「せんぱーい!!」 ああまたか、とは眉をひそめ、溜め息を吐いた。反射的に、少しだけ歓喜の表情が芽生えた心に力強く蓋をする。昼食を共にしているクラスメイト、丸井と仁王が玩具を見つけた子どものような、どこか面白がっているような笑顔でを見る。そんな二人の目線を避けるように、は少し小さめのプラスチックの箸を片手に、教室へ勢い良く飛び込んでくる後輩を見やった。ニコニコと満面の笑みを浮かべ、上下ともジャージ姿のまま真っ直ぐの元へとやってきたのは、ひとつ年下の後輩、切原赤也である。その手にはふたつみっつ惣菜パンとジュースパックが握られているのも、もはや日常だった。 彼はの斜め前の席から椅子を引っ張って来たかと思うと、さも当然のようにの座る席の真正面へと腰を下ろした。そんな切原に、は呆れ顔を向けながらオレンジジュースを啜る。 「着替えてくるか何かしたらどうなの……」 「だって今日先輩5限移動教室じゃないでしょ? いっぱい話してられるじゃないッスか!」 躊躇などひとつも見せない様子で言ってのけた切原に、隣でパンに齧りついていた丸井が忍び笑いする。仁王はさも無関心そうな表情を装ってはいるけれど、切れ長のその瞳が非常に面白がっていることを、は知っていた。 そんな二人に怒鳴り散らしたい気持ちでいっぱいだが、ここは自分の属する教室内で、もしもそんな事をしてしまったら最後、残りの学校生活は肩を縮込めて送らなければならなかった。 「先輩! 今日こそ俺と付き合ってくださいよ!!」 「シツコイ」 「先輩が頷いてくれないからッス!」 唇を尖らせながら、切原は手元のパンの袋を破いていく。大きな口を開けてがぶりと噛みつくその姿も見慣れてしまったもので、もまた弁当へ箸をつける。 切原がこんなにもに執着し始めたのは、一週間ほど前のことだ。 たまたま丸井や仁王と昼食を食べようと思ったらしい切原が、体育の後に傷だらけのままこの教室へとやってきた。その時から三人で昼食を食べていたは初めて切原と遭遇し、膝小僧から流れ出る血を見て、絆創膏を差し出した。たったそれだけの話である。 特別優しい言葉をかけたわけでも、女の子らしい仕草や行動を起こしたわけでもない。そして切原も軽く礼を述べてその絆創膏を受け取り、その後は四人で昼食を食べて、何事もなかったかのように彼は自分の教室へと帰って行った。 それで彼との縁は無くなるだろうと思っていただったが、切原は意外にも次の日から毎日のように顔を出すようになったのだ。 あからさまに好意の言葉を向けられたのも、次の日からである。「先輩、付き合ってください!」なんて大きな声で叫ばれ、教室内が騒然となったあの日が、今では酷く懐かしく感じられる。は当然の如く驚きつつも、「ごめんなさい」したのだ。まさか、名前と顔しか知らないような人と付き合える程、は男慣れしていない。けれど切原は諦めた様子もなく、毎日昼休みに教室を訪れては、満面の笑みを浮かべて告白してくるのだった。 切原は一つ目のパンを食べ終えると、くるりと首を傾げて口を開く。 「先輩、年下無理ッスか?」 「無理とかそういうんじゃなくて……色々飛び越えすぎ」 「飛び越えすぎ? ああ、先輩俺の事知らないッスもんね! そんじゃ今から自己紹介するんで、メモってくださいよ!」 「……何でそうなる……?」 の小さな呟きは、彼の耳に届くことはなかった。きらきらとした瞳で、切原は自分の所属クラスやら、部活や委員会やら、好きな食べ物から好みのタイプまで、まさにマシンガントークと言った様子で喋り始める。半ば聞き流しながら弁当をつついていると、半分笑いの含まれた、丸井の呆れた声が切原のマシンガントークを遮断した。 「何でお前そんなに執着してんだよ。