――ああ、今日もテニスしてる。
 朝日が真っ直ぐテニスコートを照らしていて、そのコートの中で動き回る部員たちが、まるで用意された舞台の上で好き勝手に遊ぶおもちゃのようだった。はノートに向けて走らせていた手を止めて、ぼんやりと外を見下ろした。目線をゆっくりと動かせば、五秒も経たずに銀髪が目に入ってくる。普段の気だるそうな雰囲気を一変させ、生き生きとした様子でテニスラケットを持ち、コートを駆け回っている彼の姿を少しの間見つめてから、そっと目を伏せた。
 が誰も居ない早朝八時前から、ひとりで教室にいるのは、本当に勉強する為であった。外部受験することを決定したわけではないけれど、可能性はある。だからこそ、その時に備えて勉強していた。ただ、その勉強をするのに自習室ではなく自らの教室を選択したのは、やはりここからちょうど見下ろせるテニス部の練習を、少しでも目に入れておきたかったからの一言に尽きる。

「やっぱり格好いいなあ……」

 もう一度ちらりと目を向けて、はほうと溜め息をついた。の目が捕らえて離さないのは、仁王雅治だった。彼をこうして眺め続けて、もう少しで一年が経つ。2年の時は同じクラスだったのだけれど、今は仁王がB組、がG組と酷く離れてしまっていて、廊下などですれ違うなんて機会は激減してしまっていた。第一、は仁王と殆ど話したことがない。向こうは恐らく、のことなんてもう覚えていないだろう。しかし、は多くを望んでいなかった。友達として知りあう事すら、もはや不可能の域に入っているだろうと思っている。
 その原因は、の外見にあった。すっかり染め抜かれた茶髪と、濃い化粧。瞬きをするたび、つけまつげがふるりと揺れる。もちろん、彼がこんな外見の女を好きになるわけがないし、遊びとして数回遊ぶ程度の付き合いしかしないことは、この1年間彼を観察し続けて解った事だった。けれど、はこれを変えるつもりはない。というより、今更黒髪にすっぴんだなんて、外を出歩くだけでも恥ずかしくてやっていられないのだ。空いている左手をそっと頬に当てる。ファンデーションのしっとりとした感触。

「これじゃあだめだよね……」

 微かに窓ガラスに反射した自分の顔が、あんまりにも『作られた顔』だったものだから、はただ苦笑するしかなかった。もう一度仁王に焦点を移して、じいっと見つめる。遠い遠い存在。会話はおろか、目線を合わせたことだって一度もない。
 進展なんて望もうだなんて思っていない。ただ、嫌われてさえいなければ、それだけで良かった。



 *   *   *



「う、っわ……失敗? 失敗だよねこれ……」

 最近髪の根元に地毛の黒が目立ってきていたから、はある休日を使用して髪を染めていた。これ以上髪を明るくするつもりはなかった為にワントーン落とした色の染髪剤を買ってきて染めたはいいけれど、予想以上に暗くなってしまったのだ。もちろん黒とまではいかないものの、ダークブラウン、という表現が一番似合う色まで暗くなってしまっている。
 鏡に映った暗い髪の自分を凝視して、は重い重い溜め息を吐いた。こんな予定じゃあなかった。昨日、すっかり伸びて横分けにされていた前髪を切り、前に下ろしてしまったのも相まって、鏡に映る自分の姿がひどく幼く感じられる。先程偶然洗面所を通りかかった兄が、けらけらと笑いながら「小学生」なんて爆弾発言をかましてくれる位には、変貌があったのだろう。

「さ、いあく……!」

 午後から出かける予定があったから化粧はしてみたものの、つけまつげがあまりにも似合わなかった。つけまつげを外し、薄くしか塗っていなかったマスカラを塗りたくる。それでも、あまり好きではない垂れ目をカバーすることは出来なかった。今日遊ぶ予定の友達は、そこまで化粧の濃い友達ではないから、隣に並んでいて浮くということはないだろうけれど、違和感が酷い。
 それでも髪を巻いてどうにかしようと立ち上がったところで、一階にいる母親が大きな声を上げてを呼んだ。

ー! ちょっとそこのコンビニで牛乳買ってきてくれるー!?」
「えっ、なんで?! お兄ちゃんに頼んでよ!」
「レポートで忙しいらしいの! アンタはこれから出かけるだけでしょ!? ほら、早く! 急いでるから!」

 母親がキッチンで何を作っているのかは知らないけれど、は内心で舌打ちをしてから、洗面所を出た。もう着替え終わってはいるから外に出ても問題はないけれど、さすがに近所のコンビニまで行くのは面倒である。リビングへ行くと、母親から五百円玉を渡された。それを自分の財布に入れて、携帯を掴み家を出る。
 コンビニは、の家から五分ほど歩いたところにあった。ちょうどの愛読している雑誌の発売日だった事を思い出して、もし売っていれば買ってしまおう、と自分の買い物を頭に入れつつ、コンビニの中へ足を踏み入れる。最初に雑誌コーナーへ向かい、目当ての雑誌を手にしたところで、少し離れたところから、聞き覚えのあるような、ないような、そんな曖昧な声が聞こえてきて、は振り向いた。

