ソファに座る恋人が苦しそうに咽た音を聞いて、私は雑誌に落としていた目を向けた。一年前に買ったベージュの皮ソファに腰を下ろした赤也が、何時の間に取り出したのか、私が最近よく買っているメーカーの煙草をひとつ手にして吸っていたのだった。すぐに封が開いたボックスをガラステーブルの上に放置してしまっていた事を思い出して薄らと苦笑いし、フローリングにぺったりと寝そべっていた身体を起こして、赤也の方へ身を乗り出す。涙目のまま未だに咳を繰り返す彼の手元から、紫煙の燻るまだ長いそれをやんわりと奪い取った。 「赤也には早いよ」 「ゲホッ……何言ってんの。俺も、もう二十歳だし」 まるで癖のように口元へ持って行った煙草を離し、煙を吐き出して私は目を丸くする。そして、喉の奥を震わせて笑った。ひとつ年上である私が去年二十歳になったのだから、彼が今年二十歳になるのは当然の事であった。興味を持った子どものように煙草を吸おうとした赤也を牽制する必要は、とっくの当になくなっていたわけだ。 恨みがましそうな目を向けてくる赤也を宥めるようにやんわりと苦笑いして、肩を竦めた。 「そうだったね。でも、スポーツマンは吸わなくていいの」 灰皿を引き寄せて、伸びた灰を落とす。そしてそのまま煙草を押しつけて火を消すと、広げたままの雑誌を閉じて赤也と向かい合った。私の言葉に、彼が一瞬だけ険しい顔をしたからだ。素知らぬ顔をしてソファに沈む赤也に、声を掛ける必要はなかった。目線をふよふよと彷徨わせる行動は、何かを話そうとする前兆の癖だと知っているからだった。彼は行ったり来たりさせた目線を私に向けたかと思うと、ふいと逸らして漸く口を開いた。 「仁王先輩と同じメーカー」 「……何が言いたいの?」 ぽろりと零れ出た名前は私もよく知っているもので、自然と眉間に皺が寄る。私と赤也の間で、仁王の話はタブーに等しい。何故なら、仁王は私のかつての恋人だったから、の一言に尽きる。高校1年から2年までという少し短い間ではあったけれど、確かに関係はあった。それは、仁王の部活仲間であった赤也なら当然知っていること。そして、私と仁王の間に今は何の関係もない事も、両者と親しい関係である彼ならもちろん知っている。 私はガラステーブルに頬杖をついて、上目遣いで彼を見た。 「私と仁王が付き合ってた時、仁王がコレを吸ってた?」 「俺に聞かなくても、知ってるだろ。見てたんだし」 「見てないよ。仁王は、私の前じゃ絶対に吸わなかったから」 赤也がソファの背もたれから弾かれるように起き上がって、まじまじと私を見る。私もきっと逆の立場であったのなら、同じような反応をしただろう。けれど仁王は本当に、私の前で煙草を吸う事をしなかった。高校生の時、煙草を吸っていた事実は知っている。スランプの時や、病んだ時。理由は様々ある。そういう時は決まって、屋上でぼんやり煙草をふかしたり、家のベランダで吸っていたらしい。らしい、と言うのは実際に私が目にしたわけではなく、人づてや仁王本人から聞いた話でしかないからだ。 だから、私は仁王がかつて吸っていた煙草のメーカーを知らない。私が愛用しているものと同じだったのは本当にただの偶然で、クラスが同じだったわけではない私が、今後仁王のメーカーを確かめる事すら困難なのだ。それでも赤也は不機嫌そうに目を細めて、噛みつくように煙草のケースを、私に向かって投げた。綺麗な弧、と言うよりは殆どフローリングと平行に近い形で飛んできたそれを難なくキャッチすれば、赤也は更に不機嫌な様子で再度ソファへ沈み、頭をもたれて見下ろすように私を見た。 「じゃあ、何でそれ吸ってんの」 「何となく。強いて言うなら、パッケージのデザインが好きだから?」 受け取った煙草の箱を眺めながらそう言うと、赤也は少しだけ怒気の含まれた声色で、「へえ」と唸った。思わず顔を上げて赤也を見ると、彼はまるで忌々しいものを見るかのように、私の手元にある煙草を睨んでいる。 「全く同じこと、仁王先輩も言ってたんだけど」 「そんな事言われても……私たち、もう何の関係もないの、赤也も知ってるでしょ」 「知ってるよ。でも、すげーやだ」 赤也はむすっとした顔をしながら、両手を私に向けて伸ばした。すぐに意図が解って、私は自然と零れる笑みを噛み殺しながら、テーブルを迂回して赤也の真正面に立ち、その首元にゆっくりと手を回す。染髪していない黒いままの髪に頬を寄せると、赤也はすがるように私の背中に腕を回して、そのまま胸元に顔を埋めた。私を引き寄せる腕の強さが、彼の焦燥感を露わにしている。 「ねえ赤也、どうしたの?」 「……この前テニス部で集まった時、と一緒の煙草だって気付いたんだよ」 「それで?」 「たまたま、何でそのメーカーにしたのか聞いた。そしたら、デザインの事もそうだけど、一番は彼女と同じだからって」 「彼女と同じ? ふうん、仁王も彼女出来たんだ」 高校を卒業してから会う事もなければ、連絡を取り合う事もしなかった仁王の近状なんて、知るわけがない。赤也から告げられた近状に、何の気なしに相槌を打った後、赤也の態度の意味に漸く気が付いて、ぴくりと頬を引きつらせた。 「ねえ赤也」 彼の首に巻き付けていた手を解いて肩に手を置き、覗き込むように屈む。