ日だし、のんびりと放課後にぶらつく程度の時間はあると踏んで、こうして制服でのデートをすることになったのである。 切原はきょとんとした表情を浮かべたものの、それはすぐに無邪気な笑顔へ変わる。 「そりゃ、走ってきたッスよ。聞いて下さいよ、普段三十分かかるところ、今日は十五分ッス!」 「そんなに急がなくても良かったのに」 今にもピースサインを出してきそうな切原に、は可笑しそうに笑ってみせた。立海からここまで確かに三十分程度はかかるけれど、それは普通に歩いたらの話。切原はどうやらその区間を走ってきたらしい。 この程度の距離であれば普段から鍛えている切原には、特にキツいものでもないらしい。よくよく見てみれば薄ら汗をかいているものの、息は殆ど乱れてはいなかった。 「そりゃ急ぎますよ。早く先輩に会いたかったッスもん。先輩、どっか行きたいところあります?」 「そうやってまた……えーっと、とりあえず普通にその辺見たいかな」 「ウイッス。んじゃ、行きましょ」 その言葉に頷いて、は歩き出そうと切原から目を外す。しかし、視界の隅にちらりといる彼は、何か言いたそうな面持ちでそこから動こうとしない。それに気付いて、はもう一度切原を振り返る。 「どうしたの?」 「あの……その……手、繋いでも良いッスか?」 余りにも恥ずかしそうに目を逸らして言うものだから、もつられて恥ずかしさが込み上げてきた。けれどそれがあからさまに顔に出るタイプではないから、ただ何も言わずに頷いて、左手を差し出す。切原は差し出されたの手にそっと目を落とすと、少し口元を緩めて、自分の右手を絡ませた。 身長はそこまで大きいわけではないけれど、切原の手のひらはのそれよりもだいぶ大きく感じられる。 「先輩の手、あったかいッスね」 「あー、うん。さっきまでこれ持ってたからかな」 結局一度も口をつけていないホットコーヒーを持ち上げる。押して開けるプラスチックタイプの蓋も当然のことながら未開封のままだ。まだ時間がかかると思っていた故に購入してしまったのは誤算だったのだけれど、まあ空いた手を暖めてくれるなら良しとしよう、と考え直したわけである。 切原はの右手に握られたスリーブ付きの樹脂カップを見下ろすと、どこか尊敬するかのように唸った。 「へーえ。先輩、コーヒー飲めるんスか?」 「うん。ミルクは必要だけど、飲めるよ。逆にカプチーノとかラテは甘くて、あんまり好きじゃないかな」 「仁王先輩と一緒ッスね。あの人は無糖しか飲まないッスけど」 俺には考えらんないッスね。切原はそう言って、まるで苦虫を噛み潰したかのように渋い顔をしてみせた。余り苦いものが好きではない切原にとって、ブラックコーヒーをけろっとした顔で飲んでいる仁王が全く理解できないのだろう。 も無糖はそんなに飲まないが、切原程の不快感は覚えない。それでも切原の気持ちが解らないわけではなかった為、曖昧に笑って誤魔化した。 「あ、あそこ入ってもいい?」 駅前から少し離れたところで、はデパートビルの外に飾られたひとつの看板を指差した。それはが気に入っているアクセサリー系列店のもので、デパート内にあるその店を、一度訪れてみたかったのだ。つい先々週に新しく開店したのだが、なかなかタイミングが合わず、今まで一度も行く機会がなかったのである。 切原はお世辞にも読みやすいとは言えない金色の筆記体を見て、微かに頬を引きつらせる。と一緒に居る時に、あまり英字を見たくないらしい。まあ、付き合う前にあんなに英語をやっていたのだから、それも当然かもしれないけれど。 デパート内に入ると、そこは外と打って変わって暑いと感じる程の暖房がかかっており、は眉をしかめた。首に巻かれたマフラーが、店内に入ってものの数秒で一気に邪魔なものへと変化する。切原は走ってきた所為か防寒具はあまり身につけてはいない為、そこまで不快感を感じる事はなかったらしい。 