「俺今月マジ金欠なんだよ。どうすっかなー」
「先輩っていつも金欠ッスよね。菓子食い過ぎてんじゃないスか」

 目の前の陳列棚が邪魔をして姿を見る事はできないけれど、何となくその声がテニス部の丸井と切原のものである気がして、は、は、と目を見開いた。その二人の声がするのなら。昼の12時を回った今、立海からも最寄りのコンビニであるここで、昼食となる弁当を買いに来ているというのなら。もしかしても、いや、もしかしなくても――  頬を引きつらせて青ざめるを嘲笑うように、あの人の声が聞こえてくる。

「ブンちゃん家は、エンゲル係数が高そうじゃの」
「は? え、何スかその、エンゲルケースーって」
「赤也、お前そんなのも知らねーのかよ。家計の中で食費が占めてる割合のことだよ。つーか仁王、俺はそこまで大食いじゃねえ」
「ほう、そうかの。バイキングで時間が来る前に追い出された男の言う台詞か?」

 心底面白そうな声色に、も自然と口元が綻んだ。けれど、すぐに顔を引き締める。こんなところでばったり遭遇なんて、たまったものじゃない。向こうがの存在を知らないが故に影響は殆どないのだけれど、これは精神面の問題である。
 あの三人が食品棚の前から動く前に、さっさと牛乳を抜き取って清算してしまおう。すっかり立ち読みする気でいた雑誌を閉じて、素早く紙パック系の飲み物が置かれている棚へ向かう。そして絶句した。三人だけではなかったのだ。そこには、クラスメイトである柳蓮二を始め、真田や桑原の姿すらある。彼らは全員ジャージに身を包んでいて、バッグは持っていなかった。どうやら本当に、練習中の昼食を買いに来たらしかった。
(え、うそ、嘘でしょマジこれ勘弁してよ……)
 更に、彼らはが目的としている飲み物の棚の前に立っている。は反射的に踵を返そうとして、慌てて前を向き直した。この3人ならまだマシだ。少なくとも、仁王の視界に入るよりは。そう考えなおして、は平静を装って、ちょうど取りたい牛乳の前にいた真田にそうっと声を掛けた。

「すみません、ちょっと失礼します」
「む、すまないな」

 真田はすぐにの言わんとしていることが解ったのだろう、軽く頭を下げて後ろへと下がってくれた。それに同じように会釈を返しながら、一番手前の牛乳を抜き取ろうとして、ふと手を止めてから、パックの上部に書かれた賞味期限を一瞥し、奥の方に入っていた2日長くもつ方のパックを手に取った。母親と良く買い物に行く時に、母親がよくしていることが移ってしまったらしい。
 後はこれらをレジに持って行って会計を済ませ、さっさと帰るだけ。そう思って今度こそ踵を返そうとした時、が想定していた最悪のパターンを超越した出来事が起こってしまった。

「ふむ。じゃないか」
「……え?」

 の名前を口にしたのは、柳だった。驚いて反射的に振り返り、目が閉じたままの彼がこちらを見ているのを知って、もう一度、えっと言葉を零す。流石にクラスメイトの名前は覚えているらしかった。けれど事務的な会話しかしたことはないし、話しかけられたことはない。何でよりによってこんな時に、とはあからさまに眉をひそめた。柳は薄らと唇に笑みを乗せている。

「この近くに家があるのか?」
「まあ……そうだけど」
「ふうん、そうか。またデータを更新できるな」

 はあ、とは間抜けな声を上げる。柳にデータを取られる覚えはないし、何しろそんなものが何の役に立つのかさっぱり分からない。彼が取るのはテニス部員のものだけだと思っていたから、には柳が何故ここで引き止め、無駄話にも思える話を展開していくのか、全く意味がわからなかった。それでも柳はそれ以上口を開こうとはしなかったので、は頭に疑問符を浮かべながら、それじゃあ、と別れの言葉を述べてこの場を離れようとした。
 けれどそれは、『あの人』の声によって妨げられることとなった。

さん?」
「は、い……?」

 なるべく顔を見られないようにと微かに俯かせていた顔をあげて、柳の奥に立っていた仁王を見る。彼は間違いなく、を見ていた。その目が本当に微かながら丸まっているのを見て、はすぐに自分の姿が、学校のそれとは異なっていることを思い出す。
(ああもう大失態!! 何で今日はこんなに運が悪いの?!)
 顔は至って平然とはしているけれど、内心は大パニックである。寧ろ仁王が、の名前を知っているなんて思わなかった。舞い上がりたいのを堪えて、先程柳が呼んだから知っているだけなのだ、と必死に自分に言い聞かせて、「何か?」と首を傾げた。

