少し離れたところで後輩に指導している元部長をぼんやりと眺めながら、私はドリンク作りに勤しんでいた。もうとっくに引退してしまっていると言うのに、私達はまだ、部活という空間から離れられていない。
 冷たい水に指先を震わせながら、今ではもうすっかり慣れた手つきでドリンクの粉をボトルに入れていく。そしてまた、ちらりと視界の隅に映る精市の方を見た。部活を引退した直後から付き合い始めてまだ日は浅いけれど、私達は紛れもない恋人同士である。
 告白してくれたのは精市の方だけれど、お互いの感情の釣り合いがとれているかと言われれば、恐らく、そうではない。精市の気持ちと私のそれを天秤にかけてみることが出来たとしたら、天秤は勢い良く私の方へ傾くだろう。精市は何でもそつなくこなすことができるし、顔立ちも良く、教師からの評判も上々。だからこそ、私は横にいていいのか、時々解らなくなる。
 あの穏やかな笑顔を浮かべる精市は、何を考えているのか解らない。好きでいてくれているか、と言う疑いはない。ただ、お互いのその気持ちが釣り合っているか否かは、やはり少しだけ気になる。けれど、それをわざわざ口に出して問う事はしたくなかった。それだけ負担をかけてしまうことになるし、私自身、重い感情を押しつけたくなかったからである。
 新レギュラーとなった後輩たちのボトルは、まだ真新しかった。今まで家から直接持参していたものから、テニス部のレギュラーのみに配布されるボトルになったのだから、それも当たり前なのだけれど。
 前まで幾度となく触ってきた元レギュラーのボトルは、ひとつを除いてもう残っていない。しょっちゅう落とすブン太の傷だらけのボトルや、丁寧に名前のラベルが貼られていた真田のボトル。少し昔に付き合っていた後輩の女の子から、まるでマーキングされるように可愛いシールの貼られていた仁王のボトルも、一目見て自分のものが解るようにと、一人だけミントブルー色をした精市のボトルも、ない。
 唯一残っているのは、赤也のボトルだけだった。ブン太と一緒で、ところどころに擦った後が残っている。私の知っているボトルはもう、これだけなのだ。濡れたボトルを手に取って、擦り傷をそっと撫でる。その時、ジャリ、と小石が擦れる音がした。
 それに反応して顔をあげると、水道を挟んで正面に、今の今までコートに居た筈の精市が立っていた。精市は普段通りの穏やかな笑顔を浮かべたまま目を伏せて、隠れている筈の私の手元を見る。

。そんなに時間をかけてたら、また手が荒れるよ」
「あ……っと、ごめん。もう終わるから」

 慌てて赤也のボトルにドリンクの粉末を入れて、水を注ぐ。何度か上下に振ってドリンク用のカゴに入れると、それを持ち上げた。が、取っ手を持った私の手首に、精市の手が絡みつく。

「重いだろ? 持っていく」
「え、大丈夫だよ。精市に持たせるなんて、そんな事できないし」

 仮にも元部長で、今は部活中。本来マネージャーがすべき仕事をさせるだなんて、とてもじゃないが出来るわけがない。首を振って断ったものの、精市はそのままひょいとカゴを持ち上げて、さっさとコートへ戻ってしまった。
 距離を、感じた。一度も振りかえることなく行ってしまった精市の後ろ姿を眺めてから、水道に目を落とす。流れっ放しの水に、冷たさの所為で酷く真っ赤になった手の甲を見て、何となく泣きたくなった。


 * * *




 聞き慣れた声で名前を呼ばれて、私は振り返った。そこに立っていたのは、クラスメイトでもあり、かつての部活仲間でもある柳だった。クラス内で会話をすることはあまりない所為か、私は思わず首を傾げる。

「なに?」
「この前言われていたものだ」

 そう言って差し出されたのは、和柄の小さな巾着袋だった。すぐに思い出して、驚いて柳を見上げる。

「えっ? これって……」

 一週間ほど前、私は柳にある頼みごとをした。それは、柳が普段使用している香水――いや、匂い袋についてである。
 その前の日に私は街中で柳と偶然会い、その時に私と一緒にいた妹が、柳の匂いをとても気に入ったらしいのだ。それで、妹に柳に使用している香水について聞いてきてほしい、と頼まれていた。その時に使っているものは香水ではなく、匂い袋を持ち歩いていると聞いたので、良ければ今度作り方を教えてほしい、と柳にお願いしたわけである。
 で、今柳が差しだしているのが、作り方の書かれたメモではなく、匂い袋そのものなのだ。まさか実物を持ってくるとは思っていなかったので、私は思わず困惑してしまった。