「さっきの店って、何階ッスかね」 「多分三階だと思う」 看板の隅に、小さく「3F」と書いてあったのを、は見逃していなかった。すぐ傍にあったエスカレーターに乗って、三階を目指す。 「うわ、先輩、俺より高い」 「え? ああ、本当だ。だいぶ高さがあるもんね。赤也くん小さい」 「あんまし言わないでくださいよ。これでも気にしてるんスから」 「言いだしたの赤也くんなのに?」 エスカレーターのひとつ下の段に乗った切原は、振り返ってみると確かによりも小さかった。普段は滅多に見られないもじゃもじゃ頭の天辺がよく見える。切原があからさまに唇を尖らせるのを見て、は小さく吹き出した。言わなければ、前を向いていたがそれに気付く確率は限りなく低かっただろうに。 三階へ辿り着くと、お目当てのアクセサリーショップは目と鼻の先に位置していた。黒い壁紙を基調とした落ち着いた雰囲気の店だが、学生でも手頃に買える値段のものが幅広く売っているのである。 この類の店に入った事がないのか、切原は興味深そうに、けれど居心地悪そうに壁に陳列されたアクセサリーを眺めている。本来なら十五分程かけてじっくりと店を回りたいのだけれど、切原がいる手前、そんなに時間はかけたくなかった。 緩く繋いでいた手を離して持っていたコーヒーをそっとスクールバッグに入れると、すぐ近くの壁にかかっているシンプルなネックレスを手に取る。小指の爪の先にも満たない程小さい星のチャームが三つ連なっている、ピンクゴールドのネックレス。 恐らく制服にも合わせやすいだろう――そんな事を考えながらぼんやり眺めていると、少し離れたところで適当に見ていたらしい切原がやってきて、ひょいと覗きこんだ。 「先輩、そういうの好きなんスか?」 「うん。シンプルだと、その分私服にも制服にも合わせやすいから」 「ふうん……」 「赤也くんは、ネックレスとか買ったりする?」 「あんまり。部活の時にイチイチ外すのも面倒だし、休日出かけるってのも殆ど無いんで」 「そっか。仁王くんとか丸井くんも、アクセサリー系は全然つけてないもんね」 彼らは一見派手な風貌をしているが、ネックレスやピアスは一切つけていない。彼女がいる期間には、プレゼントされたらしいネックレスや指輪をつけている所を何回か見かけた事はあるけれど、それは一回きりだったり短期間だったりする。 「ごめんね、ちょっとこれだけ買ってきちゃうから」 他に目を惹くものもなかったので、は手にしていたネックレスを買おうとレジへ向かった。無事会計を済ませ、アクセサリーショップを後にする。 「赤也くんはどこか行きたいところある?」 「んー……あ、スポーツ関係の店ってここ入ってましたっけ?」 「確か、四階になかったかな」 「じゃあ、そこ良いッスか? 新しいグリップ買いたいんで」 そのまま近くのエスカレーターを上って四階へ上がる。降りて少し歩いたところに、スポーツ用品店はあった。切原は真っ直ぐテニス関連のものが置いてある場所へ進むが、は先程の切原と同様に、辺りをぐるりと見回す。体育会系の部活に入っていた事が無かったから、こういう店に来るのも初めてなのだ。 グリップテープが陳列されている場所にしゃがんで品定めしている切原の隣で、もまた綺麗に並べられたそれらを眺める。と、ひとつ目に留まったものを手に取った。 可愛らしいパステルブルーと、一定間隔にプリントアウトされた女子高生向けのキャラクター。強面の集まる立海大テニス部には似合わないグリップテープがあることを知り、は笑みで口元を歪ませた。 「凄い。キティちゃんのグリップテープなんてあるんだ」 「女テニの奴で確か使ってるのいたッスよ。使い心地は良くないらしいッスけど」 「そうなの? まあキャラものだし、使い勝手は求めちゃ駄目なのかもね」 「そうッスね。