すると赤也はびくりと肩を揺らして、大急ぎで顔を逸らした。けれどその頬を掴んで無理矢理私の方へ向かせ、にっこりと作り笑いをしてみせる。 「私が、浮気してると思ったのね?」 「だって仁王先輩が、の事超聞いてくるから! 別に、を疑ったワケじゃねーし。ただ、相手が相手じゃん……」 「相手が相手って……赤也は聞かなかったの? 仁王の彼女について」 「怖くて聞けるかっつの」 ぶるりと身震いする赤也に、私はその通りだと首を振った。恋人として傍に置いてもらっていた私ですら、仁王の交友関係やその近辺を深く尋ねることを躊躇するほど、彼は周りに身を明かそうとしない。長年部活仲間として付き合いのある赤也は、恐らく私以上にそれを体感しているはずだ。赤也は興味があれば片っぱしから突っ込んでいくタイプであるから、恐らく自らの身でそれを経験したに違いない。 少しだけ顔を青ざめさせる赤也にくすりと笑っていると、不意に自分の後ろへ回っている赤也の手に、少しだけ力が入ったのに気が付いた。 「なに?」 「……なんかムラムラしてきた」 「は? えっ、ちょっと何して、」 着ていたシャツの中にするりと手のひらが入ってくる感触に、ぞわりと肌が粟立つ。幸い赤也の手は暖かく寒さに震えることはなかったけれど、それでも反射的に後ろへと下がろうとして、それを阻まれた。背中を何度かなぞられて、赤也の肩に置いたままの手に力が入る。 すると赤也はニヤリと口元を歪めて、私の後頭部を引き寄せた。こうなった彼から逃れる術を、私は持っていない。少し乱暴な仕草で口づけられたと同時に、私は肩の力を抜いて目を閉じた。 * * * 「あれ」 「おお」 数年ぶりの再会と言うのは、随分と軽いものだった。お互いに短い驚嘆の声を上げて、次に頬を緩める。地元とは随分と離れた駅前で、私は偶然にも仁王と再会した。彼は遊んできた帰りのようで、肩にレザーで出来た黒のボディバッグを下げている。ワックスで立たせたらしい相変わらずの銀髪も、しんなりと下を向いているように思えた。仁王は私を見るなり切れ長の瞳を細めて、少しだけ嬉しそうに笑んだ。 「久しぶり、じゃの。大学の帰りか?」 「久しぶり。そういう仁王は、遊び帰り?」 「いや、これから飲み会。途中参加で」 「大学生活、満喫してるね」 「お互い様じゃろ」 そう言って、仁王は可笑しそうに唇をつりあげた。顔立ちが少し大人びたことを除けば、何ひとつ変わらない表情。何となく高校生活が懐かしくなって、私も自然と笑みを浮かべる。すると、仁王はふと思い出したかのように私を凝視して、次いで安堵するように笑った。 「今、赤也と付き合っとるんじゃろ?」 「うん。この前、テニス部で飲み会したんだって? 赤也に聞いたよ」 「ほう? ほんなら、随分俺に敵対心沸かせとったじゃろ」 くつくつと喉を震わせて笑い出した仁王に、私は呆れ顔を向ける他無かった。どうやら、飲み会での仁王の行動はそれなりに意味のあるものだったらしい。私の先を促す目線に応えるかのように、仁王はひとしきり笑うと、漸く口を開いた。 「よっぽどアイツは、お前の事が好きなんじゃろうな」 「いきなり何言い出すの?」 「煙草のメーカー、一緒なんじゃろ? じゃけん、その時点で俺に嫉妬しよったぜ、赤也」 「まさか仁王、気付いてて?」 「当たり前ぜよ。俺には可愛い彼女がおるけん、だからこそ吹っ掛けたもんじゃが」 「その彼女さんと、メーカーが同じなんだっけ?」 「おー、そこまで聞いとったんか。じゃが、高校ん頃から吸っとったヤツと同じぜよ」 「そうなの? にしても、赤也を煽るのやめてよね。私がとばっちり喰らうんだから」 この前の出来事を思い出して私が眉をしかめると、仁王はきょとんとした表情をした後、ニヒルな笑みを浮かべて私の肩を叩いた。 「お疲れさん」 「あのねえ……ま、良いよ。赤也に愛されてるって実感したから、許してあげる」 「お前さんも言うようになったのう。お幸せに、って感じじゃな」 「そっちもね」 お互い顔を見合わせて、くすりと笑う。高校時代、別れた直後のあの気まずさなどすっかり姿を消して、私たちの間には和やかな空気が戻っていた。二人同時に自らの腕時計に目を落として、再び目を合わせる。 「そろそろ行かないと。これから赤也と待ち合わせだから」 「おう。赤也によろしく伝えといてくれ」 「オッケー。それじゃあ、またいつか」 仁王は声無く頷いた。穏やかに笑う仁王を見上げると、彼もまた私を見下ろす。懐かしい感覚に浸る余韻を残す暇もなく、私たちは何事もなかったかのようにすれ違った。お互いの進行方向へ進んでゆく。そうして十メートル程進んで、一瞬だけ振り返ろうかと悩んだけれど、すぐにやめた。彼はきっと、急ぐことなんてせずにのんびりと歩いているだろう。そしてまた、私を振り返る事なんてない。未練なんてひとつも残っていないのだと、先程の会話で体感した。それは私も同じこと。仁王に対して、未練など全く残っていない。私が愛しているのは、彼だけ。 思い出し笑いをしてしまった私は、それを誤魔化すように慌てて立ち止まった足を再度動かし、愛しい恋人の待つ場所へと急いだ。 110529 雅
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