「気にするな。元々俺が持っているものも祖母が作ってくれたもので、祖母にこの事を話したら、とても喜んでくれたんだ。趣味で作っているものだから、是非受け取ってほしいと言っていた」
「それじゃあ、お金払うって」
「俺が受け取ると思うか? 祖母も貰ってくれるだけで嬉しいと言っていたから、金は必要ない」

 その言葉に迷ったが、結局頷いて受け取る事にした。柳を説得するのは恐らく不可能だし、折角の好意を無駄にしてはいけないと思ったからだ。小さな巾着袋からは、ふんわりとした匂いが漂っている。普段柳から漂ってくる匂いと全く同じもの。妹はさぞかし喜ぶだろう。

「ありがとう。妹にもお礼するように言っておくね」
「いや、別に構わない。だが、お前はあんまり――」

 柳の言葉はそこで途切れた。教室の入り口で、柳を呼ぶ声がしたからだった。同時にそちらを向くと、そこには何かの書類を手にしている精市の姿があった。
 柳は精市の姿を見るなり少しだけ眉をひそめて、小さく溜め息を落とした。少しだけ気にかかったが、恐らく手にしている書類があまり良くないものなのだろう。私はすぐに目を逸らそうとして、ふと精市から借りていた本の事を思い出した。
 一昨日読み終わって、ずっとロッカーに入ったままなのだ。ちょうどいい機会だから返してしまおうと匂い袋をブレザーのポケットにしまい、ロッカーへと向かった。
 私が精市の元に来た頃には二人の話も終わっていたらしく、柳とすれ違う形で精市に本を差し出す。

「これ、ありがとう。一昨日読み終わったんだけど、昨日返すの忘れてて」
「ああ、うん。は今日、部活行くのかい」
「うん。委員会の仕事があるからちょっと遅れるけど、今日は一年生にスコアブックの付け方教えなきゃいけないから」

 精市が本を受け取ったのを確認して手を引っ込めると、不意に彼が顔をしかめた。普段の穏やかな表情が一変したのを間近で見て、私は思わず動きを止め、まじまじと精市を見つめる。
 彼はふよふよと目線を漂わせた後、酷く不愉快そうに目を細めて、私の腕を掴んだ。

「せ、精市?」
「ちょっとついてきて」

 手の力を緩めることをせず、精市は私を引っ張るようにして歩き始めた。突然の事に動揺した私は、掴まれた腕を振り切ることもせず、ただ黙ってついていくしかなかった。
 始業ベルが鳴り響いたと同時に到着したのは、男子テニス部の部室だった。精市は何食わぬ顔でズボンのポケットから部室の鍵を出して扉を施錠すると、漸く私の腕を離した。そして真っ直ぐに、備品が入っているロッカーに向かって行く。そこには他に、部活を引退した後に新レギュラーにロッカーを譲った精市たちが、部活に出る時だけに使用する予備のロッカーがある。
 何をするでもなくロッカーを漁っている精市を眺めていると、不意にジャージが飛んできた。反射的に慌てて受け止める。綺麗に畳まれたジャージの裾には、「幸村」と刺繍されている。次に飛んできたのは、青いバスタオルだった。これも無事に受け止めたものの、何が何だか分からずに戸惑って精市を見やると、彼もまたこちらを向いていた。

「シャワー、浴びてきて」
「……は?」
「聞こえなかった? シャワーを浴びてきて、って言ってるんだけど」
「な、なんで?」
「何でも。良いから早く浴びてきてよ」

 こんな精市を見るのは初めてだった。彼は無表情のまま、部室の奥ににあるシャワー室へと繋がったドアを指差している。理由はさっぱり解らないけれど、ここで逆らったら後が怖い。私は黙って頷いて、シャワー室へと向かおうとした。