ねえ先輩、この中で何色が良いと思います?」 切原が見せてきたグリップテープの色は、何と六種類もあった。白や灰色、黒と言ったシンプルなものとは別に、赤、青、オレンジ、黄緑があるらしい。しかしどれもキツめの原色系だ。は眉を寄せて唸り、灰色と黄緑ふたつを指差した。 「この二つは結構好きかな。でも赤也くんが使うんだったら、灰色の方が良いかも」 「じゃ、これにするッス。先輩黄緑好きなんスね。なんか意外かも」 「そう? 赤也くんは原色好きって顔してるよね」 「あれ、良く解りましたね。そんなに解りやすいッスか?」 「ははっ、当たったの? 光の三原色とか、まさに赤也くんって感じ」 「……それって、喜んでいいんスかね?」 の言葉に、切原はげんなりとした表情を見せる。決して貶しているわけではないが、同時に褒めているわけでもなかった為、は何も言わずに笑うことしかできなかった。 * * * 他にもゲームセンターだったり雑貨屋だったり色々な店を回った末、二人はデパートを出た。待ち合わせした時から薄らと日は落ちかかっていたが、今はもう真っ暗である。暖かい室内に慣れていたお陰で、外は思わず足が竦んでしまう程に冷たい空気が充満していた。 「うわっ、外超寒いッスね」 「寒いね。赤也くん、それで寒くないの?」 は隣に立つ切原を、頭の先から下まで見下ろした。ブレザーこそ羽織っているものの、のようにカーディガンを着ているわけでもなし、マフラーや手袋と言った防寒具もつけていない。 昼間は全く必要ないが、夕方からは流石につけていないと寒さに震える事になる。にも関わらず切原は眉を一回しかめるだけで、開いたブレザーのボタンを閉める事はしなかった。 「寒さには結構慣れてるんスよ。副部長が寒風摩擦とか好きなんで、冬の合宿なんかじゃレギュラー全員でやったりするし」 「寒風摩擦? ……さ、真田くんらしい」 「有り得ないと思いません? 仁王先輩なんか、今にも死にそうな顔しながらやってたッスもん」 「仁王くんって寒いの大っ嫌いだもんね」 「逆に丸井先輩は叫びながらやってるんスけどね」 「叫びながらとか……さすが立海」 寒さに震えながら嫌々やっている仁王や、寒さを紛らわす為に叫び、真田に一喝されている丸井の姿が容易に想像できて、は苦笑した。も寒さが得意ではないので、そんな話を聞くだけで更に寒さが酷く感じられる。マフラーに口元を埋めながら、は肩を竦めた。 「そろそろ帰ろうか。もう七時半回ってるし」 「ッスね」 少しでも暖を取ろうとしてテニスバッグを背負いなおした切原の指先に触れると、切原は驚いたようにを見てから、指先だけが触れたの手を取った。 「先輩の手、超冷たい。今まで中に居たじゃないッスか」 「冷え性。手は基本的に冷たいんだよ。さっきは例外だっただけで。逆に赤也くんの手はいつでも暖かそうだよね」 「そうッスかね? あんまり思った事はないッスけど」 冷えた自分の手を暖めるかのように、は指の隙間にするりと自分のそれを絡める。一瞬びくりと切原の指先が止まったが、はあえて切原の顔を見ようとはしなかった。 そのまま自分たちの帰り道の方向に、くんっと引っ張る。切原も何も言わず、の隣に並んで歩き出した。 ほんの少しの静寂。周りは、賑やかな駅前から静かな住宅街へと姿を変えてゆく。あんなにも人が行き交っていた道は徐々に人気のない道になっていき、終いには殆ど人を見かけなくなってしまった。の履いているローファーの足音が、遠くを走る車の音と入り混じる。 殆ど会話らしい会話もしないまま、切原の家が見えてきた。同時にのマンションも姿を現す。の住んでいる部屋の明かりは、当然の事ながら点いてはいなかった。「切原」と表札のかかった家の前で立ち止まって、繋いでいた手をゆっくりと離す。向き合って、別れの挨拶を言おうとした、その時だった。 