こんな色気もねー女、よく好きになったな」 「丸井、今聞き捨てならない言葉が聞こえたみたいなんだけど」 「ん? 聞き間違いだろぃ」 「ちょっと仁王! 何か言ってよー!」 「俺に話振りなさんな。じゃが、俺はブンちゃんに同意する」 「何と……!」 「へ? 何言ってんスか、丸井先輩。俺は別に先輩に色気とか求めてねーッスよ」 「切原くんも地味に失礼!!」 疲れたように溜め息を吐いて、は最後となったハンバーグのひとかけらを口の中へと放り込んだ。咀嚼しながら、きょとんとした表情で丸井を見ている切原を、半ば睨むような気持ちで見やる。まさか、好意を寄せてくれていると思っていた切原にまで言われるなんて思いもしなかった、というのが正直なところである。 「別に、俺は先輩の顔とか外見で好きになったわけじゃねーし」 「ほう? の取り得は顔だけなのにか?」 「仁王、そろそろ黙ろうか。褒めてんのか貶してんのか解らないよ」 「俺なりの褒め言葉」 「仁王から褒め言葉貰うなんてゾッとする」 「そんなこつ言わんと。俺のありがたーい言葉を受け取りんしゃい」 にやりと唇を歪ませて、仁王は楽しそうに喉を鳴らすと、その長い手を伸ばしての頭をぐしゃりと乱暴に撫でつけた。こうなった仁王に反論しても、良いように言いくるめられるだけである。はそれに抵抗せず、観念したことを知らせるように肩を竦ませて、残りわずかとなったオレンジジュースに手を伸ばした。が、その手は紙パックのそれに届くことはなく、ちょうど中間地点にいた切原に阻まれる事となった。驚いて反射的に切原を見るが、彼は至極真剣な顔をしてを見つめていた。 「な、なに……?」 「先輩、仁王先輩と楽しく話しすぎ。俺、先輩の事が好きって言ってるんスよ? さすがに嫉妬するんスけど」 「え、ちょ、私にどうしろと……」 付き合ってもいないのに、と続けられる筈だった言葉は、喉から出てくることはなかった。掴まれた手首を離すことなく、切原が無言で立ち上がったからである。となるとも自然に立ち上がらなければいけないわけで、ガタン、と大きな音を立ててよろよろと立ち上がった。 今までにない、異様な緊張感と静寂。切原はそのまま教室の出口へ向けて歩き出した。も引っ張られ、状況が把握できないまま歩みを進めて、教室を出る寸前、咄嗟に振り返った。状況を把握できず、ぽかんと間抜けな顔をしたまま二人を見送ろうとしている丸井と、楽しそうにひらひらと手を振りながら笑っている仁王。その瞳には、「結果は必ず知らせろ」とひしひしと書かれていて、は絶句した。この二人に助けを求めた自分が馬鹿だったと、ここまで思い知らされた事はなかった。 昼休みの賑やかな廊下を、切原はただひたすらに進んでいく。漸く辿り着いたのは、人気のない視聴覚室だった。鍵は常に開いているようで、切原は暗幕の中を潜り抜けると、ようやく手を離し、こちらを振り向いた。 「先輩」 「……は、はい」 真剣な表情を直視できなくて、は咄嗟に目を伏せる。いつもの明るい空気を纏う切原の姿は、どこにもなかった。 「今まで、冗談で受け止められてたのは気付いてたッスよ。俺だって、いきなりそんな事言われたら冗談だと思うし。けど、直球で勝負しないと……」 不自然に、切原はそこで言葉を区切った。言いだす様子がないので、は不審に思いつつもちらりと顔を伺い見る。困ったような、情けない表情の切原が、自らの頭をガシガシと掻いて、微かに唸った。 この先の言葉を言うのを躊躇しているようで、は首を傾げる。 「勝負、しないと?」 の声に反応したように、切原はこちらを見つめた。そして、少しだけ恥ずかしそうに、それでも真っ直ぐにを見据えて、口を開いた。 「あの二人に、取られそうな気がして」 「あの二人? ……って、丸井と仁王?」 