「浴びたら、制服じゃなくてそのジャージに着替えて。それと、ボディソープは一番奥にある青いボトルね」
「え、あ、うん」

 何で、なんて質問はしなかった。無言でドアを開けて、シャワー室に入る。7つに区切られたシャワーの一番奥に向かうと、確かにそこには青いボトルのボディソープが置かれていた。恐らく、ここが精市が使用していた定位置なのだろう。
 制服を脱いでカゴに入れると、髪をまとめてゴムで縛り、大人しくシャワーを浴びた。一体何がしたいのか、全く解らない。それに、あんな精市を初めて見た。何かしてしまったのだろうか。良くない考えがぐるぐる頭を回るけれど、結局原因は解らなかった。

 シャワーを浴び終えて精市に渡されたジャージを着ると、濡れたバスタオルを洗濯カゴに放り込んで、部室へと戻る。ガチャリと音を立てて部室へ繋がるドアを開けると、又もや強い力で引っ張られた。
 何かと思えば、そこは精市の腕の中だった。

「ちょっ……ど、どうしたの」
「俺の匂いだ」
「え?」
はホント、俺の独占欲を煽るのが得意だよね」

 精市は少しだけ身体を離すと、私の目を真っ直ぐに覗きこんだ。澄み切った綺麗な瞳の中に、ぽかんと間抜けな表情を浮かべる私の姿が映り込んでいる。

「な、にが」
「どういう気持ちで、蓮二の匂いつけたまま俺の所に来たの?」
「柳の……ああ、あれは誤解だよ」

 あれは妹がね、と言おうとする前に、ゆっくりと唇を塞がれた。背中に回っていた手がいつのまにか後頭部へ回り、何度も何度も角度を変えて押しつけてくる。
 んん、と声を漏らすと、精市は後頭部の手を更に動かして私の横髪をかきあげ、ぬるりと舌を入れてきた。今の今までシャワーで暖まっていた所為か、精市のそれはやけにひんやりとしていて、思わずぶるりと震えた。
 暫くすると精市はゆっくり唇を離して、にや、と妖艶に笑う。

「理由、言っていいよ」
「え……と、妹に頼まれてて。いや、まさか実物を貰うとは思わなかったんだけど。本当は作り方を教えてもらうだけのつもりだったから」
「ふうん? それじゃあこの前、水道で赤也のボトルを愛おしそうに触ってたのは?」
「……はい?」

 頭をフル回転させて、漸く精市の言っている事が理解できた。けれどどう説明していいのか解らなくて、えーとね、と言葉を濁す。

「あれは……その……私の知ってるドリンクボトル、赤也のだけだったから……」
「赤也のだけ?」
「ほら、新しくレギュラーになった子達のは、新品だし……私が一緒に過ごしてきたレギュラーのボトルは、赤也の以外残ってなくて……引退したんだな、って実感してたっていうか……」

 精市は煮え切らない私の言葉を黙って聞いていたかと思うと、不意にふふ、と小さく笑った。そして、私の頭をゆるゆると撫でる。

は知らないかもしれないけど、俺は物凄く独占欲が強いんだよ。から他の男の匂いがするのも、他の男の事を考えるのも嫌なんだ」
「そ、そうなの?」
「当たり前だろ。は俺の彼女だよ? 俺だけの人でいてほしいって思うに決まってる」

 その言葉に、顔が真っ赤になっていくのが解った。精市もまた、私と全く同じことを考えていたのだ。その嬉しさと恥ずかしさが入り混じって精市の顔が見れなくなってしまい、思わず顔を伏せる。
 すると精市はもう一度だけ笑って、私の耳元に唇を寄せた。

「ねえ、もう一回、キスしていい?」
「そっ……そんな事聞かないでよ……」
「俺はの口から聞きたいんだ。言ってよ」

 男にしては少しだけ高めの声が、私の頭に直接響くようだった。微かな吐息がくすぐったくて、肩を竦める。
 そして、ゆっくりと顔を上げた。真正面に見える、精市の少しだけ驚いた顔。大きな澄んだ瞳を真っ直ぐ見つめて、震える声を出来る限り抑えつけるようにして、小さく、小さく呟いた。

「キス、して?」

 精市は目をまるく見開いてから、唇をつり上げる。いつも通りの、穏やかで優しい顔。そっと顎を持ち上げられて、私は大人しく目を閉じた。



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