「へえ、学校とは随分と違うんじゃの」
「あ、いや……これは……」
「ふうん。そっちも似合っとるよ」
「え? あ、ありがとう」

 仁王が何でもないような顔をして言うものだから、も反射的に礼を述べる。その後に、頬が熱くなるのがわかった。この時ほど、ファンデーションを塗っていて良かったと思ったことはない。
 はどうしていいのか全く解らなかった。仁王がに話しかけたお陰で、更に奥にいた切原や丸井もこちらを見ている。この二人に関しては遠慮という言葉が頭から抜けきっているのか、興味を持った子どものように、まじまじと見てくるので、は居心地が悪かった。

「へー、カワイイ先輩ッスね。仁王先輩の知り合いッスか?」
「2年ん時のクラスメイトじゃ」
って、? あの?」

 丸井が思い出したように目を見開く。まるで芸能人を前にしているかのような口ぶりに、はきょとんと首を傾げた。は全く有名ではないし、しがないただの女子生徒だ。丸井のような学校内の人気者に目を留められるほどの美貌ではないし、何かを成し遂げているわけでもない。それでも彼がそう口にするというのは、何か該当するものがあるのだろう。はその意味を問う為に首を傾げたのだけれど、丸井はそれに気付くこともなく、あ、と声を上げてから、さあっと顔を青ざめさせた。

「ああ、わり、何でもねえ」

 その顔があまりにも切羽詰まっていて、はただ頷くしかなかった。もう全員に顔を見られてしまっているのだ、いっそのこと開き直ってしまおうと、は肩の力を抜く。それでもこの人数を前に、する会話もないので、は今度こそ別れを告げて踵を返した。
 そのまま隣の陳列棚を通り、レジへ向かう。ほんのりと汗ばんだ牛乳と雑誌をわざわざ別の袋に入れてくれた店員に心の中で感謝しつつも、金を払ってそれを受け取った。そしてコンビニを出ようと扉に手を掛けると、後ろから肩を叩かれ、は再三振り返ることとなった。

さん、レシート落としたぜよ」
「あ、そう? ごめん、ありがとう」

 いつのまにか真後ろに来ていたらしい仁王に差し出されたレシートを良く見ずに受け取り、財布に入れようとしたところで、その腕を掴まれては仰天した。先程の褒め言葉といい、今日は驚くことばかりである。

「しまう前に、ようく見ときんしゃい」
「は? う、うん……」

 仁王が何を言っているのか理解する前に、彼はさっさと弁当の陳列されている棚の方へ戻ってしまった。その後ろ姿を眺めてから、はようやくコンビニを出る。早く帰らないと、母親にどやされてしまう。牛乳ひとつ買うのに何でそんな時間がかかるの、なんて小言を言われたらたまったもんじゃない。なら自分で買いに行け、と口を大にして言いたいところだけど、そんな事を言ったらその日の夕飯は抜きだ。
 帰り道を急ぎながら、は手にしたままのレシートを見下ろした。自分の買った商品についてよく見る必要性があるのだろうか。そう眉をひそめてから、はたと気が付く。レシート自体はあのコンビニのものだけれど、買った商品はのものではない。どんどん下に目をやれば、そのレシートの日付が一週間も前のものであることが解った。

「え、なんで……?」

 たまたま床に落ちていたレシートを、のものだと勘違いしたのだろうか。詐欺師と謳われる仁王でも間違う事はあるのか、とは感心したようにそのレシートを見つめてから、ふと眉をひそめた。太陽の光で微かに透けた向こう側に文字が見える。
 くるりとひっくり返せば、そこには案の定文字が書かれていた。急いで書いたのだろうか、走り書きで「メール待ってる」と、一言だけ。その下には、仁王のメールアドレスだと思われる記号の羅列が並んでいる。

「う、そだあ……」

 あの仁王が、まさかメールアドレスを渡してくるだなんて。同じクラスだった時ですら満足に目も合わず、会話なんてしたことのない仁王が、だ。寧ろ嫌われるとさえ思っていたというのに。は思わず足を止め、穴があくほど、じっくりとレシートを見つめた。
(もしかして、頑張ったら、いける……?)
 進展なんて望んでいなかった少し前の自分が信じられない。ほんの少し近付けた気がした、たったそれだけのことで、の気分は一気に高揚していく。
(だって、だって、嫌いじゃなかったら、アドレスなんて渡さないよね?)
 は道端に誰も居ないことを良いことに、口元を緩ませた。まるで夢みたいだ。頭の中では、最初にどうやってメールをしようか、それだけがただぐるぐる回っている。
(運が悪いと思ってたけど……やばい、どうしよう、すっごく嬉しい)
 頬に、手のひらでゆるい風を送る。けれど、頬の熱はまだまだ収まってくれそうにはなかった。上を見上げれば、雲ひとつない青い空がを見下ろしている。
 ――本当に、本当に大好きなの。嬉しさで呼吸が止まってしまいそうになるくらい。
 まだまだ伝えることなんかできないけれど、いつか、もしも自分の中で燻っているこの思いを言葉にして伝える事が出来た時は。その時は、この髪色も、薄い化粧も、悪くはないなあと、そう思えた。何故ってそれは、彼が似合っていると言ってくれたから。




遠いひと


110529 雅