「先輩」 ぐいっと手を引っ張られて、全くの無抵抗だったはいとも容易に切原の腕の中へ収まった。ひんやりと冷えたブレザーが頬に触れる。驚いてそのまま顔を上げると、刹那唇を塞がれた。 外気の所為で些か冷たく感じられる唇を受け止めて、大人しく目を閉じる。ゆっくりと離れたかと思えば、すぐにまた違う角度で押しつけられ、いつになく積極的な切原の姿に、は内心戸惑っていた。ただただされるがままになっていると、背中に回っていた切原の手が後頭部へ向かう。と同時に、やんわりと唇を舐められた。肩が跳ね上がり、思わず閉じていた目を開く。 真剣な瞳と、真っ直ぐ目が合った。咄嗟に名前を呼ぼうとして薄く唇を開くと、それを見計らったかのように切原の舌が侵入してきた。熱い舌が真っ直ぐにのそれに触れるが、どう応えていいのかが全く解らない。慣れない苦しさに少しだけ眉を寄せて、は切原のブレザーをゆるく掴んだ。 んん、と鼻にかかった声が漏れると、切原は漸く唇を離した。至近距離で、お互いの熱い吐息がぶつかり合う。先程とは打って変わって、切原は心配そうな表情を覗かせた。 「すいません、大丈夫ッスか」 「う、うん。大丈夫。ごめん、ちょっとびっくりして」 「……先輩が悪いんスよ?」 「え……私?」 全く想像していなかった言葉に、は素直に驚いた。目の前で少し拗ねたように眉をひそめる切原を、ぽかんと見つめる。 「先輩は、俺よりも年上だし、大人っぽいし」 「んー……う、ん?」 「俺が恥ずかしくって出来ないことも、先輩は平気な顔してやるし」 待ち合わせした後の手を繋いだ時の事や、先程の事を思い出す。何とフォローしていいのか解らず、は肯定も否定もしなかった。けれど、切原は更に続ける。 「俺はまだまだガキで、先輩には敵わないッスけど。でも、ちょっとは優位に立ってみたいって思ったんスよ」 「優位って……私、赤也くんより上に立ってたつもりはなかったんだけどな。でもそう感じてたんなら、ごめん」 そう言って小さく首を竦めると、切原は普段見せるのと同じ満面の笑みを見せて、の頭を撫でた。確かにの方が切原よりも十センチ程身長は低いが、今まで撫でられた事なんて一度もない。 今日は驚くことばかりだ、と内心考えていると、切原が再度眉をひそめた。 「ほら。先輩、驚いた顔なんて全然しないでしょ」 「そ、そんな事ないって。凄い驚いてるよ。ただ、ちょっと顔に出にくいかもしれないけど」 「出にくすぎッス……柳先輩なんかといい勝負ッスよ」 「柳? 私、あそこまでポーカーフェイスじゃないよ」 あそこまで顔に出ない人も珍しい。仁王もポーカーフェイスとしてはいい勝負かもしれないが、彼は面白いことがあるとすぐに顔に出てしまう傾向がある。それに比べ柳は、何があっても不動だ。ジャッカルが仁王のペテンに引っかかって金髪のヅラを被った時ですら、無表情のまますらすらとペンを走らせていたのだから。 「それじゃあ、そろそろ行こうかな。赤也くんの家はもう、夕飯の支度出来てるんじゃない?」 「ああ、そうッスね」 「じゃあ、また明日」 「ウイッス」 はにこりと笑って手を振ると、そのまま斜め前のマンションに向かって歩き出した。少し前までは切原もマンション前まで送ると言ってきかなかったのだけれど、切原の家から三十秒もかからないのだ。送ってもらうにしても、がそのまま切原の家まで見送り出来る位置にあるから、大丈夫だと諭したのである。 マンションのエントランスへ続く自動ドアの前で、は何の気なしに振り返った。暗がりの中で、先程の場所から動かず律義に立ったままを見送っている切原の姿が見えて、は口元を緩める。そんな切原に向けて、は最後に子どもっぽく手を振ってみせた。
110110 雅
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