「ッス」 「いや……ははっ、あはは! それは、さすがにナイ……!」 突然笑いだしたを、切原は少し驚いたような面持ちで見つめ、そして不機嫌そうに眉をしかめた。笑い事ではない、とでも言いたげな表情に、は慌てて口元を押さえる。 「だって、先輩二人と話してる時の方が楽しそうッス。特に仁王先輩」 「そりゃ、1年から付き合いがある仁王と、出会って一週間しか経ってない切原くんとじゃ、対応には差があるって」 「……1年から?」 「うん。仁王とはずーっと同じクラスなの。所謂腐れ縁ってやつ。丸井は、仁王と喋ってたら必然的に仲良くなった、って感じで。二人とも私に恋愛感情なんて持ってないし、私だってそうだよ」 「先輩がそうでも、あの二人がそうとは限らないじゃないッスか」 「あのねえ、女の子をとっかえひっかえしてる二人が、一人の女を傍に置いておくって、相当女として見られてない証拠だよ?」 「でも……」 未だ不安そうな表情を隠さない切原に、は苦笑を浮かべて、軽く息を吐き出した。 「解った。万が一あの二人が私を好きだとしても、私はあの二人を恋愛感情で見ることは絶対にない。私が好きにならなきゃ、恋人関係は成立しないでしょ」 内心、何をこんなに頑張っているのだろうと、疑問に思っていた。切原を納得させる為だけに、ここまで宣言する必要があるのだろうかと。をそこまでさせる理由は、他にあるんじゃないだろうか。どこか客観的に見ている自分に気が付くと同時に、中で燻っていた気持ちの正体に気が付いてしまいそうな自分がいて、は少しだけ動揺した。 「ねえ、切原くん」 「何スか……?」 「私の、どこを好きになったの? 接点なんてほぼゼロだったのに」 「先輩はそう思ってたかもしんねッスけど、俺が1年の時、先輩に手当してもらった事があったんスよ。先輩、2年の時保健委員だったでしょ? 多分その当番か何かで、先輩が保健室にいて」 そうは言われても、一年前の記憶を鮮明に覚えている程、の記憶力は良くなどなかった。少し困ったような、曖昧な笑顔のを見て、切原は慌てたように手を振る。 「あ、覚えてなくて当然ッスよ。俺だって正直、一週間前に先輩と会うまでは忘れてたんで。ぶっちゃけ、保健室で手当てしてもらった時に一目ぼれしたんスけど、先輩、あの日上履きじゃなくてスリッパ履いてて、名前どころか学年すら解んなかったんですよね」 「そ、そうなの?」 「そーッスよ。でも立海の生徒数なんてくそ多いし、探すのも諦めてたんスけど、この前会ってすぐに解りました! ……それじゃ、ダメっすか?」 伺うような仕草で、切原はを見る。正直、切原の言った1年前に関してはさっぱり出てこないけれど、1年も前から知っている上、好意を寄せてくれていたと聞けば、誰だって気持ちが揺らぐものである。はやんわりと首を振って、それを否定した。 「駄目じゃないよ。本当に、私を好きでいてくれてるの?」 「当たり前ッスよ! そうじゃなきゃ、毎日教室通ったりなんかしないッスもん」 嘘などかけらも見当たらない、真摯な瞳。この真っ直ぐな瞳が、は苦手だった。何もかも見透かされてしまいそうで、そしてがっちりと捕らえられてしまいそうで。出会って一週間、という妙な足枷が、の感情を尽く邪魔をしてきた。けれど、今はそれもない。 はふわりと笑みを浮かべて、一度だけ頷いた。 「解った。切原くんのこと、本気で考えるよ。もう無碍にはしない」 それは、自分の中の気持ちを認めることであった。少しだけ驚いた表情を見せてから、心底嬉しそうに笑う切原を見て、はすぐに気が付いた。もう結末は見えている、と。 既に自分は、彼に囚われていた。 逃避からのさよなら
110318 雅
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